上記各タブの中に、さまざまな詳細項目や、祇園祭、天神祭等の行事についての記載があります。
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祭事等、取材・フィールドワークする中で、地元の方々にとっての生活に、とても迷惑な場面をよく見受けられます。(インバウンドはじめ)
立ち入り禁止区域に立ち入ったり、われ先にと押し合う場面も見かけます。何よりも安全面は存続の可否にもつながりますし、皆様方にとっても危険ですので特に安全面(現場の係りのいうことを聞く)には配慮願います。
地元の方々の祭なのに、地元民が立ち入れなく、行く気も失せる迷惑してるケースもとても多いのです。
どうかマナーを守って、今後も永続できるようご協力お願いいたします。よい真言があります。
「オンニコニコハラタテマイゾヤソワカ」
【葵祭】
葵祭は下鴨神社と上賀茂神社の例祭です。
毎年5月15日には京都御所から都大路を進み下鴨神社、そして上賀茂神社へと行列する「路頭の儀」があります。
総勢約500名、馬36頭、牛4頭、牛車2基からなる行列は約1Km に及びます。葵祭は天皇からの勅祭であったため、先頭列に勅使が、そして後尾に斎王と、大きく2つの列の構成になっています。
葵祭はこの「路頭の儀」のみならず、5月1日の競馬会足汰式から始まってこの15日をもって終わります。
また葵祭の祭事は毎年、上賀茂神社、下鴨神社と交代で受け持ちます。
【祇園祭】
祇園祭は、貞観11年(869)、疫神疫病の退散を願って祇園御霊会に始まったのが起源と言います。その歴史は戦乱で中断はあったものの、1100年以上にも及ぶ歴史があります。
山鉾巡行は一時中断していた日程が、昔のように前祭(7月17日)、後祭(7月24日)と別れ、往時のように復活しました。
また祇園祭の主役、八坂神社の御輿も17日に八坂神社を出発し、四条通の御旅所へ渡御し、24日に還御します。
祇園祭は7月1日の吉符入りから始まり、31日の疫神社夏越祭で終わります。
【時代祭】
「京都三大祭」に数えられる「時代祭」…明治28年(1895)、平安遷都1100年を記念して平安神宮が創建されたのを奉祝行事として行われた時代風俗行列がその始まりである。
明治維新から始まり、江戸、安土桃山、室町、吉野、鎌倉、藤原、延暦と8つの時代20の列に牛や馬を含む総勢約2,000人で構成された、長さ約2Km にも及ぶ行列で、その衣装や調度はち密な時代考証が重ねられ、京都の伝統文化の技術の粋を集めた「リアルな時代絵巻」である。
【春日若宮おん祭】
年末も押し迫った師走、「まつりしまいはおんまつり」と言われるような、「おんまつり」は大和のまつりのその年最後を飾る祭りであるで、奈良を代表する祭りである。
このまつりは春日大社若宮の例祭である。
春日大社本殿の藤原氏の氏神四柱の神殿とは別に祀られた、若宮の神を御旅所へ御遷りいただき、さまざまな神事・芸能が行われ、天下泰平、五穀豊穣、万民豊楽を祈念して大和一国を挙げて行われてきたもので、平安時代(1136)より途絶えることなく、900回近く行られてきた、日本の伝統文化や風俗を今に伝える存在である。
京都・嵯峨嵐山 野々宮神社 斎宮行列
斎宮(斎王)とは伊勢神宮にお仕えする未婚の皇女のことです。この制度は天武天皇の御代に確立し、後醍醐天皇まで約660年間64人の斎宮(斎王)が選ばれました。平安時代には賀茂社にお仕えする斎王も選ばれるようになって、伊勢神宮にお仕えする斎王は「斎宮」、賀茂社の斎王は「斎院」と呼ぶようになりました。
斎宮は天皇の即位ごとに卜定によって選ばれ、野宮にて足掛け3年の潔斎の日々を送り、3年目の秋には伊勢神宮神嘗祭にあわせて伊勢に旅立たれました。野宮を出られた斎宮は桂川で禊をおこない、大極殿で「発遣の儀」に臨みます。天皇は手ずから御櫛を斎宮の額髪に挿して「都の方へ赴き給うな」と別れの言葉を告げられます。伊勢へ向かう斎宮群行(斎王群行)か監送使以下500人の官人官女の壮大華麗な行列で伊勢神宮へと下向しました。
斎宮行列はその様子を専門家の交渉によって再現されたのです。
西宮神社例祭・渡御祭
平安時代の記録に、西宮神社の神輿が和田岬の神幸していた記録が残っています。
その壮麗な神幸は、往路は何艘もの船を幡や幕で飾り、海上いっぱいに渡御をおこない和田岬(神戸市兵庫区)の御旅所では時節の花を飾り、舞などを奉納した後、帰路は馬を連ね陸路をその日のうちに帰っていました。これを産宮(うぶみや)参りと呼んでいました。
安土桃山時代以降中断していた渡御祭は、昭和29年に陸渡御が復活、以来40年間続きましたが、阪神淡路大震災によって一時中断し、平成11年、西宮神社の震災復興も完了したのを機に、復興の象徴として約400年途絶えていた海渡御が氏子町内会、西宮中央商店街が中心となって「西宮協議会」が結成され「西宮まつり」が催されるようになりました。
大阪天満宮に伝わる社殿神楽 「めずらしな」
元々は奈良・春日大社の社殿神楽だったものが太宰大阪天満宮に伝わる社伝神楽「珍しな」府天満宮に伝えられ、大阪天満宮でも独自のアレンジが加えられ、舞われるようになりました。約100年続いてます。
北野天満宮・八乙女 (ずいき祭・御旅所祭)
春日若宮おん祭「神楽」
明治維新は現在につながる近代化日本に大きな改革をもたらしたことは確かである。
その中で、徳川幕府が施策上骨抜きにして存在していた仏教や古来の宗教文化・日本文化は、神仏分離という国学上の思想等、神道の国家宗教化、仏教への激しい排斥運動、さらには西洋文化至上主義の文明開化の波が押し寄せたことで大きく変わってくるのは周知のことである。
日本固有の文化は古いと、新しい西欧の文化を取り入れようと国中が沸き立っていたとき、日本の伝統文化、文化財が軽んじられ、人々はその価値を見失い、危機的状況に陥らざるを得なかった。
それらの日本固有の文化の危うい状況を察知し、文化財保護の必要性を訴えたのは皮肉にも日本人ではなく、ベルツやフェロノサ、アンダーソンン等、当時の政府の西洋化のお雇い外国人だったのである。
ようやく日本政府が保護に動いたの明治28年(1895)に帝国奈良博物館、明治30年(1897)年5月に帝国京都博物館が開館され、翌6月に現「文化財保護法」につながる『古社寺保護法』が成立するのである。その間に打ち壊されたり、流出して海外に売られたりして失われた文化財も計り知れない数であろう。収入をなくした寺院が売却した例も多い。
ドイツ人医師のエルヴァン・ベルツ(1849~1913)は明治9年(1876)、東京医学校の内科医学正教授として26歳の若さで招聘され、明治天皇の主治医も務めた。彼は折に触れて、冷静かつ客観的に見た日本の姿を、ドイツの友人に手紙を送ったり、日記を書き続けていて、当時の状況がよくわかるのである。
ベルツは、ヨーロッパ社会が500年の年月を経て中世の騎士の時代から近代社会へと移行したのに、日本はこの時間を一瞬で成し遂げようとしていると前置きののち、次のように記す。
「ヨーロッパ文化のあらゆる成果をそのままこの国に持って来て植え付けるのではなく、まず日本文化の所産に属するすべての貴重なものを検討し、これであまりにも早急に変化した現在と将来の要求に、ことさらゆっくりと、しかも慎重に適応させることが必要です。ところがーなんと不思議なことにはー現代の日本人は自分自身の過去については、もうなにも知りたくないのです。それどころか、教養のある人たちはそれを恥じてさえいます。『いや、何もかもすっかり野蛮なものでした』とわたしに言明したものがあるかと思うと、またあるものは、わたしが日本の歴史について質問したとき、きっぱりと『われわれには歴史がありません。われわれの歴史は今からやっと始まるのです』と断言しました。」(『ベルツの日記』明治9年10月25日)
フェロノサなどの努力で収集保存された貴重な文化財は、アメリカの「ボストン美術館」の日本文化財のコレクションのような貴重なものばかりであるし、他にも、同国「メトロポリタン美術館」であったり、イギリス「大英博物館」の日本文化財も貴重なばかりで、多くが明治維新の混乱期にその価値を知り、流出、紛失する前に残されたものだ。
その後も太平洋戦争終戦後の混乱期にも多く流出。昭和24年(1949)には法隆寺金堂が火災の憂き目に遭い、その教訓は現在の全国防災訓練につながっている。これらの不幸を多く体験しつつ、昭和25年、新たな「文化財保護法」が成立し、国宝・重要文化財が選別され直したのである。
ここで扱う民俗文化、宗教文化に関しては、有形の文化財に対し、ユネスコ等の世界文化財保護の広がりもあって、昭和29年(1954)には無形文化財として個人や民俗芸能等にも適用され現在に至っている。
先に明治維新の例をあげたが、海外でタリバンの仏像破壊、イスラム国の文化財破壊などニュースを見るにつけ「なんて馬鹿なことを」と人は言うけど、明治維新の廃仏毀釈にしても日本人とて同様の過ちを犯しており、現在も気づかず破壊しうるのであるということを心にとめて欲しいからである。
少々説教臭くなってしまったが、現在は史上最高の観光ブームで、これもまたそのことによって本来の情緒や意義を失われそうなものも、本来意義を知らぬまま改革していくことも実に多い。経済活動が伴わないと運営や費用面での問題もあるし、バランスよく保存しないといけないのだが、それが誠にむつかしい。日本人の宗教観や、祭などの原点に遡ったときの精神を、現在の文化や、あるいは文献、絵画、伝承から原型を探してみたいと思う。
人間は罪深いので、政治や経済(金儲け)に利用したり、お遊びや娯楽や見世物(観光)に変質させてしまう。
かつて歴史もそうであったし、ただ信仰だけでなく「ハレ」は付随してほかの楽しみも伴った。今もそれは同じであるが、変化のスピードがあまりにも早く、「時代だから」の言葉が先行し、過去の変化のように根源が残されたものではなく破壊されようとしているといっても過言ではないと思っている。
経済は大切ではある。
しかしいつか今より経済が苦しくなったり、少子化で担い手が少なくなった場合、何を残し、何を省くか、古来より続く伝統文化を未来の精神を残すのが私たちの役割なのである。
観光、インバウンドといったものの経済面はずっと表に出て重視するが、国と国の事情によって時に往来のなくなる歴史もあった。
私は今のインバウンドに危機感を感じるのは目先にたやすく儲かるものと競い合い、本来意味を失いつつあることである。
外国人に罪はなく、ただ日本の日常を知りたくて市場や街頭などに殺到すると、商店などは本来日本人相手に売っていた商品を奥に引っ込め、外国人受けする物を店頭に並べるところも出たりする。地元民の足が遠のいてきて別の場所へ行くようになり、観光商店街になってしまたところもある。まして、観光も今は交通アクセスがいいので日帰りも増えた。本当は、外国人にも、真のおもてなしを考えてお迎えし、日本人に対しても同様に確実にファンを増やす努力をしないといけないのではないだろうか。
私が伝えたい日本の伝統文化・無形文化財もしかりなのである。
自分は発信力もないし、すべてを拾えるわけでもなく、ほかのさまざまな見方や意見もあると思う。しかし、なんら関心もなく過ごされてきた人も圧倒的に多く、少しでも立ち止まっていただくことを切に願っている。
どうか日本の伝統ある文化が、規模の大小問わず本来意味を残して厳修されることを願うばかりである。
KOBE MEET TRIP 南山僧都 佐伯 浩道
※奇しくも令和二年二月ころより「新型コロナウィルス」が猛威をふるい、観光産業も、祭事においても大きな打撃を受けている。
今、様々見直す時期ではと前向きにも捉えたい。
もし今後、行事の縮小や収入源になるとしたならば、本来はどうすればいいのか、またこういうことは病気のみならず、国交も微妙な政治的かけひきや最悪の場合戦争でも分断される。「諸行無常」なのである。目先のことにとらわれず長い目で考えていく時期なのだと思う。
【民俗学との邂逅】
私の学生時代は国史学を専攻、学習し、また僧でもあったために仏教学を学んできました。
その頃、民俗学というものはどういうものか、私にとっては理解ができていませんでした。どうしても、我々が日常に学び修行し、経論律の三論など教義などの観念をもって考えるのですが、仏教や神道が教えることと相反するものが多かったり、どうしても説明を付けることができなくて違和感があったのです。
今考えれば、上から目線で見ていたのかもしれないと反省したりします。
インド・中国から伝わった仏教にしても、日本の古来の信仰から発達した古神道にしても、その様子は「記紀」「六国史」のような公式記録、貴族の日記などからもとても史料的に参考になります。しかし、古代から民衆たちは数多く生活してきたけれど、当然ながらそのような名を持たない民衆たちはそのような日記などの記録は残しませんから見えにくい場合もありますが貴重な伝承・風俗・習慣として残っています。現存の史料も見つつ、歴史も考慮し、現存する祭事や縁起も参考に、総合的に考えていかないといけないと思います。
もちろん仏教・神道の教義・概念も大事ですが、時に現在、公式に書かれていることに反する場合も多くあってよく考えないといけないこともあると思います。(自分自身の中では理屈が合わず違和感を持ったことも多くあって白状します)。もちろん異説も出てくるでしょう。
しかし、近年においても京都のお盆(精霊迎え)などは、祇園祭などの喧騒とは違って昔ながらにお寺に出向き、ご先祖、精霊をお迎えします。信仰が生きているのです。一つのお寺の宗派、住職などは、真言宗、天台宗、浄土宗、臨済宗と目まぐるしく変わってきたけど、民衆には関係なく同じ場所に信仰を持ち続けたのです。このようなことに出会って、都だけでなく、地元の祭事を見てみると、同じように古い信仰、日本文化の根っこが残っていたりするのです。
私は、学生たちが積極的に主導する「よさこい」などは、歴史はとても新しい文化だけど、日本的な精神(着物であったり、歌舞伎など和的なことをテーマに取り入れたり)と踊りと音楽がアレンジされて融合した新しい文化で、新たに創出される日本文化としてとても応援したいと思っています。
しかし、文化伝統は時代に合わせて変わってはきますが、今までどこか古来よりの芯の部分が残しているものです。今の文化への関与のスピードは早すぎて、肝心な部分であったり、元からの精神も失われようとしています。それは平成の大合併で、全国各地の市町村合併が行われ、全国の半分以上の村が合併されてしまいました。町や村をまとまったひとつの行政となり、国家経済、企業経済、そして地方行政として分離すれば管理しやすくはなるとはなると思いますが、残念ながらそのような簡単な線引きでは済まないのが元来の土地で、その土地における鎮守や檀那寺の行事で村が分断されると存続が危なくなってくる。このようにあまりの強引の合併で村の「寄り合い」「結」などの結束は弱まったであろうし、それは単に若者の減少ということばかりでなく、都会への流出拡大や、消滅可能都市という地方の減退に繋がってしまったのではと思います。大都市に暮らすようになって世代が変わっていくと、当然、しきたり文化の担い手もなくなるし、日本文化の本質までも消滅していくのではないか思います。
本当の地域活性化とは、地元の文化を共有し、そのことでその土地に暮らす「安心」「誇り」を持つことができるものだと思います。土地の者たちの意識の共有が地域活性化となり地域経済が回るスモール経済圏があります。
いくらグローバルになって、世界中と文化が共通になっても、日本文化伝承の基礎基盤をしっかり残し日本人のアイデンティティを大事にしてほしいと思っています。たんに見た目の派手さや目先の観光の経済波及も大事なのかもしれませんが、正しい文化のありかたを見直していただけたら。だって、古くからの日本文化を捨ててしまうのはあまりにも「もったいない」です。
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