湯立神事

(湯立神楽)

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湊川神社(神戸市中央区)初午 湯立
湊川神社(神戸市中央区)初午 湯立
諏訪神社の初午・湯立神事
諏訪神社の初午・湯立神事

湊川神社御火焚祭の湯立神楽
湊川神社御火焚祭の湯立神楽

 

【湯立神楽概論】

 

「湯立て」の神事と神楽が一緒になったもの。「湯神楽」「湯花神楽」ともいう。

主に陰暦十一月に行われることが多く、陰暦の異名をつけて「霜月神楽」ともいう。

今は、各社例祭の前などに清めの意味で行われることも多いと聞く。

湯立神事は、巫女や神職が煮えたぎる釜の湯に笹の枝葉を浸して、そのしぶきを浴び、神憑りとなって託宣を述べる。神霊の神意を問う神事であるため「問い湯」ともいう。

古く罪人の罪の判別を神意に問う「盟神探湯(くがだち)」が起源という。湯立は本来、巫女や神職の浄めで湯を浴びたが、それが疫病除けや虫よけなどの祓のまじないとして効験があることから参拝者にも湯をかけるようになった。

 

【湯立神事】

 

 

もと西域の古法ある由を後周の僧義楚が誌している。梁の蕭子顕撰「南斉書」扶南国にはその風俗をくわしくのせる。

 

天野信景「塩尻」四十七に

 

「唐(もろこし)にてハ大切の山神なと祭るとき合湯を用ゆ。合湯とハ湯と水となり。能(よき)かげんの湯は清浄也」

 

 

日本における古い記録としては、

 

『日本書紀』巻十 応神天皇九年夏四月の条

 探湯(くがだち)

熱湯に手を浸し、罪なき者には障りはないが、心やましきこともあるものは直ちに手が焼きただれるという法。

この時、武内宿禰と讒言をしたその弟の甘美内(うましうちの)宿禰と争って、武内宿禰が勝った。

 

『日本書紀』巻一三 允恭天皇四年秋九月の条

氏姓(うじかばね)を偽るものが多く、姓氏紛謬し、尊卑決しがたく、上下相争い、百姓安からずあったので盟神探湯が行われた。

是に諸人各木綿繦(ゆうたすき)を着けて釜に赴き、探湯した。

「盟神探湯、此ヲ区訶詑智(くがだち)ト云フ。或ハ埿(うひじ)ヲ探リ、或ハ斧ヲ火ノ色ニ焼キテ掌ニ置ク」

 

『古事記』の同じ条にも記載がある。

 

探湯とは別にいわゆる湯立も早くから全国的に行われていた。

しかし文献上に見えるのは、ようやく貞観年間(859~877)になってからである。

 

『儀式』 園 幷 韓の神祭儀の条

御神子先ヅ庭火ヲ廻リ湯立ノ舞ヲ供ス。次ニ神部八人共ニ舞フ

※実際の湯立てではないが、廻 庭火とあれば、その舞を形ばかり演じたと思われる。しかし、その当時すでに湯立ては行われていたと考えられる。

 

実際の湯を立てたと思われる文献は鎌倉期以降になる。

 

『北條九代記 二』 延宝三年(1675)の刊本

頼朝の息女乙姫の病悩の条

「佛心の御力をひとへに頼み奉るとて鶴岡を初めて神社に使を立てられ、百燈百味神楽御湯をまゐらせらるるに、託宣のおもむきいつれもよろしからずと申」

 

『吾妻鏡』 十五 正治元年(1199)3月~6月の条

姫君病悩、諸社祈願、諸寺誦経の由 (神楽御湯のことはない)

 

源実朝『金槐和歌集』

「里みこか 御湯たて笹のそよそよに なひきおきふし よしや世の中」

 

備前一の吉備津彦神社

康永元年(1342)奥書 「一宮社法」(吉備津彦神社史料文書篇)

「ミ子、法者衆湯立かままわりと申事ハ、旦那〇あつらゑ祈念、次第ノ物也。社家衆かまいハなし」

文明三年(1471)奥書 「総社家社僧中神前御祈念之事等注文」神前祈念之事の項

「御湯立ト云フノハ檀那ノ好ミ次第タルベシ」

 

『親長卿日記』 文明三年(1471)五月十八日条

『晴富宿禰記』 文明十二年(1480)二月二五日

『孝亮宿禰記』 文禄四年(1596) 十一月晦日条

各条に湯立の記事がある。

文禄四年の条 太閤不例の祈祷として十二釜が立ち、同十二月一日には七釜が立った

 

正徳六年(1716)刊 春鶯郭玄『本朝怪談故事』巻二 吉備津宮釜鳴の条

「備中国吉備津ノ宮ノ内ニ釜アリ、諸人祈ル事アレハ巫人集リテ沸湯(ほっとう)ヲ竹葉ニ浸し、以テ巫ノ身ニ灌グ、其時祈リアル者試ト。

思テ四と粢(しとぎ)ヲ器ニ入レテ備時ニ祝子等唱ヘテ祝シテ燃(たく)ㇾ芝ヲ、其時彼釜ノ鳴事宛モ牛ノ声ノ如シ、是ヲ以吉事トス、又祈ル事凶事ナレハ且テ不ㇾ鳴、諸人奇怪トス、世人ノ宮ノ釜鳴ト云フト神社考ニ見ヘタリ・・・春鶯按ニ、神前ニ釜ヲ置キ湯ワカシ、巫人等竹葉ヲ以テ浸ㇾ身、是レヲ俗ニ湯立ト云、何レノ社ニモ巫覡ノ輩ノスル事也」

(湯立と釜鳴と両方おこなわれる)

(釜鳴は病人祈禱や祓に行うといわれる<本田安次「民俗芸能探訪記」>)

 

 

『本朝怪談故事』巻四 瀧神火走祭の条

泉州日根郡瀧大明神ノ祭り尤モ奇也。神前ニ神官集リテ、十一月ノ頃中ノ戌ノ日ヲ以テ庭燎ヲ燃(タキ)、太鼓ヲ鳴、巫覡ノ輩ヲ酒ヲ酌(クミ)、舞歌シ、其後巫女ハ熱湯ヲ汐(クミ)テ竹葉ヲ以テ己カ身ニ浴シ、覡ハ火ノ上ヲ走ル、故ニ世人ハ火走祭ト云・・・按ルニ巫女ノ輩熱湯ヲ浴スルハ何レノ神前ニモ湯立ト號シテ行ヘリ」

(湯立といわゆる火生三昧、火渡りが巫覡によって続けて行われた例)

 

特異な湯立 出雲・美保神社

文化三年(1806) 昌東舎真風著『諸国周遊奇談』

「此祭禮の日大なる湯立の釜ありて水八分いれ焚立て湯王のたつ時の其年の新神主浄衣自無垢風折鳥帽子着したるままにてその湯釜へ入れて煮るなり。介抱の前神主数人ありて皆其加減を見て息絶たりと思ふ時四五人にて釜より出し、神前の荒菰の上にねかし置くなり。しばらくして生かへり起きたる時に拝殿までかき出して幣帛を持せ平伏す。其時近国参詣の老若男女大勢群衆して心得たる人々は皆々神託を書き留めたるに紙矢立を持参しまちひかえ居る、彼一年神主幣を振る 三々九度 七 五 三 その事済て其一年中の作の善か病などはやる事一々神の告あり、其事終りてその服着へて家に帰るなり。但しいつにても願主有て祈願相たのみ神託を願へば、右の通り湯立して、一年神主を釜に入れ、祭禮のごとくして神託を告るなり。此初穂金七両貳歩なり。是もとりどり船かたよりあるなり」

 

【湯の華献上のこと】

 

陸前の法印伝

湯立 → 湯の華献上、湯立神楽とよび祈禱の一形式である

湯の花は普通は湧きたぎる湯玉を称しているが、ここでは笹で振り散らすゆえと解されている。

 

修験道「切紙伝法別伝七ヶ條」(秘伝伝授)

  祈雨法、飛行法、剣渡法、火生三昧法、陰形術伝、不動金縛法、「湯立大事之事」がある。

 

 

「湯立神楽之大事」

 

先ず神社なりお堂なりの境内に、一斗五、六升だきの釜を、その時々の信者の数により数箇乃至10数箇を横一列に、それぞれ生木三本を支えにした上に設え、下から火を焚いて、湯をいっぱいに煮沸させる。釜の手前に別に設えた祭壇があり、その前に修験者たち大勢が並び密法を一心に誦す。

「法の力をそのまま湯が立ったと思う頃」、一同のうち一人が単位一枚になって笹を両手に持ち、並べられた釜の周囲を幾回となく走りめぐり、めぐりながら笹を次々の釜の湯にひたしては是を頭からかぶる。かくてその者がへとへととなった頃、つれ戻して壇上にねかし、後周囲の信者達一同がそれぞれの釜の湯を笹をもてかぶる。同じ湯立の法にも13の流儀があるという。

また、この湯立は、いわゆる神楽に付属させて、その最初、中休み、あるいは最終に演ぜられることも普通であった。すなわち、神楽に3つのお釜が献納されることになったといえば、神楽の始まる前、あらかじめ神楽の舞台前、もしくは傍らの適当な場所にそれぞれ太い栗の生木3本を支えに、3つの釜を設え、焚火の準備をしておく。適当の時分に火を入れさせる。この火を焚く者は、もとは必ず両親の揃った者で、3日間の精進をさせた。宣き頃、法印の一人が煮沸せる釜の湯に向かい、火をすっかり遠ざけさせ、心経を一心に誦する。また光明真言の文を唱える。あらかじめそれぞれのお釜に神明を書きつけた装束、あるいは「おあみはんじょう」「大漁あみのおかまあげ」「言代主のかま」「蛭子の尊のおかま」などと誌したものを結びつけておくが、このときこれを取って湯をひたし絞り試みる。たとえば信者の中に不浄の者が交っていたりすると湯がなかなか冷めず、手がつけられないことがある。その時はさらに祈禱をしなおす。かくて笹を一握りずつ両手に持ち、湯にひたして我身並に周囲の者に振りかける。

(安田安次『陸前濱の法印神楽』)

 

以上は、奥の修験・法印の手で行われた湯立であるが、近畿地方の宮座では神職や園市(巫女)によっておこなわれる。

浪速神楽

御湯、湯上祭などとも呼ばれ、京都府相楽郡木津町木津の例によると、10月16日、本当の家では台所の庭に高さ一尺三寸ぐらいに芝を積んで臨時の竈を築き、中央に大釜を据える。神職と園市とが来て御湯が始まる。神職が祝詞を奏し、園市は竈の前に敷かれている荒薦の上に立ち、笹葉で御湯を上げる。太鼓と調拍子が奏される。

(井上頼寿『京都古習志』)

 

10月11日(現在10月体育の日の前日)、京都市左京区八瀬秋元町、秋元神社の祭りに午前、大原巫女によって、同社の前で神楽と湯立とがある。神前には餅と神酒と昆布が供えられ、その石段を下ったところに大釜が二つ設えられ、湯が湧かされる。その後に少し離れて一間四方ほどの舞台を設け、四方に忌竹を立て、これに注連縄をめぐらす。はじめは巫女が太鼓と銅拍子の囃子で巫女舞を舞い、舞台を降りて衣装をかえる。すなわち白衣・白袴・赤の襷がけになり、始め右方の釜に対して湯鎮めの法あり、後、笹二束をとって、その先を左方に拝し、両手にとりわけて順逆二度ずつ廻って拝し、笹で湯をかきまわし、拝し、前方に湯を注ぐ。また湯をかきまわしては湯をかけて振る。これを繰り返し、拝して終わる。次に同様に左方の釜の湯の湯立にうつる。

(本田安治『神楽』)

 

伏見稲荷にも巫女の家が一軒あり、神楽も湯立もつとめていたという。

湯立は神楽殿の前の松の木の下などで、本社の方を向いて行なったというが、大釜に湯をたぎるまで湧かし、まず神楽をあげ、御幣を湯でかきまわし、祈禱の後、笹で振りかける。また自らも浴びる。

よく元日の夜の明けぬうちから行なった。20も30も申し込みがあった病気平癒、月々の祈願などを行うことが多かったという。

(詳細不詳)

 

 

こうした例は全国的に各所をあげることができるが、神楽と湯立が一つになって、それも盛大ないわゆる霜月の湯立神楽が組み立てられたのは、伊勢の神楽が初めてではないかと思われる。