加筆中

 

 

恵比寿は広く福の神として信仰されている。

しかし恵美須神は、いったいどのような神なのか、様々な研究者の中からも決定的なはっきりとした結論が出ていない。

古くはエビスといい、今でいう外国人、異郷から来臨して人々に幸福をもたらす「寄神」「客神」という信仰が古くから信仰されてきた。

中国では「夷狄戎蛮」といわれる、東西南北に「四戎」という中華から見た外にいる異民族のことで、日本人の信仰ではニュアンスは異なるものの、「戎」は遠い異郷からやってきた「より来る神」なのである。

 

恵比寿神は漁民の信仰も深く、全国の多くの漁村でも祀られている。

恵比寿は「よせ来る神」であり「客神(まろうどがみ)」である。

漁村など沿岸部では、クジラやサメ、イルカなどを恵比寿と呼んで崇敬する風習が全国でみられる。魚群を浜岸近くに追い寄せてくれる大魚、海獣が豊漁をもたらしてくれるものとして信じられたからである。

また水死体をエビスと呼びと呼んで手厚くもてなす風もあり、恵比寿が漂着神として意識されていたからだろう。伊豆大島のほうではこの恵比寿社が多いようだが、そういった水死体の墓である場合が多いと柳田国男翁が話されていたそうである。

また「言霊の習俗」といってよいかと思うが内陸部では「成木責め」という習俗がある。熊野のほうで水死体があると「えびすさま」と言って魚運を授けてくれると喜び、船に引き上げるとき、成木責めと同様に、「漁を授けるか」と問い、一人が「引き上げてくれれば必ず漁を授ける」などのように答える風習があったという。

内陸部では山の神を恵比寿といところもある。田の神・山の神とともに季節で往来する神(山から下りてくる神)だから客神として恵比寿の信仰と重なったのだと思う。

恵比寿をまた市神として信仰され、都市部では福利をもたらしてくれる神として商人層に広い信仰の地盤をもっている。

 

恵比寿が全国に広がっていったのは、主には西宮恵比寿の神人の活躍によるところが多い。エビスカキ(人形舞)という傀儡舞の芸能を携えて全国を廻った。

「西の宮の恵比寿三郎左衛門尉、生まれ月日はいつぞと問えば、福徳元年正月三日として信仰されている。

 

しかし恵美須神は、いったいどのような神なのか、様々な研究者の中からも決定的なはっきりとした結論が出ていない。

 

古くはエビスといい、今でいう外国人、異郷から来臨して人々に幸福をもたらす「寄神」「客神」という信仰が古くから信仰されてきた。

 

中国では「夷狄戎蛮」といわれる、東西南北に「四戎」という中華から見た外にいる異民族のことで、日本人の信仰ではニュアンスは異なるものの、「戎」は遠い異郷からやってきた「より来る神」なのである。

 

 

 

恵比寿神は漁民の信仰も深く、全国の多くの漁村でも祀られている。

 

恵比寿は「よせ来る神」であり「客神(まろうどがみ)」である。

 

漁村など沿岸部では、クジラやサメ、イルカなどを恵比寿と呼んで崇敬する風習が全国でみられる。魚群を浜岸近くに追い寄せてくれる大魚、海獣が豊漁をもたらしてくれるものとして信じられたからである。

 

また水死体をエビスと呼びと呼んで手厚くもてなす風もあり、恵比寿が漂着神として意識されていたからだろう。伊豆大島のほうではこの恵比寿社が多いようだが、そういった水死体の墓である場合が多いと柳田国男翁が話されていたそうである。

 

また「言霊の習俗」といってよいかと思うが内陸部では「成木責め」という習俗がある。熊野のほうで水死体があると「えびすさま」と言って魚運を授けてくれると喜び、船に引き上げるとき、成木責めと同様に、「漁を授けるか」と問い、一人が「引き上げてくれれば必ず漁を授ける」などのように答える風習があったという。

 

内陸部では山の神を恵比寿といところもある。田の神・山の神とともに季節で往来する神(山から下りてくる神)だから客神として恵比寿の信仰と重なったのだと思う。

 

恵比寿をまた市神として信仰され、都市部では福利をもたらしてくれる神として商人層に広い信仰の地盤をもっている。

 

 

えびすかき ー海中から現れた神ー

 

 

恵比寿が全国に広がっていったのは、主には西宮恵比寿の神人の活躍によるところが多い。エビスカキ(人形舞)という傀儡舞の芸能を携えて全国を廻った。

 

「西の宮の恵比寿三郎左衛門尉、生まれ月日はいつぞと問えば、福徳元年正月三日、寅の一時、まだ卯の刻になるやならずに、やっすやっすと御誕生なあされた・・・」などと。

 

神の生い立ちを述べ立てて、門付け芸などとして恵比寿信仰を広めた。

この恵比寿はまた、日本の操り人形、人形芝居の源流となった。

 

(西宮の恵比寿については後述)

 

 

えびすかき。

漁師の網にかかってあがるえびすさま。そして神になって西宮神社に鎮座します。

 

 

事代主命 ー出雲漁業の神ー

 

大国主命の子神、事代主命である。

蛭子神とともに恵比寿(戎)として祀られている。このえびす神も海の果てからやってきて福を授けてくれると信じられている。事代主命は、古くは大国主命と対となって祀られる。大国主命を農業神、事代主命が漁業の神と信じられていた。古代の人にとっての主食は農業で、漁業は副食になるので農業神より格下とみられていたので、子神の事代主命が漁業の神に当てられたのだろう。

 

事代主命は、漁民の多い出雲の美保神社(美保関町)から起こったとされている。

美保神社は『延喜式』(平安時代)に書かれていて、事代主命を祀る。

出雲氏が出雲地方を支配し、大国主命を氏神としたとき、美保の首長が祀っていた神を漁業の繁栄を取り仕切る大国主命の子神にしたのではないかと推測する。

 

事代主命は、海の果てに住む神々の世界からの指令を伝える役目を受け持つとされている(記紀)。

大国主命の国譲りのなかに、事代主命が高天原からの使者の言葉を聞いて、海の彼方へ去ったとする記述がある。そこでは地上の支配権を、皇室の祖先に譲った事代主命が、人々の住む世界から身を隠したという。それでも人々は、海の彼方から人々を助けにやってくると信じられ、「えびす神」として祀られるようになったのである。

 

各地に事代主命を恵比寿神として祀る神社も多い。

漁業の神、航海の神、商売の神などとされる。

江戸時代、七福神信仰が広まり、大国主命と事代主命を「大国・恵比寿」として祀られた神社も多い。

 

 

蛭子(蛭児)神

 

蛭子神は、事代主命とともに恵比寿神として福の神と信仰される。

蛭子神を祭神とする恵比寿信仰の中心地が西宮神社である。

社伝では、伊弉諾尊と伊弉冉尊とが葦船に乗せて海に流した蛭子神が和田岬(神戸市)に流れ着き、西宮に鎮座されて恵比寿神となったとする。

伊弉諾尊と伊弉冉尊が国生みで、妻が先に伊弉諾尊を誘ったために生まれた子供が出来損ないの蛭子が生まれたという。 蛭子は骨のないクラゲのような姿をしていて、三歳になっても足が立たなかったので海に捨てられた。しかし西宮の人々は、この蛭子を海の果てから来た見慣れない姿をした神(恵比寿神)として祀ったと言われている。

この時、蛭子神に戎三郎殿という名が与えられて、その名前がのちに「戎大神」に代わったという。

 

※十日えびす

 

海から来た戎大神=豊漁、航海安全の神として祀られる。

室町時代、西宮の近隣、大阪湾沿岸の都市が瀬戸内海の交易によって栄えると、航海安全の西宮の恵比寿(戎)神が商売繁盛や金運をもたらすと信じられるようななった。江戸時代に大坂が商業都市として栄えると、航海安全の西宮の恵比寿を篤く信仰されるようになっていく。

 

商売繁盛の神、または恵みをもたらす神として、農村・漁村・都市部と広まっていったのは、人形を操った芸能の「えびすかき」「えびす廻し」を、西宮の傀儡子が全国を廻っていったことが広まっていった原因である。

小さな箱に入った人形を首から下げて、夷神のご神像を模した人形を操って諸国をめぐり、人形を躍らせたあと西宮神社のお札を配ったのである。

この「えびすかき」は、現在、文楽・浄瑠璃といった民俗芸能としても伝わりユネスコの無形文化遺産として認められるにいったのである。

 

 

江戸期における灯台 下方に西宮、大坂湾を望む(神戸市東灘区 保久良神社)
江戸期における灯台 下方に西宮、大坂湾を望む(神戸市東灘区 保久良神社)

 

※十日えびす

 

海から来た戎大神=豊漁、航海安全の神として祀られる。

室町時代、西宮の近隣、大阪湾沿岸の都市が瀬戸内海の交易によって栄えると、航海安全の西宮の恵比寿(戎)神が商売繁盛や金運をもたらすと信じられるようななった。江戸時代に大坂が商業都市として栄えると、航海安全の西宮の恵比寿を篤く信仰されるようになっていく。

西宮神社の神人は室町時代以降、各地を巡って徳を説いた。彼らは人形芝居を用いて神徳を語ったのである。

このように西日本を中心に蛭子神を祀る神社が広まっていく。そのように江戸時代の大坂の商家にとって正月十日の恵比寿祭(十日戎)は欠くことのできないものとなっていったのである。

恵比寿棚を作り、札をもらって正月十日にそこへ鯛を供えた。この十日戎の日に福をもたらす縁起物の笹が売られ、100人以上の参拝者が集まるのである。

※関東での酉の市はまったく別物である。

 

 


 

 

【より来る神と夷神】

 

10月10日、20日に夷講を行う事例は多い。

これは東国に多く、東北から関東、信州、中部地方まで、旧10月20日に夷講がほとんどの家で行われていた。

関西では正月十日に十日戎が行われるのが一般的で、これらは、村で行われる夷講と、神社の祭礼として行られるものとあるが、ともに夷神(恵比寿神)を祀ることは共通している。

 夷講には「百姓戎講」と「商人夷講」があった。

「百姓夷講」は夷神を「山の神田の神」と同じと考え、収穫祭、刈上祭の一つとしていたようなのである。地方によっては、百姓は10月10日、「大根の年取」または「大根の年夜」といい、田の神へ大根を供えた。10月20日にも「大根の誕生日」といって田の神を祀っている(新潟、長野など)。百姓の夷講は山の神を通した先祖祭であったと言っていいと思う。

これらのことはのちに考えていきたいと思っているが、どちらにしても10月20日の夷講は家々での祭で、また講するからには同信者同志の寄り合いがあったはずである。同族や家族の寄り合いとして同祖の祭をおこなった名残であろうと思われる。同族が没落すてしまうと隣近所の地縁集団講が同業者の結成する商業集団講になっていったのではないだろうか。

室町時代には、大きく貨幣経済がすすみ、百姓も自給自足経済から商品経済へと変わり、商人の真似をするようになったのだろうか、枡や大福帳や算盤を夷講に祀ったりしている。夷神は豊穣をもたらす祖霊や田の神の性格から、福神となって祀られていったのであろうと考えられる。

 

恵比寿(蛭子・夷)神はいったい何者なのであろうか?

このことは恵比寿神を研究する学者の間でもまだ確実な結論は出ていない。史実資料、俗説のすべてを考えてみてもまだまだわからない。

これは神道の神としてもだが、仏教の仏・菩薩・明王・天部の仏・神々も福の神になりうることができるのである。種々の社寺の縁起となって広まったりしていったのだろう。

その中で、西宮神社の蛭子信仰と、美保神社の事代主命の信仰は、古く記紀に記述があるもので古くから信仰されてきたのは容易に察せられるが、その神が論争になってくるのは平安時代になってからなのである。

この2社においては紛れもなく漁業の神として祀られたのが最初である。

私はこの恵比寿についての大雑把な分類ではあるが、蛭子神を祭る「大和系」と事代主命の「出雲系」と分類している。

 

 

 

「蛭子は三年まで足立たぬ尊にておはしければ、天石ニ樟船に乗せ奉り、大海ガ原に押しだして流され給ひしが摂津国に流れ寄りて海を領ずる神となりて夷三郎殿と顕れ給ひて、西宮におはします。」

『源平盛衰記』(劔巻)

 

この劔巻は「平家物語」「太平記」などの付冊であって独立した独立したものかどうかはわからない。「源平盛衰記」も同様で、多くの異本があるが、蛭子の記載は大概以上のように記されている。

 

「伊弉諾尊と伊弉冉尊の国生みで、両尊が天の柱を廻って交わる。女神は左から廻ったところ、まず蛭子(不具の子)が生まれえた。そこで葦船に乗せて流しやった」

『日本書紀』

 

西宮戎社は広田神社の接社としながらも、

 

  広田 五位一人勅使一所

     世俗に西の宮と号す

 

『伊呂波字類抄』(平安時代末期)

 

西の宮は広田神社より有名になっていく。

西宮戎社海岸にあったので広田神社の浜南宮ともいう。 

これは漁民の信仰対象となって有名になっていったものであろう。

 

「今日御輿令出輪田御岬給、亥剋(9~11時)許還御本宮、在人等云、オレソキ於輪田有御祓也云々、御禊歟。(オレソキは御禊のことか)」

『山槐記』治承四年八月廿二日の条

(和田岬まで神幸して、またお祓いに出向いている)

 

※関連等調べていないが参考にこの治承四年(1180)6月26日に、京都から安徳天皇、高倉上皇、後白河上皇が行宮へ遷宮が行われ、平氏政権は福原に隣接している輪田(和田)の地に「和田京」の造営を計画したが、計画のまま終わってしまった。大輪田泊に人口等の経が島(経ヶ島)を築き、整備拡張を行っていた時である)

 

「在地人に中務入道と申ものまいりて「今日は西宮の御祭にて候。在地のものども御行に参事にて候が、今日御臨終にて候はゞ、御行にははづれ候べし。いかゞ仕候べし」と申されば、聖、「さらば今日はのべこそせめ」と仰らるゝ。

又日中已後しばしまどろみ給たりしが、をどろきて、「たゞいま西宮の大明神の最後の結縁せぬとておはしまして、をどろかせさせ給つる」とかたり給ほどに、西宮の神主まいりて申すやう、「去年、西宮に御参詣の時より知識とたのみまいらせて候が、御臨終のよしうけ給候てをがみたてまつり、十念うせまいらせむと存候て、神明の祭礼、最後の御供(原文祭共)と存じて候つるが、わざと御行よりさきにまいりて候なり」と申を、聖きゝ給て、なげしの上へと召請し給に、神主かしこまりて侍を、「存ずる旨あり、うへゝのぼりて十念うけたてまつりき。かずとりをさづけ給しかば、給はりていそぎかへりぬ。ゆへある事もや侍りけん。人に十念さづけ給事、これ最後なり。」

『一遍聖絵』巻二十 正安元年(1299)

 

一遍は、摂津兵庫津の観音堂(のち真光寺)に旧暦8月23日午前7時に没した。

本当は前日22日に没することになっていたが、土地のみんなは西宮の祭礼に行ってしまった。中務入道が「いかがしたら」と困ったところ「今日臨終することを伸ばそう」といわれたという。

8月22日に西宮の祭礼が行われていることがわかる。

 

「八月二十二日今日兵庫御倖也」   夜7時頃還御された。

『白川神祇伯資忠王記』 応永20年(1413)

 

 

 



 

【地元の 民間伝承】

 

 

 

昔、鳴尾の浦(西宮)の漁夫が武庫の海の沖で夜漁りをしていたところ、その網が平常より大変重く感じたので、喜んで引き上げてみたところ、魚ではなく奇しき神像のようなものがかかった。

漁夫は何心なくつぶやきながらそれを海中に遺棄して、さらに沖遠く行くうちに、和田岬のあたりにさしかかった。

武庫の沖で見送った神像がまたかかってきた。今度はただ事ではないと感じ、像を船に乗せ、家へ帰って大切に祀った。

ところがある夜の夢に、神の託宣があって、「吾は蛭児神なり。国々を廻ってこの地へ来たが、この地より少し西方に好き宮地がある。そこに居らんと欲する。よく計らえよ」と教えられた。漁夫は驚いてこの夢の有様を里人に語って一同の同意を得、ついにさきの像を御輿に乗せ、西の方お前の浜をさして進み、しばらく仮宮にとどめた後、その里人ともどもに、あいはかって好適の地に鎮め祀ったのが現在の西宮神社である。

 

恵比寿神は、海上渡来の神であり、漁夫によって祀られた神である。(お前の浜=御前浜)

伝承がいつ発祥したかは不明である。

 

 

大阪今宮戎の福笹、いまみや福娘に縁起物を選んでつけてもらう
大阪今宮戎の福笹、いまみや福娘に縁起物を選んでつけてもらう

京都ゑびす神社の十日戎 福笹を祇園甲部の芸舞妓さんが奉仕して授ける
京都ゑびす神社の十日戎 福笹を祇園甲部の芸舞妓さんが奉仕して授ける

 

【戎信仰】

 

今見た農民の信仰、漁民の信仰があり、商人の信仰がある。

蛭子神が海に流されて、岸に「流れ寄った」縁起が大きな要素となっている。

蛭子を海に流して捨てたという『日本書紀』(神代巻)は『源平盛衰記』のような「三年まで足の立たない」骨なしとするより、現実には死産とみて、これを葦で組んだ船に乗せて水葬したというほうがしっくりくるように思う。

死体を「えびす様」とよんで、漁を休んで岸に岸に連れ戻り葬り、その墓が夷社となって豊漁の神になることが多く、伊豆大島にはこれが特に多く、伊豆大島にはこれが特に多いという。(柳田国男翁より五來重先生の直伝聞)

 

昔の古文書などを見ていると「夷賊」が来襲したという記載もしばしば見られる。

これなども「夷」は外国人であり海の彼方から来るものという意味で書かれている。

また逆に海の彼方の " ニライカナイ "  " みみらくの国 " より恵みをもたらすと信じられたのである。

そして先の水死体をえびすとして祭ったことも納得できるのである。

 

三石神社

(和田岬・神戸市兵庫和田宮通

 

神功皇后(西暦200)が三つの石を持って安産を祈ったところと言われ、また神功皇后が和田岬に上陸し、廣田・生田・長田・住吉の神々を祭祀して祓いをした時の三ッ石、または祓殿という。

また推古天皇が夷賊退治のためにこの和田岬に御幸し [推古天皇10年(

602)]、禊をして戦勝を祈り、玉座とした石を三石といったともある。

しかし、平安時代末、西宮神社の蛭子神、他二社の神輿が和田岬に神幸した。その際この三石神社の三ッ石に神輿を奉安したという縁起があるという。

神社縁起がいつできたのかわからないので確かではない。

しかし、上述史料のように『山槐記』治承四年(1180)の記事のように、平安末期から源平合戦へ、そして鎌倉時代、このあたりに西宮の蛭子神の神輿が海上より来て、陸より西宮まで還御したことは間違いない。

 


 

 

【事代主命と大国主命】

 

   恵比寿      =   事代主命 (大きな鯛を持つ)

     大国さん  =   大国主命  (打ち出の小槌を持つ)

 

『古事記』」に事代主命は天孫降臨にあたって、葦原の中つ国を天孫降臨に奉献すべしと父大国主命に進言して、海へ沈んだ(柴垣の中に隠れた)とある。

『日本書紀』には「因って海の中に八重蒼柴籬を造りて船枻(ふねのへ)を踏んで避りぬ」とあって、水葬儀礼をあらわしているのではないかと思う。蛭子と同じパターンである。

 

水葬死者またはそれに代わるものが、豊漁の神や福神として戎神となったのであろうか?

日本人は、死者の霊魂は海の彼方の「常夜」から、子孫の住むこの世へ、幸福をもたらすために去来するという祖霊去来の信仰が根本にあったので、海の彼方から流れ来るものは、豊穣、豊漁、福をもたらす福神で、祖霊信仰があったからである。

これらを「寄り来る神」という。

「寄り来る神」は、医薬・禁厭の神という少名彦命も、出雲の海の彼方から光を放って寄ってきた神で、死ぬときは常世へ去っていった。

 

「少名彦命行いて熊野の御埼に至りて、遂に常世郷に適(い)でましぬ。亦曰く、淡嶋に至りて粟茎に縁(のぼ)りしかば、則ち弾かれ渡りまして、常世郷に至りましき」

『古事記』神代

 

このように、日本人は海の彼方の常世から寄り来る者を福神とし、死者も、クジラやサメやイルカもエビスとよんだ。

エビスに中国の文字の「夷」を当てたのは、「東夷」などの異国の外人ということでは決してない。

蛭子も事代主命も「常世」から「寄り来る神」としての夷神だったのである。

室町時代に神道、仏教、道教から取り混ぜられ信仰されるようになった。

 

     夷(恵比寿)=神道 

     大国 = 神道(大国主命とする場合) or 仏教 (大黒天とする場合  このどちらかで祀られている

     毘沙門天、弁財天 = 仏教

     布袋、寿老人 = 中国道教

     福禄寿と寿老人は同体として吉祥天と猩々を加える場合もある。

     おおよそ以上で、他も種々ある。帆掛船(宝船)になっている場合が多い。

 

 



 

誓文払い

 

 

 

【商人と夷】

 

 

福神信仰が盛んになってくるのが室町時代。室町時代は大きく商業が発達した時代である。

その代表ととして夷神が信仰され、おそらく都市商人の中で戎講が発生したものと思われる。

聖徳太子の太子講が大坂などの間に広まった。聖徳太子の忌日の2月22日、江戸時代には大工、左官、鍛冶屋、桶屋の間で盛んと同様行われている。

平安時代には各地で、二日市から十日市など定期日に開かれるようになる。

鎌倉・室町時代になると手工業生産物、農産物の取引がますます盛んになり、荘園領主や寺社やこれを保護し、市日が設け、監督した。それが応仁の乱の混乱で、戦国大名は城下町の繁栄のために自由な市場を開放するようになる。自由な商業活動になれば、商品取引が活発となり、取り扱うものの増多によって、特定の物資を専門に取り扱う市場が発生し、生産者の取引から専門的な商人の取引へと変化していく。

こういったことで、諸国と中央、また国・荘・郷等に間での往来が多く行われるようになって、商人の夷講が10月20日に行われるようになるのは、市日の関係と、農民の10月10日の田の神の夷講と区別するためであったのではないかと考えるのである。

江戸中期の随筆家、天野信景の『塩尻』で「市日」ではなかったかという。

「六斎市」などの月6回の「五日市」もあるが、「十日市」といえば、十日・廿日・三十日の月三度の市日である。

いずれにしても夷講は、福神信仰として、そして商人の講として発展していったのではないかと考えている。

江戸日本橋のべったら市など考えれば、元来、「大根の年夜」といって田の神に大根を供える。

東国で今も伝わるか不明だが、床の間に算盤や帳面、枡を飾り、鮒売りが来ると二匹買い、翌日には井戸や川に放ったらしい。放生会と同様、功徳を積むということかもしれない。床の間には大きな鯛を抱えた恵比寿神の掛け軸がかけられていたという。(五來重談)

江戸時代に入ると、問屋・仲買などの専門商人が現れ、競り、入札などの競争取引が行われるようになり、江戸日本橋の魚市場、神田の青物市場、大坂堂島の米市場など卸売り市場として発展していった。一方で地方の定期市は廃れていくものの、正月の初市や植木市、酉の市、または地方特産の市などが小規模に行われる。この地方の市の名残がまた、農民の恵比寿神信仰の根源であったのかもしれない。

この頃の記録では、市神として厳島神社、宗像神社の市杵島姫命、恵比寿神や大国を祭るようになっている。

 


 

【誓文払い】

 

 

本来、神を祭る場合、罪穢れを祓うための潔斎や懺悔が必要である。これから考えてみると、商人の誓文払いは懺悔の名残ではないかと考えるのである。農民の生き物の放生(ほうじょう)なども、日ごろの殺生などの懺悔の意味もある。

この室町の時代、農村、都、問わず現代のような山鉾巡行の祇園祭や様々な村々の地方の祭、盂蘭盆会の念仏踊り、狂言、お伽草子、語りの文学と民衆の社会的創造が高くなった。それらの祭礼費用や社殿・御輿等は、領主の代官、都市部では町衆が負担するようになって地口銭という風に割り当てられ、土倉などの裕福な者がおもに担ったのではないだろうか。

またこの時代は、応仁の乱で都が焼き尽くされ、いつ死ぬかも知れぬ「成上がり」下克上の時代である。そういった中で、民衆は狂ったように盆踊りを踊り、地獄・極楽思想が生まれ、巡礼も発展したのではないかと思う。

 

※賀茂祭(葵祭)、祇園祭(現在の形の山鉾山車)、石清水社、八万社、稲荷社、北野社、御霊社、熊野、日吉、春日、神明など様々な祭り。祭神は問うてない。

※住吉垂迹の神、地主神、産生神、氏神、、龍神、水神など神の名は知らずとも、自分の農村を守ってくれる神、鎮守。

 

商人も祭事、修復l建立の費用も出したが、反対では詐欺瞞着や投機などの罪業も深めていた。しかしその根本は民間からの文化創造で、民衆の信仰から成長したものが、逆に貴族社会へ伝わった。

 

 

 

【「誓文払い」の一考察】

 

商人の平素は、詐欺瞞着や投機の罪過もある。平素の掛け引きの瞞着(虚言)を謝するためと言われるのはこの懺悔に相当し、端切布などをタダ同然に売り出す。これは潔斎のことである。

「誓文」というのは、実は「誓文破り」の意味で、時に交わした商売の約束を反故にすることも多かった。文書で交わしたものでも、また特に牛王宝印の裏に誓ったようなものまで破ることがあった。「誓文払い」はそのような日ごろの約束を破って嘘をつく罪を ” 払い ”、すなわち罪過を祓い懺悔することである。

最大の懺悔は布施であり、施しをすることである。口先だけでなく懺悔するのでなく、商人は物で懺悔するのである。したがって「誓文払い」は正しくは「誓文破り 罪過祓い」の施し、また安売りのことである。バーゲンセールに起源と言っても差し支えないだろう。

これを省略して「誓文払い」というのは、当時の社会の状況も大きく変化し、新しい文化も創造されると同時に、当初の夷講が置き去りになり、痕跡は残しながら、忘れられて変わってきたのである。商人を揶揄する「舌先三寸の誤魔化し」になって、「誓文払い」が口実に、一儲けする者も現れてくる。余談だが、罪の懺悔から始まったものが、舌先三寸の二重の罪を重ねるような気になってしょうがない。せめて「誓文払い」の時は、商機とするものでなく、布施する気持ちで取り組みたい。バーゲンセールの起源と述べたが、秋や冬のバーゲンと言っても、定価より安くなるが、儲けが出るのは承知のとおりである。

農民の鮒売りから鮒を買って川や井戸に放つのや、鳥を野に放つのも懺悔滅罪の善行で、「放生」「放生会」「布施」など行う美しい行為を実践した民族であると誇ってもよいと思う。過去、全国の八幡の名の付く寺社で、旧暦8月15日は「放生会」が行われていた。これも明治維新の神仏分離で仏教色が強いと、放生もなくなって例大祭とする場合が多くなった。しかし現在でも、福岡の箱崎八幡宮は放生会の名を残し、魚を放っている。鶴岡八幡宮などをはじめ全国の八幡社の多くで行われなくなってしまった。

石清水八幡宮の放生会の歴史は古く、天皇から勅使を贈られる勅祭で、賀茂祭(葵祭)を北祭というのに対し、南祭と言われた。これに奈良・春日大社の若宮の「おん祭」と加えて、現在行われている三大勅祭で、日本三大祭りとも言われている。石清水八幡宮の場合、この勅祭石清水祭の祭典の一環として、「放生行事」として9月15日、放生川の安居橋で放鳥・放魚が行われている。

話はそれたが、「誓文払い」のような善行は、当時は特に極楽地獄思想が広がった時代であり、また幕末に全国各地で伊勢神宮の神符が降ってきた「ええじゃないか」のように、「念仏踊り」と民衆の不満が結びついて「盂蘭盆会」も踊り狂乱した時代であったのも関係すると思う。ともに世の大きな混乱期である。

 


 

以上のような記述はまだ、迂闊にそうなんだとは言えない。民俗学では、民衆が当時どのように暮らし、そして現在、どのような痕跡が残っているのかということから探る場合が多くだが、民衆は文書などで記録を残すことはほぼない。

ただ大きな歴史を見る必要であり、

長禄3年(1459)は年の初めから、異常気象で多くの人が死んだ。その翌年の同じように異常気象でまた多くの人が死んだ。そしてその後も立て続けに大飢饉がおこった。

祇園御霊会(祇園祭)が現在の鉾山車になったのは南北朝時代というが、応仁の乱で途絶えていたものを、この大飢饉の長禄4(1500)年に、町衆が主体となって華やかに復興されたのも、これら異常気象と関係するのは言うまでもなく、華やかにすればするほど疫病が退散すると信じられていたのだろう。それに加わって連歌、能、狂言、そして神事からの芸能である猿楽、田楽、そして次第に歌舞・演劇の形をとる能や、観阿弥・世阿弥の猿能楽が完成する、芸能の発展していった時代で、将軍から庇護されつつも、民衆がその原動力となっていることは確かだろう。

また立山であったり、東大寺であったり、長谷寺であったり、当時、女性の寺社参りは(女性が金銭を持っている場合が多かった)、地獄や霊山と言われるようなところに行って、逆修(議事再生儀礼)をしているが、その反面、旅は大きな娯楽であったのである。このようなことが、芸能文化を作っていったのである。

そのような時代である。はっきりわからないが、その頃に冠者殿社は民衆、商家から祀られるようになったのではないかと考えるのである。

 

そういったことから、再度、歴史の分野から、文書、文献も洗ってみなければならない。

なので、これらの論は未完ともいえる。

再度、筆していくことがあると思う。

 


 

【四条通りの冠者殿の一考察】

 

 

京都では、四条通の祇園御旅所西隣に冠者殿という「誓文払い」の神を祭っている。

これは、隣の祇園社の御旅所とは切り離して考えないといけない。

この神は、現在、素戔嗚尊の荒魂として祭られている。これが素戔嗚尊になったのは、数十年前からである。

しかし、本当のところはなにの神だかはっきりしない。10月20日には「誓文払い」が行われ、八坂神社参道商店街が主催して、この日のみの「冠者殿社の御神符」を授与していおり、また大福引など行われている。また「誓文」から「恋文」に転じ、恋愛成就にもご利益があると聞いた。

しかし、冠者殿については、結局は確実な史料もまだ出てきてはいないし、絶対にこうだということはまだわからない。なんの神とはわらないが「市神」であることは確かである。

そして今まで記してきたように、これは「夷神」であることのほうが理解しやすいし、まず間違いはないと考えられるのである。

この神がわからないように、「夷神」としての性格が強いことを論じていきたいと思っている。

しかし、その「夷神」も詳しいことは、はっきりとは解決しない。

 

冠者殿の一つの伝承、土佐坊のことや、現在語られている素戔嗚尊の「誓文(うけい)」のことは後述したいが、ここではあまり関係がないので、それらも一説として後述したい。

ただ、この「冠者殿」が「素戔嗚尊」となったのは戦後である。これは、風俗史の第一人者である江馬務(1884~1979)が「この神の正体はわからないので、祇園と同体の素戔嗚尊としたらよかろう」(『日本歳時史』京都の部)ということからきたようだ。これではあまりに出鱈目すぎる。

しかしなんの神であるかは、まったく現存史料には見つからないので江馬務の言うように、この神の正体はわからない。正体がわからぬなりに考えていきたい。

 

一般的に、えびす宮総本社である西宮神社でも、蛭児命は西宮に漂着し、「夷三郎殿」と称されて海を司る神として祀られたとされているが、「夷三郎殿」が一柱の神か、戎神と夷三郎殿は別の神なのか、または同体なのか、はっきりしていない。

このように漠然とはしているけれども、庶民から篤く信仰されている、庶民信仰(大きな寺社が教導したものでなく)なのである。

三郎や冠者の名前は、広く若宮や王子の意味でも使われたりする。元服をして冠をつけた若者のことである。 冠者殿社に「土佐坊」の伝説が残るのも、源義経の説話が冠者※1の名に影響してるのかもしれない。

狂言・能楽では、元服して冠をつけた「太郎冠者」(召使筆頭・狂言ではシテ=主人公になることも多い)が現れる。狂言「三本の柱」などでは「三郎冠者」が「太郎冠者」「次郎冠者」として出てくる。やはり冠者は冠を着けたもっともの若者であろう。四郎冠者以下は出てこないのである。三郎四郎は、狂言では、庶民の代表のように愛嬌があり、無知や横着、また酒の上での失敗など、無邪気に陽気に扱われている。

これらのことは、宗教民俗学で考えるうえで、神の ” 荒魂 ” のことである。夷神の荒魂(あらみたま)が夷三郎ということになる。そうなれば、四条通の冠者殿は、現在の祭神は「素戔嗚尊の荒魂」となっているが、「素戔嗚尊」は後から付けたとしても、「荒魂」というのは受け継がれてきていることだと思う。荒魂を祭や芸能で鎮めると、祟る力も大きいが、丁寧に祀れば元の主神よりも強力絶大な功徳と恩寵を与えるという。

(奈良春日若宮は藤原氏の主神(4柱)でなく、同じように元々土着の庶民に信仰されていた神ではないか)

 

四条の冠者殿は、祇園の御旅所ではなく、祇園の御旅所と同居しているのである。

先に行ったように「素戔嗚尊」は、幕末明治の神仏判然令(神仏分離令)によって多くの主神の名が変わることも多いが、「冠者殿」についてはさらに新しい。

これは、京都の町衆が、冠者殿という神を祭ったのは、ご利益があった、信仰されていたとして ” 市神 ” を祭ったものと思う。

旧祭地といわれている「烏丸五条北大政所町」「万寿寺高倉東冠者殿待町」なども同じく市場である。ここでも” 市神 ” を祭った場所があった(ある)のではないか。

(そのあたりの史料について後述する)

 

 

※元服とは、元=首(頭)、服=(着用する)、すなわち頭に冠(烏帽子)を着けることである。成人を示す儀式で、「加冠」「初冠」ともいう。

『平家物語』「牛若奥州下りの事」の章段に、義経と対面した藤原秀衡の台詞とすて「みめよき冠者どのなれば、姫を持っているものは無辜にもとりましょう」と言っている。

※狂言各流「三本の柱」「三本柱」の登場人物

※祇園感心院(神仏習合の神宮寺)の本尊:牛王大王が素戔嗚尊である、御霊信仰と荒魂と

性格がとても似ているため同体とされていた。

 

 

 

【市神】

 

「市神」の「市」は言わずもがな、交易がおこなわれる場所、市場のことである。

「市」の起源は古い。『魏志倭人伝』にも、詳細な場所はわからぬが、諸国に市が存在し、交易がおこなわれていたと記されている。

貨幣経済のずっと以前のことである。このような市で、交易の守護神として信仰されるようになり、人々に市の幸を与えると信じられた。山形、山梨、長野の地方に信仰の痕跡が残っている。

 市の取引の無事や幸福を与えると信じられている市の守護神である。

祭神はエビスカミ(夷神)、大国主命、彦火火出見尊、事代主命、市杵島姫などとされ、神体は円形の自然石が多く、その他、石製、木製の六角柱1本のものがあった。今は神社の境内の割合と残されているのが見える。また村の境に賽の神、道祖神などとして残っているケースもある。

村の境で商取引をしたのではないか。正月10日頃に多く市神祭が行われていたりする。このようなものの主体は行商商人などで、商人の夷講であったのがやがて変化していき、農村・漁村の夷講になっていったと考えている。

商人の夷講は、都市部を中心に現在の商売繁盛の恵比寿神に代わっていったのではないだろうか。

 

 

 

 

 

【現在の四条通りの冠者殿の今の信仰】

 

左記のように、この神の正体はわからない。しかし夷神であったのは確かと思うし、市井の神であったのは否定できないと思う。

しかし現在は、八坂神社に併合された上、江馬務先生の発言の影響も大きかったであろうし、別の形で信仰されている。

一つの見方として採録しておきたい。

 

八坂神社の境外末社となって、素戔嗚尊の荒魂を祭神としている。

誓文払は、記紀の素戔嗚尊の誓約(うけい)からきているといい、ゆえに誓文払いの素戔嗚尊を祭っているという。

 

高天原を追放されることになった素戔嗚尊は、姉の天照大神に「私には邪心がなのです。根の国の国に行きたくて泣いているのです」というのを、天照大神は、その想いの潔白を証明しなさい」と言われ、その証明にそれぞれウケイという誓いをたてて、子を生(な)しましょう」と言った。天の川をはさんで誓いごとをした時、天照大神は素戔嗚尊の腰の十束の剣を所望して三つ折りに折って、またまたさらに折っていき、天真名井(あめのまない)に洗滌して口中に含み、よくよく噛み勢いよく吐き出したとき、神が生まれる。それが、多紀理毗売命(たきりびめのみこと)〔またの名は奥津島比売命(おきつしまひめのみこと)〕 次に市寸島比売命(いちきしまひめのみこと)[またの名は狭依毗売命(さよりびめのみこと)] 最後に多岐都比売命の三神が出現した。女神であり、これが宗像三神である。

続けて素戔嗚尊が天照大神の髪に巻いていた、勾玉の数珠状の粒を口に含んで、ゆくよく噛んで吐き出すと五神の男神を生んだ。

ウケイが終わって、天照大神が素戔嗚尊に向かって「あとから生まれた五神の男神は自分のもの(勾玉)から成った。それはおのずから我が子である。先に生まれた三神の女神は、もとはあなたから(十束の剣)から成った。だからあなたの子です」と言われた。

そこで素戔嗚尊は「私の心が潔白であったから私は女神を成しえました。私の勝ちです」と言って、荒々しく乱暴して、止めそうにない。ますますひどくなって、神衣を織る服屋の壁に穴をあけ、馬の皮を剥いで投げ入れた時、織女は驚いて機織具の梭で突いて死んでしまった。

このあとに、恐れた天照大神は天の岩戸に引き籠って闇の世界が訪れる。

 

これが「記紀」に残る神話である。

 

冠者殿社にはもう一つ面白い伝承がある。

平安時代末期、源義経を襲撃して、逆に返り討ちにあった土佐坊昌俊の霊を祀ったというものである。

 

源平合戦で、平氏を壇ノ浦で滅ぼし、都へ凱旋した義経。頼朝の指示なく、平家没官領の処理平家没官領の恩賞、また賞罰の決定を行った。頼朝としては威信が揺らぎかねない。

そんな折に、平宗盛親子らの捕虜を連れて、京から鎌倉へくだった。しかし頼朝は義経に会おうとしない。腰越の宿に留め置かれた義経は兄へ「自分の心は変わっていない」と切々と起請文に書き記して兄へ訴え、怒りが解けるのを待った。

これが世に名高い腰越状である。結局会えることもなく、空しく帰京することになる。

頼朝という畏怖すべき存在に危機感を持つ後白河法皇の策謀にはまって、頼朝との対抗馬にすべく義経を取り込んでいく。頼朝の執拗な挑発との板挟みに苦しむ義経である。

 

そんなおり、文治元年(1850)10月に頼朝は、秘かに刺客として土佐坊昌俊に義経を暗殺させるために京都へ送って、義経の六条堀川にあった六条室町邸を襲撃させた。しかし昌俊は逆に返り討ちになる。

その情報はすでに関東から得ていて、義経は後白河法皇にせまり、10月18日には頼朝追討の宣旨を得たのである。このように義経は追い詰められ、挙兵の決意をするにいたったのである。

土佐坊昌俊は襲撃に失敗し、鞍馬山に逃れるが義経の郎党に捕らえられ、家人とともに六条河原で梟首された。

義経はあらかじめ襲撃を知っていて待ち構えた可能性はかなり高い。

この夜襲の前に義経と土佐坊昌俊は、熊野詣に行く際、病を得たために京に留まっているのだと、まったく異心がないことを証明するといって「起請文」を書いたという。

または義経に詰問され「討手に上ったのではありません」という起請文を書いて帰るものの、この起請文を破り捨て義経を急襲したのだともいう。

 

『吾妻鏡』『玉葉』『平家物語』延慶本

 

都名所図会 6巻之2巻 冠者殿 著者: 秋里籬島 国立国会図書館デジタルコレクション
都名所図会 6巻之2巻 冠者殿 著者: 秋里籬島 国立国会図書館デジタルコレクション

 

それらの伝承である。

「誓文の神」として、誓いを曲論した素戔嗚尊と、誓文を破った土佐坊昌俊、そのような双方の伝承がある。

 

誓文の神として祭られたと伝承され、近世には、契約とは関わりの深い商人などから信仰を集めているのである。

毎年10月20日に参拝し、罪を意識を懺悔し奉りお祓いをする。

そしてその後に大安売りを行い、誓文破り 罪過祓いの神事から大安売りをする。

そしてこの日だけが、タダ同然の価格で売ることによって自らも祓い清めをするのが本来意義である。

 

 

これら商人の「えびす講」であったが、右記の『都名所図会』に「祇園 鴨川の浮女(うかれめ)も此処に来たって誓ひを払ひ」とある。

祇園・宮川・先斗町の女たちもここへ来て、客への誓文を払いにやってきた。町方の女性たちも同じである。

 

右図はその参向の場面である。

 

 

 

 

 

 

 

 

下記の『都名所図会』「祇園御旅所・四条市場」を俯瞰してみると面白い。

 

この頃の冠者殿社は西を向いていて、鳥居は寺町の東を流れていた中川を渡った橋の東に建っていた。

現在は北向きになっているがなぜ北向きになったのか。

冠者殿社のある四条通り寺町東ルあたりの景観は現在とは大きく変わっている。

右下に西を向く冠者殿が見える。

 

都名所図会 6巻之2巻 祇園御旅所 著者: 秋里籬島 著  国立国会図書館デジタルコレクション
都名所図会 6巻之2巻 祇園御旅所 著者: 秋里籬島 著  国立国会図書館デジタルコレクション

 

 

【冠者殿社と祇園御旅所】

 

 

これらのことを著してきて、さて冠者殿社は祇園御旅所の付属の社ではないかという疑問もあるのではないかと思う。

先に記したように、冠者殿社の祭神は、歴史的史料からはまったく不明でわからない神である。

しかし、商いの神・恵比寿神として信仰されてきたと思うし、誓文払いが行われたのではと思う。どちらにしても市井の神である。

 

現在、冠者殿社に隣接する祇園神社御旅所とは本来、独立をした存在である。祇園社御旅所は豊臣秀吉の御土居の建造によって旅所が現在地移転したのである。

 隣接された影響によって、御旅所と同時に説明されることも江戸時代になると多くなってはきた。

「四てう(四条)くわんしやとのよりのミやめくりの御さんけいもなり申さす候あひた」

『祇園社記第二十三』天正19年2月9日付「祇園執行書状案」

ただこのように、道が御土居建造で建て替えられ、参詣もままならないというようなもので、冠者殿と祇園御旅所との因果は説かれてはいない。

 

「冠者殿 京極四條の辻に鎮座、 俗に誓文返の神と号す、世人偽誓のつみをすくひ給ふとぞ、是によって商家売買の時に真偽をみだり神明を證としていつはりなきといへども、もと不実の事之、其罪をおそれ毎年十月二十日洛中の諸人此社に参詣し、其科をまぬがれる事をいのる、しかれども此神何の神と云事をしらず、世人あやまりて土佐坊昌俊の社なりと云、昌俊はよしつねをたばかり追討使ならざるをちかひてたちまち神罰を蒙る、是によって偽誓のつみすくふとするものならん」

『京羽二重織留』 元禄元年(1689)

 

 

【地誌名所案内】  各 10月20日の項

 

「洛中諸商夷祭」”四條京極冠者殿社参詣”  『日次紀事』 延宝4年(1676)

 

「ゑびす講」”誓文払 此日四條寺町土佐正尊やしろまふで侍る”  『京羽二重』 貞享2年(1685)刊記

 

”洛中諸商人夷祭付四條昌俊宮誓文払”  『京羽二重織留』 元禄2年(1689)

 

「四條寺町 官社祭」「猪熊松原上ル 蛭子祭」併記 ”凡洛中洛外の蛭子講をするは右両社の神事なるといふ” 『京町鏡』 宝暦12年(1762)

 

元来、災厄、疫病を引き起こす怖ろしい神としての牛頭大王、素戔嗚尊荒魂と、福徳人としての恵比寿神は性格が違いすぎることと、また祇園御旅所が冠者殿社の場所に越してきたのも因果関係はないのであり。

※冠者殿社も、現在の冠者殿町に移転され、また同地に戻っている。

 

 

【百姓恵比寿講】

 

誓文払いにおいて、一つ疑問に生じるのが、10月は " 神無月" といって、日本八百万の神々が出雲に集まる月なのに、なぜ祭をするのかである。

竈の神として荒神さんを祭る行事は存在するけど、これは仏教系の神というのもあるので祭典もされているし、毎月17・28日は月並三宝例祭が行われていたりする。それと伊勢神宮の神も移動しない。

しかし、10月に一番多かったのは「恵比寿講」であった。

「恵比寿講」というから、昔は村共同体で行われていたものが、めいめいの家で単独に行うようになったのではないだろうか。

 

 

この日、床の間にえびすの絵軸を掛け、立派な供物を捧げ、唱える言葉もあったようである。

この10月に祭るようになったのは、正月二十日の商人恵比寿講のほうが早く、それを農村の方へ移すとすると、十月二十日が農民の考えに合致したのではないか(柳田国男「年中行事覚書」)


 

奈良時代の商いは下記のように平城京のイベントなどの地域活性化で復元されている。

 

 

 

 冠者町

 

最後に資料掲載していきます。

歴史的検証も記載します。

 

 


 

文子天満宮 託宣 各地存在

 

徳政、土倉一揆、惣

 

江戸期 冠者殿

異類異相