現在準備中

史料等メモ書きのみ掲載のため未稿になっている。

 

 

 

本項目に関して、宗教民俗学からみた一考察というご理解を頂きたいと思います。

歴史学的にみた場合、また現在のご縁起とは大きく異なってくると思います。

これは、様々な角度から、さまざまな見方はこの世に存在し、反論すべきでなく、考えていくことが必要です。といって、学説などというものは様々で、別の考えの場合、これもまた説得力のある史料を提示しながら書いていかなければなりません。

私が注目したいのは、それぞれの現存史料は支配者層が書いたもので、果たして民衆はどうだったのか。民衆は文字を残しませんが、なにか今でも痕跡が残っているものだと、大学卒業後に師事した先生に教えられました。

私は学生時代、正面から仏教や国史学を学びました。ただ当時、あまりにも民俗学は我々が学習するものとかけ離れていて釈然とせず、遠ざかっていました。

そんな中、数年前、京都のある寺院、地区で、観光客の姿はなく、本来の信仰の形で残されているものを目にすることができました。その時、初めて感じさせていただくことができたのです。いくら建前を述べても、民衆は純粋な気持ちなのだと。形は変わっても、根本は変わらないのだと。

そしてかつての講義ノートを参考にまとめていっているのです。

 


 

春日若宮の原始とはなにか?

これらの民俗学説の一考をまとめる予定である。

 

 

 

奈良の春日山には地獄谷があります。奈良春日奥山を巡る際、柳生街道から少し右へ入ったところに地獄谷があります。

ここには有名な奈良時代の石仏があります。

この地獄については、奈良の春日山に地獄ありと鎌倉時代の説話集に出ています。

東大寺や興福寺の僧侶たちが死ぬと、霊魂がこの地獄谷へ行き、経論の論議や問答をおこなっていると言います。そういう声が聞こえるというのです。そして時として、この地獄から僧侶の霊が鳥や鳩になって興福寺のもとの居室に戻ってくることがあるそうです。

たとえば『沙石集』の中に「眠り正信坊」の話が出てきて、いつどこでも居眠りばかりしている正信坊の霊が鵄(とび)となって、興福寺の自分の坊へ飛んできて、鵄となっても居眠りばかりしていることが書かれています(巻第八)。

そのように奈良の春日山にも地獄があって、そこから霊が去来するという信仰があったことがわかります。

『春日権現験記絵』には、春日社の縁のあった人は、罪があっても地獄へ落とさず、春日野の地下に地獄を構えて、毎日甘露の水を注いでその罪を和らげたという話も残っていますが、これは春日社の第3神、天児屋根命の本地仏が地蔵菩薩であることによるものと思われます。天児屋根命は中臣の祖、藤原氏の氏神です。

元々の大和の国の民衆にとって、藤原氏の氏神を信仰するというよりも、土地で春日社が創建される以前から信仰されていた春日山の祖霊神であったと考えるのが自然だと思います。

祖霊は山の上や海の彼方に向かい昇華すというのが日本人の信仰です。春日社以前の話も後述しますが、春日山がすなわち神の依りつく場所であり、祖霊の集まる神奈備の山であったでしょう。全国の霊山だけでなく、その土地の山などにも地獄谷と名の付く場所は多いのですが、春日山も地獄谷のあたりが霊の集まる場所だったと思います。

 

これを考える場合、同じ大和の三輪山の例を引くとわかりやすいでしょう。

 

結論からいえば、春日若宮(含む榎本神社)は元々は、春日四神とはまったく別の、元来に大和に住す民衆から信仰されていた神であったと考えています。春日四神はあきらかに藤氏の神であることは間違いのないことですが、先の『春日権現験記絵』などを通読すれば、あえて若宮の存在を故意的に遠ざけようとしている節が見えます(若宮の記事は2カ所出てきますが、どうしても止む終えず書かざる得なかったというような感じがします)。若宮と春日神は別であるという直接の証明する記録はありませんが、いろいろな面より考えてまいりましょう。

 

 


 

現在における参考事項

 


 

現在書き置き資料です

 

目次

1.東大寺の歴史

2.興福寺建立

3.春日大社創立

4.神奈備の春日山・地獄谷

5.春日若宮とは

6.春日若宮おん祭

 

東大寺二月堂・三月堂へと坂道を登っていくと、手向山八幡宮を右手に見ながら三月堂(法華堂)の屋根が見えてくる。ここは古くは、不空羂索観音を祭る聖地で『羂索院』とも呼ばれていた。

【国宝】三月堂(法華堂)は良弁の創建以来の建物で、鎌倉時代に増設された礼堂とともに天平時代の建物とうまく調和している。

 

 

【東大寺】

 

 

「奈良の都の東の山に寺があった。その名を金鷲(こんじゅ)寺といった。金鷲優婆塞がこの山寺に住んだので通り名とした。いまの東大寺である。まだ東大寺を造らなかったとき、聖武天皇の世に金鷲行者がいつもこ寺に住んで仏道を修行していた。その山寺に執金剛神の攝像があった。行者は神像の脛に縄をかけて引き、昼も夜も休まなかった。そのとき神像の脛から光を放ち、皇居まで達した。天皇は不思議に思われて、使いをやって調べさせた。勅使が光のもとをたずねて寺に行くと、一人の優婆塞がいて、その神像の脛に縄をかけて引き仏をおがんで、懺悔していた。勅使はこの様子を見て急いでもどり、事情を申し上げた。そこで行者を召し勅して。

「おまえはなにを求めているのか」

と仰せになった。行者は、

「出家して仏法を学びたいと思います」

と答えた。詔して出家を許し、金鷲と名づけ、その修行をほめて、衣食住を与えて何不足のないようにした。世の人々はその修行をほめたたえて、金鷲菩薩といった。光を放った執金剛神の像はいまも東大寺にあって、羂索堂の北の入り口立っている。

ほめたたえていえば次のとおりである。よいことかな、金鷲行者は春に信仰の火だねをもみ出し、秋になってよく燃える火の手を挙げる。脛の光は感応の火を助け、天皇は慎んで奇瑞を調べさせた。実に願うところ得ざるなしというのは、このことをいうのである。

『日本霊異記』中巻「土で造った神像の脛から光を放ち、不思議なことがあり、現に報いのあった話 第二十一」

 

東大寺の初代別当となるのは良弁で、別当は事務の統括者である。

良弁は幼少期に鷲にさらわれ、山城国多賀のあたりに落とされたとある。(所伝『東大寺要禄』)

また二月堂の杉の木に引っかかってるのを、師となる義淵に助けられ、僧として育てられ、金鐘寺に住み、金鐘行者の異名を得たところに、聖武天皇の目に止まって羂索院を賜り、これがのちに金鷲寺になったという。

 

また別に、良弁の前身の金鷲優婆塞という山林修行者が、この地で執金剛神を本尊として礼仏悔過していた。

このことを、東山の光物で知った聖武天皇がその苦行を褒めて建てたのが金鐘寺(こんじゅ)である。

これはもとは金鷲寺で、金錘寺となり、その字の類似から金鐘寺となり、不空羂索観世音菩薩をまつる「羂索堂」となったのではないかと思われる。

 

奈良時代には既に『不空羂索神変真言経』が伝えられ、その雑密(ぞうみつ・雑部密教)による加持や護摩や灌頂が様々な場所で行われていたものと思われる。

これに合わせて法華経を講讃する法華会が『東大寺要禄』によると天平十八年(746)から行われ、これを桜会とも呼んでいる。東大寺は今、華厳宗であるが、まだこの時期には宗派が形成される以前で、特別な宗派の概念は生まれる前だったと思う。

聖武天皇の意を受けて良弁が、金鐘寺の麓に東大寺を建立し、毘盧遮那仏を本尊とするために、これを説く『華厳経』六十巻を審祥に頼んで講讃をさせたと思われる。

 

鎌倉時代の東大寺の学僧・凝然(ぎょうねん)『三国仏法伝通縁起』

「(前略)遂に天平十二年庚辰十月八日を以て金鐘道場<すなわち東大寺の羂索堂なり。法華堂と名ずく>に於いて、大いに京城(奈良)の名僧大徳を集め、審祥師を以って其の師宗と為し、方に此の大華厳経を講宣す」

 

また偽書であるといわれていて検証が必要ではあるが『興福寺官務牒疏』には

『大華厳経』60巻を1年20巻ずつ講讃して3年かかったとあり、妥当なところだと思う。

この頃は大仏建立もたけなわの時代である。

天平十八年(746)からは『法華経』の講讃を始めている。

 

当時は『金光明経』『仁王経』『法華経』は護国鎮護の経典として講讃された。

 

『不空羂索神変真言経』

第十九巻「大衆護持品第四十」

第二十四巻「執金剛秘密主問偽品第五十一巻

   執金剛の功徳を説く

諸本あるがこの経の中に罪や禍を消除する真言や印、曼荼羅、護摩、結界法など記されている。

良弁は、この罪や禍を消除する経典として、法華経を選んだのではないだろうか。

 

 

 

 

 

東大寺三月堂(法華堂) 不空羂索観音像・執金剛像
東大寺三月堂(法華堂) 不空羂索観音像・執金剛像
二月堂と良弁杉 麓に興成神社
二月堂と良弁杉 麓に興成神社

 

【春日大社前史】

 

平城京は元明天皇の和銅3年(710)に遷都された。

当時、権勢の中枢にいた藤原不比等は遷都後に、ただちに藤原京にあった厩坂寺を平城京に移し、興福寺と名を改め、伽藍を造営をはじめる。藤原氏の氏寺、興福寺の創建である。

天皇の御座する宮城を見おろす春日野の高所を選び、4年後の和銅7年(714)には主要な諸堂を完成させたという。不比等没後も造営は続き、天平2年(730)には京城のシンボルとして五重塔が建立された。

次に藤原氏は、神南備山としてすでに畏怖されていた春日山(御蓋山)に氏神を祀ることを実行する。常陸国鹿島神宮から武甕槌命(たけみかづちのみこと)、下総国の香取神宮から経津主命(ふつぬしのみこと)、そして生駒山(枚岡神社)から天児屋根命(あまこやねのみこと)とその妻神の比売神(ひめがみ)の四神を勧請し、神護景雲2年(768)、藤原永手は壮麗な社殿を創建する。

神仏両方の加護によって、藤原氏の永遠の家門繁栄を願ったのである。やがて始まる神仏習合思想に基づき、春日社と興福寺は一体化して、藤原氏や朝廷、さらには春日曼荼羅を信仰礼拝する庶民信仰も興る。 

 

「古社記」

「春日社私記」

「文永六年若宮神主祐賢自筆記」(1269)

 

神護景雲元年(767) 武甕槌命が神鹿に乗って鹿島を出発する。

中臣時風・秀行らが供奉する。(→大和国安倍山→三蓋山)

それを機に、経津主命(香取神宮・斎王命)、天児屋根命、比売神(とも枚岡神社)を勧請する。

称徳天皇(718~770)に山の麓に南向きに鎮座すると託宣がある。

 

神護景雲2年(768)11月9日寅時(おおよそ午前4時頃)をもって社殿を建てる。

 

 

通常以上のようになるが、違った見方もできる。

8世紀の神社は、伊勢・出雲のような古社をのぞき、神殿がないのが普通である。

古代神道では、神域である境内であったり、神体となる大木、巨石、山などの自然が対象物である。遙拝所の社三輪神社のように、山上などに行かず遙拝できる場所に拝殿ができたのが最初である。神奈備山である。

 

 「遣唐使、神祇を蓋山の南に祠る」『続日本記』巻七 養老元年(717)二月一日

  ※出発の2か月前に1日割いて祈願している

 

養老元年の遣唐使に関しては、建築史学の福山敏夫(京大名誉教授)は、この『続日本記』の 記事は春日神社への参拝ではないとしている(春日大社建築史論)

養老元年の遣唐大使は多治比氏(多治比懸守)で、藤原氏の祖神を祭る春日神社には縁がない。

また春日神社は御蓋山の西であって南ではない。さらに春日神社の今日のような建築群は当時まだできていなかったようなのである。

 

春日の地が古くから山の信仰があり、春日社はその素地の上に成立したと大場磐雄はする。

大場磐雄「春日大社の考古学的考察『祭祀遺跡ー神道考古学の基礎的研究』(1961)角川書店

 

三蓋山のような円錐形の麗山(三輪山なども)には、古来より神が降臨して宿ると信じられている。

また奈良盆地の北部、平城京から真東の三蓋山、春日山は、太陽や月が昇る山として情緒を育みやすい。

 

東大寺山堺四至図 模写本 奈良女子大学所蔵
東大寺山堺四至図 模写本 奈良女子大学所蔵

 

春日山中の磐座(巨石の露頭)に石仏が彫られている。まさに霊気に満ちた厳かな感じがする。大地と天体の調和や岩や樹木への畏敬の念が湧きおこる。

飛火野には在地古代豪族の春日氏の墓域が営まれたと思われる。

 

奈良時代の築地に囲まれた春日大社の神域は避けられていて、古墳時代には不可侵の意識が生まれていたのではないだろうか。

 


 

【春日大社創建の記録】

 

 

春日大社本殿創建は神護景雲2年(768)としている。

「東大寺山界四至図」天平勝宝4年(752)には方形の神地のみが記されている。

発掘調査によると、「神地」に対応する「コ」の字形の築地遺構が検出されている。とはいえ、これが春日社であるとはいえないが、なんらかの拝殿があったことは確かだ。

 

光明皇后が遣唐大使藤原清河へ贈った歌(万葉集)

『続日本紀』には、天平勝宝2年(750)9月に光明皇后は遣唐使に任命しているのでその頃か。

「大船に真楫繁貫(まかじしじぬ)き この吾子(あこ)を からくに(唐国)へ 遣(や)る斎(いは)へ 神たち」 光明皇太后

 

「春日野に斎つく三諸(みもろ)の梅の花 栄えてあり待て還り来るまで」 藤原清河

 

「遣唐使、神祇を三蓋山の南に祀る」

『続日本記』霊亀3年(717)2月1日条

(前年8月に任命された遣唐押使多治比真人県主、安倍仲麻呂、吉備真備、僧玄昉ら。

 

安倍仲麻呂の望郷の歌『唐土にて月を見てよみける』

「あまの原 ふりさけみれば 春日なる 三かさの山に 出でし月かも」(絶句)

 

『続日本記』宝亀8年(777)2月6日条

遣唐副使小野朝臣石根

「天神地祇を春日山の下に拝す」と述べ、さらに「去年、風調(かぜととの)はずして渡海することは得ず…副使小野朝臣石根重ねて祭祀を脩するなり」

 

弘法大師がここに護摩壇を築き祈願したと言われている(御蓋山)
弘法大師がここに護摩壇を築き祈願したと言われている(御蓋山)

 

【三蓋山について】

 

春日山は1回の噴出によってできた溶岩丘で、三笠山火山群といい若草山、春日山、高円山などで構成されている。

御蓋山は297mで、西麓に春日社、山頂に本宮神社が鎮座する。

山中は、シイやカシの原始林の山腹に祭壇跡らしい方形の石敷き遺構や石敷きの道が三、四ヶ所発見されている。御蓋山の山頂付近には、石で囲んだ約10m四方の区画があり、神が鎮座する古代の磐境とみられる。

西側山麓には、コの字形に築地堀を巡らせた跡がある。

奈良時代に春日大社の社殿の整う前の古代の祭祀遺跡なのかもしれない。

(奈良文化財研究所)

 

先の「東大寺山界四至図」では春日山一帯は、みな東大寺の寺域となっていて、しかし御蓋山だけは寺域から除くと注記がある。

神地の決定的な確証は今のところない。

しかしはっきりしているのは、、御蓋山への信仰は、春日社ができる前から信仰があり、信仰を取り込む形で創建されている。

平城京を見下ろす東山に創建された春日社は、これが藤原氏の氏神であるということは、藤原氏の繁栄ということでは、その時の政治状況がよく反映された結果であるように思う。そして春日社と同時に、藤原氏の氏寺である興福寺とともに発展していったのは周知のとおりである。

 

東大寺三月堂・執金剛像
東大寺三月堂・執金剛像

【春日山民間信仰ー地獄谷ー】

 

 

「奈良の都の東の山に寺があった。その名を金鷲(こんじゅ)といった。金鷲優婆塞がこの山寺に住んだので通り名とした。いまの東大寺である。まだ東大寺を造らなかったとき、聖武天皇の世に金鷲行者がいつもこ寺に住んで仏道を修行していた。その山寺に執金剛神の攝像があった。行者は神像の脛に縄をかけて引き、昼も夜も休まなかった。そのとき神像の脛から光を放ち、皇居まで達した。天皇は不思議に思われて、使いをやって調べさせた。勅使が光のもとをたずねて寺に行くと、一人の優婆塞がいて、その神像の脛に縄をかけて引き仏をおがんで、懺悔していた。勅使はこの様子を見て急いでもどり、事情を申し上げた。そこで行者を召し勅して。

「おまえはなにを求めているのか」

と仰せになった。行者は、

「出家して仏法を学びたいと思います」

と答えた。詔して出家を許し、金鷲と名づけ、その修行をほめて、衣食住を与えて何不足のないようにした。世の人々はその修行をほめたたえて、金鷲菩薩といった。光を放った執金剛神の像はいまも東大寺にあって、羂索堂の北の入り口に立っている。

ほめたたえていえば次のとおりである。よいことかな、金鷲行者は春に信仰の火だねをもみ出し、秋になってよく燃える火の手を挙げる。脛の光は感応の火を助け、天皇は慎んで奇瑞を調べさせた。実に願うところ得ざるなしというのは、このことをいうのである。

『日本霊異記』中巻「土で造った神像の脛から光を放ち、不思議なことがあり、現に報いのあった話 第二十一」

 

 

東大寺の初代別当となるのは良弁で、別当は事務の統括者である。

良弁は幼少期に鷲にさらわれ、山城国多賀のあたりに落とされたとある。(所伝『東大寺要禄』)

また二月堂の杉の木に引っかかってるのを、師となる義淵に助けられ、僧として育てられ、金鐘寺に住み、金鐘行者の異名を得たところに、聖武天皇の目に止まって羂索院を賜り、これがのちに金鷲寺になったという。

 

 

【春日山民間信仰ー地獄谷ー】

 

 

「奈良の都の東の山に寺があった。その名を金鷲(こんじゅ)といった。金鷲優婆塞がこの山寺に住んだので通り名とした。いまの東大寺である。まだ東大寺を造らなかったとき、聖武天皇の世に金鷲行者がいつもこ寺に住んで仏道を修行していた。その山寺に執金剛神の攝像があった。行者は神像の脛に縄をかけて引き、昼も夜も休まなかった。そのとき神像の脛から光を放ち、皇居まで達した。天皇は不思議に思われて、使いをやって調べさせた。勅使が光のもとをたずねて寺に行くと、一人の優婆塞がいて、その神像の脛に縄をかけて引き、仏を拝んで懺悔していた。勅使はこの様子を見て急いでもどり、事情を申し上げた。そこで行者を召し勅して。

「おまえはなにを求めているのか」

と仰せになった。行者は、

「出家して仏法を学びたいと思います」

と答えた。詔して出家を許し、金鷲と名づけ、その修行をほめて、衣食住を与えて何不足のないようにした。世の人々はその修行をほめたたえて、金鷲菩薩といった。光を放った執金剛神の像はいまも東大寺にあって、羂索堂の北の入り口に立っている。

ほめたたえていえば次のとおりである。よいことかな、金鷲行者は春に信仰の火だねをもみ出し、秋になってよく燃える火の手を挙げる。脛の光は感応の火を助け、天皇は慎んで奇瑞を調べさせた。実に願うところ得ざるなしというのは、このことをいうのである。

『日本霊異記』中巻「土で造った神像の脛から光を放ち、不思議なことがあり、現に報いのあった話 第二十一」

 

 

東大寺の初代別当となるのは良弁で、別当は事務の統括者である。

良弁は幼少期に鷲にさらわれ、山城国多賀のあたりに落とされたとある。(所伝『東大寺要禄』)

また二月堂の杉の木に引っかかってるのを、師となる義淵に助けられ、僧として育てられ、金鐘寺に住み、金鐘行者の異名を得たところに、聖武天皇の目に止まって羂索院を賜り、これがのちに金鷲寺になったという。

 

 

 

良弁僧正は、東大寺になくてはならない存在の尊敬される上人であることを否定する人はいない。

 良弁は当初、金鷲行者として金鷲寺に住み、聖武天皇の目に止まって「なにか望むものはあるか」と聞かれ、「出家得度して仏法を学びたい」と言われ、その望みを愛でて、現在の三月堂の前身の羂索堂を建てて与えられたと言われている。

 

当時の僧侶は誰でもなれるわけではなく、天皇に許された者だけであった。

「養老律令」僧尼令や「延喜式」で規定されている得度を受け、戒壇院で授戒して僧尼として初めて認められ、法の規定に縛られながらも大きな特権を持った。

それに対して、官の許可を得ないで、勝手に剃髪・得度した僧たちが多くあった。その者たちは多く山中に分け入り、山中修行の山伏のようになっていた。公的な官僧は、特定の人数を特定の身分から許されるのに対して、特定の人数や場所に捉われない山僧で思い思いに仏道修行をする。

その根底には、古来日本人は死ねば、霊魂が毎日見る聖なる山へと帰っていくという、山岳他界信仰をもっていることである。山中での浄行

良弁僧正は、東大寺になくてはならない存在の尊敬される上人であることを否定する人はいない。

 

良弁は当初、金鷲行者として金鷲寺に住み、聖武天皇の目に止まって「なにか望むものはあるか」と聞かれ、「出家得度して仏法を学びたい」と言われ、その望みを愛でて、現在の三月堂の前身の羂索堂を建てて与えられたと言われている。

 

当時の僧侶は誰でもなれるわけではなく、天皇に許された者だけであった。

「養老律令」僧尼令や「延喜式」で規定されている得度を受け、戒壇院で授戒して僧尼として初めて認められ、法の規定に縛られながらも大きな特権を持った。

それに対して、官の許可を得ないで、勝手に剃髪・得度した僧たちが多くあった。その者たちは多く山中に分け入り、山中修行の山伏のようになっていた。公的な官僧は、特定の人数を特定の身分から許されるのに対して、特定の人数や場所に捉われな自身で出家した私度僧で思い思いに仏道修行をする。朝廷から見れば、違法な僧侶集団である。

(当時は勅許で出家が許され、南都六宗などの大寺に入って学問研修するが、同時にすべての税の免除と食禄を与えられた。ゆえに税金逃れのために出家する者も多く、朝廷でも厳禁とされていたのである。それでも多くの私度僧がおり、山岳山林に暮らした。その中には、役優婆塞(役行者)や行基菩薩のような者もおり、のちに承認される場合も多かった。良弁僧正とて同様であったのであろう。

 

山岳信仰には、毎日目にする目前の山へ霊は帰っていくという、山岳他界信仰をもっでいることである。山中での浄行で懺悔滅罪すれば、神や祖霊が身に宿り、超人間的な験力が獲得でき(役行者など)、また山は死者の霊の集まる他界なので、そこで滅罪の苦行をしれば死者の死後の世界の苦を救えるというのである。

※悔過法 三礼五体投地

 

 

先の『日本霊異記』(中巻第二十一話)では、奈良の東山に金鷲優婆塞(金鷲行者または金鷲菩薩とも)が住んでいて、執金剛神(仁王)像の足を縄で縛り、その縄の端を引きながら拝み懺悔した。執金剛神への礼佛悔過を何百回となくしていたのだろう。

悔過とは、罪過を懺悔することで、奈良時代には行られ、朱鳥元年(686)天武天皇の御悩を祈って修され、天平11年(739)五穀豊穣を祈って七日七夜の悔過、天平16年(744)薬師悔過、神護景雲元年(767)国分寺に吉祥悔過など修されていて、その後も薬師・吉祥悔過が盛んに行われた。平安時代初期には、興福寺で阿弥陀悔過、大安寺で釈迦悔過など行われていたが、密教が浸透するにしたがって衰退していく。現在、薬師寺に安置されている吉祥天はその本尊と伝わる。

 ここの金鷲優婆塞の、執金剛神への礼仏悔過は「仁王般若経」に拠る悔過法なのかもしれないし、与えられた羂索堂の本尊「不空羂索観音」の悔過かもしれない。悔過法の実践は、五体投地の礼拝を繰り返す懺悔法だろう。

ちなみに、現在の東大寺二月堂の修二会(お水取り)は「十一面悔過作法」が、薬師寺修二会では「薬師悔過」が行われている。

 礼拝は、五体投地(右ひざ・左ひざ・右ひじ・左ひざ・額づきと身体を何百と投じる)で、しかも神像に紐を張っての苦行としている。

 

 

春日山香山の仙人窟
春日山香山の仙人窟

 

金鷲優婆塞の奈良・東山の金鷲寺は、ごくごく小さな行者の仙房(山坊)にあり、神仏が宿り、験力で奇跡をおこし、その験力を求めて、病気平癒を願ったりする者が多く集まったのだろう。

 実は、このような仙坊は、古図をみる限り、春日山中に多数存在している。

春日山で最高峰の香山〔花山・高山・こうぜん〕(497m)には、薬師悔過を修する行者の仙房があて、のちに香薬師を本尊とする香山寺ができた。

これはのちに、奈良時代中期に新薬師寺に合祀されたらしい。

 

 

 

 

 

 

この香山の下が地獄谷で、その聖人屈には今も奈良時代と推定できる摩崖仏が残されている。

 

この谷が地獄谷とよばれたのは、ここに死者を風葬したことによるとも思われる。

 

《前略》(春日南山也)件所下人棄死人。《後略》

『古事談』

 

このように死者の霊を救済し、供養するのが山中修行者(私度僧の優婆塞)の役割の形態として残ったものであれば、春日山にその伝承や遺跡を残しているのは貴重である。

 

大和・三輪山も同様「むくろ谷」の地名を残す他界信仰の山である。(「五來重「大和三輪山の山岳信仰」『山岳宗教史研究叢書』(第十一巻)「近畿霊山と修験道」(1978)に詳しい。

 


 

 【春日龍神】

 

有名なものに、謡曲「春日龍神」がある。

作者は不明だが室町期には上演されていたようだ。

 

 

「室生龍穴者、善達龍王之所居也。件龍王初住猿澤池。昔采女投身之時、龍王避而住香山。(春日南山也)件所下人棄死人。龍王又避住室穴。件所賢憧僧都所行出也。賢憧者、修圓僧都之師也。往年日對上人、有龍王尊體拝見之志、入件龍穴。三四町計暗闇而、其後有晴天所有一之宮、殿上人立其南砌。見之懸珠簾、光明照輝有風吹動珠簾間、其隙伺見彼裏、玉机上置法華経一部。頃之有人之気色、問云、何人来哉。上人答云、為奉拝見御體、上人日對所参入也。龍王云、於此所不能奉見出此穴其址三町計、可對而也。上人卽如本出穴、於約束所着衣冠給、自腰上出自地中。上人拝見之卽消失畢。日對件所立社、造立龍王體。干今見在云々。祈雨之時、於件社頭有讀経等事云々。有感應之時、龍穴之上有黒雲、頃之件雲周遍天上、有降雨事云々。」

 『故事談』     建暦2年(1212)~建保3年(1215)

 

 

 

 

 

 

 

 

ただし 養老元年の御蓋山につづいて、遣唐使の派遣に当たって「天神地祇」を春日山々系で祭ったこ とを示唆するものに、次の『万葉集』の贈答歌二首がある。これは天平勝宝2 (750)年九月に藤原清河が第十二次遣唐使の大使を拝命したことを受けて、おそらくその翌年の2月頃に詠まれた ものと考えられる。 

春日にして神を祭るの日に、藤原太后の作ります歌--一首、即ち入唐大便藤原清河に賜ふ 

大船に真棉繁貫きこの吾子を韓国へ遣る斎-神たち(四二四〇)

大便藤原活河の歌一首 い-)みも/)

春日野に爾く三諸の梅の花栄えてあり待て還り来るまで(四二四一)

天平5年 正倉院文書…海竜王経

 え

承和5年(838)の遣唐使…朝廷が遣唐使のために(海神に海の平穏を祈る)海竜王経四巻を全国に読ます。(文献上の初見


 

【法相宗】興福寺・薬師寺

 

《開祖・歴史》

 

法相宗始祖は中国の玄奘三蔵で、インドへ経典を求めて行った求法の僧である(『西遊記』で有名)。

玄奘は、インドで唯識教学を学び、多くの経典や書物を中国へ持ち帰った。その後、弟子の窺基(きき)が法相宗として大成させた。これによって窺基は法相宗の宗祖となる。

唯識思想はインドの無著、世親によって大成された学説であった。その内容は、存在するものの本性(またはもの自体)とその現れる姿、形を分析して、体系化することである。

あるいは、唯一・根本の真理とさまざまな現象を分析することである。ひいては、心と体、自己と外界との一致を実践しようとすることでもあった。

日本には、白雉4年(653)、唐に留学した道昭によって伝えられた。さらに斉明天皇5年(659)に智通・智達、大宝3年(703)の智鳳・智鸞・智雄、天平7年(735)に玄昉らが唐に留学して日本に伝えた。

玄奘から教えを受けた道昭、智通、智達は帰国後、元興寺を拠点としてその教えを広めた。また窺基の孫弟子・智周から教えを受けた智鳳・親鸞・智雄・玄昉は帰国後、興福寺を拠点に教えを広めた。

徳一は天台宗の最澄とその教えの違いから、三一権実論争を展開するなど、南都六宗の中でももっとも勢力が大きく、栄えた宗派となった。

 

《教義》