今後加筆します。

御霊信仰に関しては、今多くの研究書、論文が世に出て、おおよその結論はでているのではないかと思います。

しかしまとめる必要はあるのも確かです。


『三代実録』 貞観5年(863)5月20日の条

     神泉苑における「御霊会」が初見。朝廷がおこなった。

『廿日壬午。於神泉苑修御靈會。勅遣左近衛中將從四位下藤原朝臣基經。右近衛權中將從四位下兼行内藏頭藤原朝臣常行等。監會事。王公卿士赴集共觀。靈座六前。設施几筵。盛陳花果。恭敬薫修。延律師慧達爲講師。演説金光明經一部。般若心經六卷。命雅樂寮伶人作樂。以帝近侍兒童及良家稚子爲舞人。大唐高麗更出而舞。雜伎散樂競盡其能。此日宣旨。開苑四門。聽都邑人出入縱觀。所謂御靈者。崇道天皇。伊豫親王。藤原夫人。及觀察使。橘逸勢。文室宮田麻呂等是也。並坐事被誅。寃魂成厲。近代以來。疫病繁發。死亡甚衆。天下以爲。此災。御靈之所生也。始自京畿。爰及外國。毎至夏天秋節。修御靈會。徃々不斷。或礼佛説經。或歌且舞。令童貫之子粧馳射。膂力之士袒裼相撲。騎射呈藝。走馬爭勝。倡優戯。遞相誇競。聚而觀者莫不填咽。遐迩因循。漸成風俗。今茲春初咳逆成疫。百姓多斃。朝廷爲祈。至是乃修此會。以賽宿祷也。』

 

上御霊・下御霊神社の御霊

 

早良親王(崇道天皇)、藤原吉子、橘逸勢、文室宮田麻呂、藤原広嗣、他戸親王、吉備真備、菅原道真、井上内親王。

 

早良親王(崇道天皇)

延暦4年(785)藤原種継が暗殺された事件にかかわったとされ、乙訓寺に幽閉される。

(「式部卿藤原朝臣を殺し、朝廷を傾け奉り、早良王を君為さんと謀りけり。」『日本記略』)

しかし罪を認めず、飲食を断ち、無実を主張。流刑地淡路国へ配される途中で死亡。淡路で葬られた。

その後、桓武天皇の夫人藤原旅子、母の高野新笠、皇后の藤原乙牟漏が相次ぎ死亡。皇太子の安殿も病気に罹る。

占いによって延暦11年(792)6月10日、早良親王の祟りと出たため陳謝を行い、平安京への遷都の理由の一つが、この親王の祟りから逃れるため。

 

延暦4年(785)~延暦10年(791)

   大風による水害、旱魃にゆる飢饉、病瘡などの疾病が大流行

延暦7年(788)

   大隅国の曾乃峯(霧島山)の噴火。

延暦19年(800)

   富士山が噴火し、災禍が続いたため、早良親王に対して崇道天皇と追称した。(このような追尊の例はほかにない)

 

 

伊予親王

桓武天皇と藤原吉子との間に生まれる。(平城天皇の異母弟)

 

大同2年(807)10月27日

藤原雄友(吉子の兄)が伊予親王に謀反の疑いがあると藤原内麿に報告し、天皇は11月2日に母子共々、大和川原寺に幽閉される。11月12日には母子共々毒を飲んで自害。

(背景に皇位継承の絡んだ疑獄事件で、藤原氏諸流氏の権力争いでもある。光仁元年(810)闘争が終了し、権力を握った嵯峨天皇が二人の霊を慰める法要を行っている。

 

大同元年~2年(806 ~ 807)にかけて悪疫の流行。

大同3年(808)、都内に放置されている死骸を埋葬、疫病鎮静のため初代時に諸大寺に大般若経を奉読させ祈願している。『日本後記』

 

 

橘逸勢

承和9年(842)7月17日、承和の変(藤原良房が計画した政治的陰謀。伴健岑等が謀反を企てたと逮捕され、計画に加わったとされる皇太子恒貞親王、藤原愛発等も追放された)に連座し、伊豆へ流される途中の遠江国で死去した。『続日本後紀』

のちに名誉回復し、仁寿3年(853)には従四位下に任命される。『文徳実録』

承和5年(838)10月14日、京都西山の南から北にかけて長さ30丈、幅4丈余りの白い虹が出現。10月22日から26日にかけての東南の空に彗星が出現。陰陽師がどちらも凶非と判断し、これを橘逸勢の祟りとした。『続日本後記』

 

文室宮田麻呂

謀反の疑いで承和10年(843)に逮捕され、伊豆国に流された。その地で死亡したかどうかは史料にも残っていない。『続日本紀』によると新羅人と交易をおこなっていた人物で、難波にも家があった。

 

 

時の朝廷に対してどの人物も謀反を起こし、流罪になり、その地で死亡している共通点がある。  

またその謀反は本人自身が企てていないと思われていることも重要である。

藤原広嗣、他戸親王、吉備真備、菅原道真、井上内親王らにも共通する。

※国家に対して大罪を犯したとされ、京都以外の死亡した人々でその罪が冤罪であった人物が「御霊神」となったと思われる。そしてその前後、自然災害や疫病の被害が大きかったのも大きな要素である。

 

 

 

【御霊会以前】

 

疫病の流行に対し、陰陽道的「疫神祭」を行っている記述がある。

「疫病祭」=神祇祭祀で「道贄祭」といい、魑魅魍魎が外から都へ侵入するのを避けるため、京城の四隅の路上に饗応し鬼魅を押し止めるのが目的である。

 この祭は、通常6月と12月に行われた。

これと同様な目的の祭りには「鎮花祭」があり、春の花が散る時疫神が分散し、病気を流行させるため、それを鎮めるための神事を執り行う。

(崇神天皇が太田田根子に大物主神を祀らせたのが始めとされる大神神社とその摂社である狭井神社の祭りが有名。

京都今宮神社の祭も鎮花祭(やすらい花)である。

 

 

慶運2年(705)12月9日の条(『続日本紀』)

 

《慶雲二年十二月乙丑(十九)》○乙丑。令天下婦女。自非神部、斎宮宮人及老嫗。皆髻髪。〈 語在前紀。至是重制也。 〉

 

巫覡達が髪を伸ばしていたことも考えられる。

中世の境界に住む人々、たとえば髪を伸ばしていたことで、男女とも大人になっても八瀬の童子といわれた京都八瀬村の住人を考察するうえでも興味深い。

一方で大宝元年(701)施行の僧尼令に、僧尼の身分の異動と寺院以外での宗教活動の制限、官許を得ないで出家する私度僧を認めず、民衆教化の禁止など僧尼の民衆への接触を極端に畏れていること、陰陽道に詳しい僧侶らを還俗せしめ、官僚機構に組み込んでいるなど、新しい大陸からの陰陽道の民衆への浸透を恐れているのがわかる。

 

 

慶運2年(705)12月9日の条(『続日本記』)

 

《慶雲二年十二月乙丑(十九)》○乙丑。令天下婦女。自非神部、斎宮宮人及老嫗。皆髻髪。〈 語在前紀。至是重制也。 〉

 

※巫覡達が髪を伸ばしていたことも考えられる。

中世の境界に住む人々、たとえば髪を伸ばしていたことで、男女とも大人になっても八瀬の童子といわれた京都八瀬村の住人を考察するうえでも興味深い。

 

一方で大宝元年(701)施行の僧尼令に、僧尼の身分の異動と寺院以外での宗教活動の制限、官許を得ないで出家する私度僧を認めず、民衆教化の禁止など僧尼の民衆への接触を極端に畏れていること、陰陽道に詳しい僧侶らを還俗せしめ、官僚機構に組み込んでいるなど、新しい大陸からの陰陽道の民衆への浸透を恐れているのがわかる。

 

天平2年(730)9月27日の条(『続日本記』)

 

《天平二年九月庚辰【廿九】》○庚辰。詔曰。京及諸国多有盗賊。或捉人家劫掠。或在海中侵奪。蠧害百姓、莫甚於此。宜令所在官司厳加捉搦、必使擒獲。又安芸・周防国人等妄説禍福。多集人衆。妖祠死魂。云有所祈。又近京左側山原。聚集多人、妖言惑衆。多則万人。少乃数千。如此之徒、深違憲法。若更因循、為害滋甚。自今以後。勿使更然。又造〓多捕禽獣者。先朝禁断。擅発兵馬・人衆者。当今不聴。而諸国仍作〓籬。擅発人兵。殺害猪・鹿。計無頭数。非直多害生命。実亦違犯章程。宜頒諸道並須禁断。

 

天平勝宝4年(752)8月17日の条(『続日本記』)

 

 

《天平勝宝四年八月庚寅【甲戌朔十七】》○八月庚寅。捉京師巫覡十七人。配于伊豆。隠伎。土左等遠国。

 

宝亀2年(771)3月5日の条(『続日本記』)

 

《宝亀二年三月壬戌【五】》○壬戌。令天下諸国祭疫神。

 

宝亀6年(775)8月22日の条 「疫神祭」が別の時期に行われている例。

 

《宝亀六年八月癸未【廿二】》○癸未。伊勢。尾張。美濃三国言。九月日異常風雨。漂没百姓三百余人。馬牛千余。及壊国分并諸寺塔十九。其官私廬舍不可勝数。遣使修理伊勢斎宮。又分頭案検諸国被害百姓。是日。祭疫神於五畿内。

 

宝亀7年(776)5月29日の条 宮中の大祓の後に大般若経読誦。

 

《宝亀七年五月乙卯【廿九】》○乙卯。大祓。以災変屡見也。

 

 宝亀11年(780)12月14日の条

 

《宝亀十一年十二月甲辰【十四】》○甲辰。越前国丹生郡大虫神。越中国射水郡二上神。礪波郡高瀬神並叙従五位下。」勅左右京。如聞。比来無知百姓。搆合巫覡。妄崇淫祀。蒭狗之設。符書之類。百方作怪。填溢街路。託事求福。還渉厭魅。非唯不畏朝憲。誠亦長養妖妄。自今以後。宜厳禁断。如有違犯者。五位已上録名奏聞。六位已下所司科決。但有患祷祀者。非在京内者。許之。

※淫祠を禁止し、集まる者に対して罰則を設けてもいる。

(淫祠=度が過ぎて天に哀訴し祝祷することの意(白川静『字統』)

 

 

 

「道饗祭」は卜部氏が古来司っていた呪術的祭祀である。

疫病の大流行とともに陰陽寮を中心とした陰陽師が朝廷での権威を高め「疫神祭」へと変化する。

 

「疫神祭」 陰陽道系の祭「四角四界祭」

    鬼神から御所の四隅を護る「四角祭」

(陰陽師による占卜をおこない、天皇個人や御所に漂う邪気、悪気、穢れた気が存在するか否かを調べる。存在を感じた場合「撫物」などの依り代を使用し「撫物」にこれらの邪気を依り付け、四界の境界の外の出てもらった)

 

『延喜式』「喜納堺十処疫神祭」

「撫物」に人形(ひとがた)として金銀人像が使用される

『延喜式』

金装横刀=口、金銀の人像2枚、鳥装横刀六口が用意され、東西文部が祓刀を上り、祓詞を読む。呪言では最初に陰陽道の主な神を述べ上げ、銀の人像、金刀を献じて穢れを除き長寿を祈願する。

※銀の人像は災禍を取り除く。『延喜式』の呪言では銀人を捧げ、災禍を除き、金刀を捧げ、帝祚を伸ばすことを請うとなっている。

※「撫物」であるなら金の像の役割は・・・陰陽道的発想からみれば、金の人像は陽を表現、銀の人像は陰で、二つが一つになって初めて穢れを消し去り、福をもたらすと考えられる。この場合、刀も二振あり、元来は、金および銀刀または鳥刀と対であった可能性もあり、この「疫神祭」はまさしく銷災至福の呪術として機能を持った行事であったと思われる。

 

「触穢の意識・災異思想の中で御霊を考え「個」「社会」に祟るものとして恐れた。

国家の最高権力者、祭祀者としての天皇は罪、穢れをすべて引き受け祓う役目。」

 


 

神泉苑での御霊会・降雨祈祷

 

延暦19年(800)7月 天皇の行幸

七月乙卯。幸神泉苑。」

         苑地 3月上巳 曲水の宴

            7月7日 相撲会

            9月9日 重陽

※空海、善女龍王を勧請。雨乞いの修法(請雨修法の道場)

 御霊会が行われた同じ場所で様々な呪法が行われた形跡がある。

(公的な呪術の場となっていた可能性も)

 

『日本略紀』 天長2年(825)閏7月19日の条

 

令宮中左右京五畿内七道諸國。講説仁王経。承前之例也。咒願文者。豫仰當時達文章者作。少僧都空海被配東宮講師。

 

天長4年(827)5月21日の条

 

遣使畿内七道諸國走幣祈雨。延一百僧於大極殿轉讀大般若経。

 

天長元年(824)2月7日の条

 

命小僧都空海。請佛舎利内裏。禮拝灌浴。亥後天陰雨降。數剋雨止。潟池三寸。是即舎利靈験之所感佒應也。

 

『遍照発揮性霊集』巻第一  空海

   秋日観神泉苑
 彳亍神泉観物候  心神怳惚不能帰  高台神構非人力
 池鏡泓澄含日暉  鶴響聞天馴御苑  鵠翅且戢幾将飛
 游魚戯藻数呑鉤  鹿鳴深草露霑衣  一翔一住感君徳
 秋月秋風空入扉  銜草啄粱何不在  蹌蹌率舞在玄機

彳亍(ていちょく)=歩みを止めて佇む

『三大実録』 貞観17年6月15日の条

 

真雅僧正以降、たびたび真言密教秘伝の祈雨作法が神泉苑で行われた。

 

《卷二十七貞觀十七年(八七五)六月十五日丙寅》○十五日丙寅。除目二人。』屈六十僧於大極殿。限三箇日。轉讀大般若經。十五僧於神泉。修大雲輪請雨經法。並祈雨也。遣參議正四位下行勘解由長官兼式部大輔播磨權守菅原朝臣是善。從四位上行左京大夫輔世王。向深草山陵。謝過祈恩。以神祇官言不雨之祟在伐山陵樹也。』有勅。赦獄中輕繋廿三人。
《卷二十七貞觀十七年(八七五)六月十六日丁卯》○十六日丁卯。申時黒雲四合。俄而微雨。雷數聲。小選開霽。入夜小雨。即晴。先是有山僧。名聖慧。自言。有致雨之法。或人言於右大臣〈基經〉。即給所須用度紙一千五百張。米五斗。名香等。聖慧受取將去。命大臣家人津守宗麻呂。視聖慧之所修。是日宗麻呂還言曰。聖慧於西山頂。排批紙米。供天祭地。投體於地。慇懃祈請。如此三日。油雲觸石。山中遍雨。

 

 

雨乞い=水の神、龍神、雷神

(古代中国では龍は太鼓、舞楽、音楽をも創作したとも考えられている。

神泉苑 3月上巳の曲水の宴は唐代の中国でも行われる。元々桃の咲く頃に水辺で行われた招魂続睨であり、豊饒を祈願する農事儀礼。

現在の神泉苑
現在の神泉苑

『三代実録』 貞観5年(863)  神泉苑における「御霊会」の史料

 

 廿日壬午。於神泉苑修御靈會。勅遣左近衞中將從四位下藤原朝臣基經。右近衞權中將從四位下兼行内藏頭藤原朝臣常行等。監會事。王公卿士赴集共觀。靈座六前設施几筵。盛陳花果。恭敬薫修。延律師慧達爲講師。演説金光明經一部。般若心經六卷。命雅樂寮伶人作樂。以帝近侍兒童及良家稚子爲舞人。大唐高麗更出而舞。雜伎散樂競盡其能。此日宣旨。開苑四門。聽都邑人出入縱觀。所謂御靈者。崇道天皇。伊豫親王。藤原夫人。及觀察使。橘逸勢。文室宮田麻呂等是也。並坐事被誅。寃魂成〓。近代以來。疫病繁發。死亡甚衆。天下以爲。此災。御靈之所生也。始自京畿。爰及外國。毎至夏天秋節。修御靈會。徃々不斷。或禮佛説經。或歌且舞。令童貫之子〓粧馳射。膂力之士袒裼相撲。騎射呈藝。走馬爭勝。倡優〓戯。遞相誇競。聚而觀者莫不填咽。遐邇因循。漸成風俗。今茲春初咳逆成疫。百姓多斃。朝廷爲祈。至是乃修此會。以賽宿祷也。

御霊が成す災いは京都から派生しているという。

 

貞観7年(865)6月14日の条

 

十四日癸亥。授近江國正五位下勳八等兵主神從四位上。』是日。禁京畿七道諸人寄事御靈會。私聚徒衆。走馬騎射。小兒聚戯。不在制限。』左京職言。天長年中。於八條二坊。造立七間板屋一宇。以爲乞人所居。而乞人之。別處停留無居止。頃年駈役囚人。隨便寄住。去年以來。無人居宿。加之。毎遇風雨。逾増腐損。欲加修理。非無煩費。望請。除弃以脱職累。太政官處分。依請。

※民衆が御霊会を行うことを禁じている。ただ単に御霊会だけを禁止しているのではないことに注。

 

貞観14年(872)正月廿日の条

 

廿日辛卯。是月。京邑咳造病發。死亡者衆。人間言。渤海客來。異土毒氣之令然焉。是日。大於建禮門前以厭之

 

 

 

 

『日本記略』正暦5年(994)

 

為疫神修御霊会 木工寮修理職造神輿二基 安置北野船岡上 屈僧令行仁王経之講説 城中之人招怜人 奏音楽 都人士女 持幣帛 不知幾千万人 礼了送難波海 此非朝議 起自巷説

 

『本朝世紀』

 

此日 為疫神 被修御霊会 木工寮修理職 造御輿二基 安置北野船岡上 先屈僧侶 令講仁王経 城中之怜人 献音楽 会集之男女 不知幾千人 捧幣帛者 老少満街衛 一日之内事了 還此於山境 自彼還放難波海 此事非公家之定 都人蜂起勤修也

 

『本朝世紀』長保元年六月十四日の条

 

「仍令聞食左大臣此由。篤被下停止之宣旨。随召仰検非違使。奉此由。検非違使馳向彼無骨所。擬追捕之間。件無骨法師等。在前間云々迯去已了。爰検非違使空以還向。且令申彼社頭無骨停止之由。干時天神大憤怒。(後略)」

 

『本朝世紀』長和二年六月十四日の条

 

「而依左大臣爪(ママ)仰。雑人數多出來。打留散楽人。破損其衣賞。此間御輿停留不能追却。供奉人并見物者等構称可有微咎之由。(後略)」

 

長保元年(999)、雑芸法師の「柱」が左大臣宣で禁止。

長和2年(1013)には散楽空車が左大臣の仰せで破却されている。

しかし、その禁止は神意に沿わなかったようで様々な凶事も起こっている。また民衆の要求もあったことも物語っている。「山」の風流(趣向)は鎌倉時代に復興された。