先に鳥辺野のご精霊さん(ごしょらいさん)、すなわち六道まいり、精霊迎えについて簡単に考えてきた。

 

京都の精霊迎えは8月8~10日(旧暦7月)であるが、全国的には13日にお迎えすることが多いのではないだろうか。

自身は僧でもあるので、8月に入れば墓掃除をし、13日にお堂の縁を開いて1日、訪れる檀家のご先祖、故人の戒名などの水塔婆を書き、14~15日と檀家を廻る。施餓鬼棚を作られてる家、できない家は床の間や仏壇に精霊を祀り、そして15日の夕方~夜、川に流している。(またはお焚き上げ)

高野山などでの寺院では、13日、奥之院の御廟で「消えずの火」の分灯を受け、帰路、奥之院参道に散在する寺院が管理している墓に詣で、ローソクに奥之院の火でつけながら経を読む。そして帰坊すると施餓鬼棚に灯をうつし、期間中ローソクに火は絶やさず、15日、精霊を送るとローソクを消す。

 

京都の精霊迎えが早いのは、もしかしたら清水寺の千日詣の影響ではないかという。

 

観音菩薩をまつる寺院では、全国で若干日がずれる場合があるが京都・清水寺では8月9日~16日、1年に1度の観音様の「功徳日」であるといい、清水寺の千日詣ではこの日参ると千日分お参りした功徳があるという。

 

これは「観音欲日」ともいう。

 

 

 

京都・清水寺の「千日詣」を簡単に考察してみたい。

 

「観音欲参記に曰、七月十日、四万六千日に向ふ。毎年今日、千日詣と称して、貴賤踵(きびす)を突きぬ。按ずるに観音欲日とて、正月より十二月まで、一月一日の日取はべる(侍る)。その中に七月十日をもって最上の欲日。ゆゑに参詣するならし。欲日と称すること、たしかなる説なきことなれども、俗に言ひならわせり。」

(江戸時代中期『滑稽雑談』(正徳三年))

 

 

これは俗な話の庶民信仰である。経典等に根拠があるわけではない。

ただ『観音経』などは日本人になじみの深い経典であるし、「念彼観音力」といって唱えるといろいろな災難から逃れ、観音様が救ってくれるという信仰がある。

強欲な信心であるとの意見は当時からあって、知識人や文化人、貴族、町衆などは恥ずかしくて近づけなかったともいうが、私は顔を隠し参拝した貴賤の都人も多かったかもしれないと思っている。。

これらは、いつしかからの、あくまでも俗説で、経典等で書かれていることでない。

 

ただ、やはりありがたいことであるし、この「欲日」を「功徳日」「本尊の縁日」といって、清水寺のみの話でなく、全国の庶民信仰の寺へ群集した。

 

東京台東区の浅草の浅草寺でも毎年7月9、10日は特に功徳が得られると「千日詣」が行われており、この日お参りすると千日参詣したのと同じ功徳があるといわれていたのが、江戸時代享保年間(1716~1736)頃から46,000日参詣したのと同じ功徳と言われるようになって「四万六千日」といわれるようになり、浅草寺から縁日に雷除けの護符が配られ、「ほおずき市」が開かれてにぎわうようになる。芝の愛宕神社なども同様である。

 

庶民一人一人が参拝して功徳をもらうより、大勢で参って一緒に参って功徳を得ようとし、1日に千人が参れば、一人個人の功徳も千倍にも、それ以上にもなるという信仰だ。

五来重氏はそれを「融通の原理」と名付けている。

詳細を調べたわけではないが、伊勢のおかげ参りにもそういう一面もあったのではと考える。

 

このような庶民信仰を作り出すものは、寺院の僧侶というより、市井の庶民の中で活動する勧進聖や遊行聖であった。

 

遊行の一遍上人が没した神戸市兵庫区の真光寺では、本尊は観音菩薩であり、7月9・10日、四万六千日が行われる。

同寺の説明では「一説には1升桝に入る米の数が46,000粒」という説もあるとしている。

真光寺の近くの同じく一遍上人ゆかりの時宗・薬仙寺でも8月に四万六千日が行われる。

 

壬生狂言を創始した円覚十方上人(道御)や木食養阿上人(正禅)なども、享保の頃、京都・六阿弥陀詣の毎月違う功徳日を3年3か月、39回廻れば祈願成就するとし、1年の最初で六阿弥陀廻れば極楽浄土へ行けるといい、安楽死の信仰があるため近年でもお参りが絶えない。

※洛陽六阿弥陀=真如堂、永観堂、清水寺(奥の院)、安祥院、安養寺、誓願寺 。 但し、7月の功徳日は24日なので、誤解なきように清水寺千日詣とはまったく関係ないことを附す。

 

七十一番職人歌合せ いたか
七十一番職人歌合せ いたか

 

清水寺では、7月10日(旧暦)には、塔頭寺院が輪番で、死者や先祖のために、経木塔婆をあげさせて、これをまとめて五条の橋(現在の松原橋)から鴨川に流していた。

これが「欲日」(功徳日)であって、死者の滅罪のためである。

今も六道珍皇寺で経木塔婆を書いてもらうと、これを水向地蔵にあげたり、焼いたりするのも、この「千日詣」の信仰が残っているからとされている。

 

五来重先生は、これらを総合的に考えて述べられている。(昭和60年大谷大学研究室・仏教民俗学講義)

「京都の今の8月9日、10日の六道参りは、清水寺千日詣に死者滅罪の経木塔婆を鴨川に流す行事と、お盆の樒や苧殻や蓮の葉、あるいは線香を買う盆市(草の市、手向けの市)とが結合したものである。

しかもこれは、庶民信仰に基づく民俗行事なので、貴族の日記や寺の記録に残っていない。

 

ただし、室町時代初期に成立した『七十一番職人歌合』には「いたか」の流れ灌頂というものが出ている。鴨川で経木塔婆を流していたことがわかる。「いたか」は板書きからきた呼び名である。

これに日にちは残念ながら書かれていない。しかし、場所は五条の橋であるし、清水寺千日詣の経木塔婆流しであったことは間違いないことである。

その歌は、

 「いかにせむ五条の橋の下むせ(咽)びはては涙の流くわん頂

  文字はよしみえ(見)もみえずも夜めくるいたかの経の月のそら読」

とあり、「いたか」は次のように人々に呼び掛けている。

 「ながれくわんぢやう(流灌頂)ながさせたまへ、そとば(卒塔婆)と申は大日如来の三摩耶形」

 

これは乞食にも似た「いたか」が死者のために経木塔婆を流せば死者の罪は浄められて地獄に落ちない。という説教唱導が行われていたと想像をできる。

大阪四天王寺では、お彼岸の時に経木塔婆に先祖の名前を書いて流す。

 

 

『洛中洛外図』に描かれている光景では、清水寺のほうで大きな角塔婆などたてて、大施餓鬼供養がおこなわれていたことがうかがえる。

清水寺が行う施餓鬼に、対して民間の遊行者、勧進聖が経木塔婆を売って、死者の滅罪と菩提のためにこれを鴨川に流させたのである。

ここでいう流れ灌頂とは、卒塔婆や印仏紙、あるいは名号札に水をかけたり、川に流したりして罪を浄める。これが庶民の考える灌頂なのである。

源平合戦で滅んだ平家一門や安徳天皇のために盲目僧たちが、毎年二月十六日に鴨川でおこなったのが「お経流し」で、その時語る平家物語が「六道の巻」または「灌頂の巻」である。

※灌頂:灌頂とはもともと頭の頂上に水を灌ぐ意味で、国王が即位の時、四大海の水を汲んで帝王の頭上に注いで四海掌握を意味する儀式が、密教において如来五智を現す五瓶の水を用いて、秘密訪問の印可伝授・師資伝授、密教の法燈を継承する重要な儀式。

 

このような民間信仰であるため、勅祭のようなものものしい行列や観光客も入ってこない。今に息づく、京都らしい盆なのである。

 

 

 

 

 


 

【現在の音羽山 清水寺『千日詣』】

 

清水寺では毎年8月9日~8月16日、千日詣りが行われ、本堂内々陣の特別拝観が行われる。

『十一面本尊千手千眼観世音菩薩』 オン・バザラ・タラマ・キリク

清水寺のご本尊・十一面千手千眼観世音菩薩は”秘仏”です。

ただしこの観音様と結縁できる「千日詣り」の「本堂内々陣特別拝観」では秘仏で、前立という十一面千手千眼観音さまを拝むことができ、秘仏の観音様の御手に結ばれた五色の綱を握って血縁することができます。

 

※音羽山清水寺については別途、紹介予定です。

 


 

「橋の聖」

 

清水寺を考える際に忘れられないのが、「作善」ともいわれて、五条の橋を架けることが、とても功徳になるとされ続けてきたことである。

平安時代中期の『赤染衛門集』の中に「橋造りたるひじり」が出てくる。五条の橋は有料の橋のようでもあった。東の橋詰と東の橋詰に聖がいて、どちらも橋銭を取って、橋が流されたり壊れることはよくあったことなので、すぐ架け直したので橋聖と呼ばれるのである。(北側の祇園社へ至る四条大橋も,、また三条大橋も同様である)

そしてこれは朝廷が造ったのではなく、あくまで民衆の力で架けられたのである。

伊勢神宮内宮の宇治橋なども橋聖がいて、通行料(橋銭)を取って壊れたらすぐに直す。

謡曲の『東岸居士』に「南枝北枝の梅の花、開くる法の一筋に、渡らんための橋なれば、勧めに入りつつ彼の岸に至り給へや」とあり、「勧め」というのは勧進のことである。観音様に参る法の道なので、橋を造る功徳に浴するようにお金を出してほしいということである。

今は橋の建造費の一部を負担してほしいとなっているのが、昔は功徳として建造費の一部を差し出した。このように橋を架けたり、道を造ったりする必要性を説いて回ったのは市井の聖であったことを見逃すわけにはいかない。

 

『法然上人行状図絵』には大勧進印蔵という者が出てくる。彼は清水寺境内に阿弥陀堂を建立しているが、五条大橋も造ってる。

 

 

橋聖

音羽山 清水寺について

 

中山寺星下り会