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【田の神と山の神】   柳田国男「先祖の話」土地が

 

家の成立には、かつては土地が唯一の基盤であった時代があった。田地が家督であって家存続の要件であった。それは、田地を、その開発なり相伝なりから家の世代を数えはじめ、必ずしも血筋のみを重視するのではなく、この両者は不可分のことと承知している農民は今でも多い。そうなると、祖霊が末裔の者たちを擁護しようという思いは自然と生まれて信じられてくる。

その中においても、ただ一つ卓越した存在の”稲”の重要性があげられ、神への供御し奉るという精神面のみではなく、その生産には人力では解決できないもの、水と日の恵みに頼る部分も大きかった。そのような田地を、家の存続のために子孫に残した祖霊は、さらにその年の豊年を思い授けてくれるものと子孫が考えてきたのも自然な考えであっただろう。

御田の神、または農神、作の神ともいわれている家ごとの神が、正月の歳神と同時に、祀る人々の先祖の霊であったとする(柳田国男)

 

春は山の神が里に降りてきて田の神となり、秋の終わりにはまた田から上って、山に還って山の神となる言い伝えがある。

〖「田の神山の神交代説(柳田国男)〗

国学などでは、山の神は「大山祇(おおやまつみ)」または「木花開耶姫神(このはなさくやひめのかみ)」がそうであるというが、実際は猟夫であったり杣樵であったり、または海上を往来する船の人々であったり、それぞれにおいて信仰は異なり、その神徳も変わってくる。

一つの山神を拝むのはたいてい新しい神社が多く、それもまた別種の信仰に基づいているものが大半である。農民本来の山の神は、一年の四分の一だけ山に坐し、四分の三は農業の守護のために里へ出て、田の中、または田の畔におられるので、実際は冬の間だけ山に留まる神なのである。

 

そのようなことで、伝承、作法も別々で、再び家に帰ってこられる祖霊や、直接高い大空から家々に降りてくる祖霊や、またあるいはいったん家へ還って祭を受けられ、それからまた昇っていくよう信じられたりもする。

どちらにしても一年に両度、春は来たり冬は還っていく、一定の去来の日があることはすべてに共通していて、それを多くの農村では「山神祭」や「山の講の日」などという。一つ、統一されていることは、祖霊の去来の日が一致していることで、旧二月と十一月の七日、九日、十二日等、色々な日が設けられている。東北地方などではかなり広い範囲にわたって、「ときの日」の十六日を、農神、御作神の昇降の日としている。他は、冬の方は十月が多く、春は旧二月の十六日のところと、三月の村もある。

 

柳田国男『先祖の話』抜粋

 

 

自身の話、見解を不勉強ながらも述べてみたいと思ってます。

日本人の信仰というか、生活そのものが「田の神山の神」に基づくのではないのかと思います。

私は18歳の頃より寺に居住し、仏教、密教という教義などの学問を受け、師匠はともかくとして、諸先輩方や、教相は松長有慶先生、事相は中川善教前官御坊という先生に恵まれました。私の学生生活は国史学という分野で、これも古文書等の史料が重要で歴史的事実を詳らかにしなければなりません。

学生当時、当時助教だった日野西真定先生から民俗学を習い、大谷大学に五來重先生に教えを乞いました。

しかし、当時必至必然で勉学していたのは、当時は法話をしたり、執筆したりするためには、教義を明らかにわかりやすく説かないとならないのが法話であり、歴史を述べる場合も史料批判から入るという、史料重視の歴史学です。

民俗学と言えば、私には歴史学や宗教学と正反対のことも述べねばならず、とても手につかず放り投げていました。

後年こう考えます。

古くの庶民が文字を残すことはありません。私は中世史が主要研究でしたが、大日本古文書や国史大系といった史料を基礎に考えていきます。そこに残っているのは、政権の記録であったり、寺社の記録、貴族の日記などが主体となり、民衆自身の詳細な声を聞くことはできません。鎌倉時代に入りますと、荘園の文書から「ミミミヲソギ、ハナヲソギ・・・」というようなカタカナ言上状が登場しますが、これも地元の荘官が代筆するようなもので細かいところまでわかりません。

庶民の声は、文書を残さぬ代わりに、祭りや日常生活として、現在でも名残を残しているものも多々あって、そのあたりから推測を出来る声を拾っていくことです。

これだけは申し上げておかねばならないのですが、信仰の陰には、そこに至る道中の関係のないハレの楽しみもあったし、その時代によって祭の形態も変わってきます。なので変化があることを認めつつも、どうゆうな新しい文化が生まれたらいいか、またどのように守っていけばいいか。

「時代だから」という言葉は大嫌いで、守るものを守っていかねばなりません。将来、経済が縮小した時、なにを残すべきなのか。そのようなことを考え残すのも必要です。ただ民俗学には、確かな古文書から決定されたりしませんので、様々な意見に分かれることも多い。しかし根っこは変わらないんんだ、ここは守っていきたいということはいつも考えていきたいと思ってるのです。