3月3日は「桃の節句」「雛祭り」として周知のところであろう。

雛を飾り、白酒、菱餅、雛あられなどを供え、桃の花を生ける。

女の節句ともいわれるが、土地によっては男子に人形を贈る場合もあり、厳密には男女の別があるとは言いがたい。

 

不明なことではあるが、この日を「上巳節句」というのは知られるとおりだが、これは元々は、旧暦3月の上の巳の日、つまり朔日~12日の間に訪れるその年の3月1番最初の巳の日に行ったのではと推測されるが、これがいつ頃雛遊びと結びついていったのかはわからないでいる。 

 

『荊楚歳時記』宋懍著(6世紀・梁代)には、3月3日に野外で禊祓いをおこなった旨が記載されている。

元は上巳の日であったのが、いつしか3月3日と同じとなり、五節句の重三におこなわれるようになったと推測できる。重三とは三が重なるからめでたいという中国の思想で、奇数が陽数なので祭日とする陰陽感(中国の民間信仰)である。明治6年に日本では五節句は廃されたが、民間の年中行事として残るものである。

(1月7日人日、3月3日上巳、5月5日端午、7月7日七夕、9月9日重陽)

 

「三月三日(禊祓す)士民並びに江渚池沼の間に出で、(清流に臨んで)流林曲水の飲をなす。」

『荊楚歳時記』

 

これは明代のテキストで、禊祓・清流を補った。しかしこれには注が添えられている。

 

「注に謂ふ、今、三月、桃花水の下、招魂続魄するを以って、歳穢を祓除すと。周礼に、女巫、祓除釁浴すと。鄭注に云ふ、三月上巳、水の上の類なりと。司馬彪の礼儀志に曰く、三月上巳の日、官民幷びに東流の水の上に禊飲す。弥々͡此の日を験あらしむるなり。(下略)」

『荊楚歳時記』註    隋代(589~617) 杜公瞻の註

     (祓除(みそぎはらひ)とあり、水辺で穢れを祓っている)

 

昔は、三月の始めに桃の花の咲いた水辺で、身の穢れを禊祓すれば長命になると信じられていたことがわかる。 

 

 

日本では、前奈良期の、文武天皇の頃から宮廷に入り、曲水の宴を行うようになったようである。

顕宗天皇元年(485)~三年(487)三月三日上巳の日、苑で出て曲水の宴を催されて大宴会をされた。

しかし日本にも古来より、弥生(三月)の天気のいい日に山遊び、川遊び、浜遊びがあって、それを中国風に「曲水の宴」とした。これに関しては『日本書紀』編者の誇大表現も入ってるのではないかと思うのである。

 

≪五節句≫

 人日 1月1日 七草の節句   七草粥

 上巳 3月3日 桃の節句、雛祭   菱餅、甘酒等

 端午 5月5日 菖蒲の節句  菖蒲酒、菖蒲湯、(関東)柏餅、(関西・中部)ちまき

 七夕(しちせき) 3月3日   七夕(たなばた)  素麺(裁縫の上達願い)

 重陽 9月9日 菊の節句  菊酒

 

 

夏の終わり  六月 「夏越の祓」(大祓)

冬の終わり 十二月 「追儺」の大祓

春の終わり  三月 罪穢れを祓う祭もあったのではないかと思う。

 

 

中国の上巳の祓除が宮廷に入ったので、3月3日に山遊び、川遊び、浜遊びが固定して、桃の節句になったのではないかと思う。

旧暦3月は寒さも緩み、花々が咲き始めるもっともよい季節で、水にも入りやすくなる季節である。冬の間に溜まった穢れを落とす禊が行われたのであろう。

 

 

【湯浴(ゆあみ)】

 

浴(ゆあみ)をする川を湯川(ゆかは)というのは、「ゆ」は「い」(斎)と同じで、潔斎(いもひ)の意味であるから温湯の湯ではなく、水浴潔斎する川のことである。

このように桃の花が咲いた水辺で陽光を浴びながら水浴する乙女たちは、羽衣の天女になったり、白鳥となって飛んで行ったなどの幻想を生んだことだろう。

 

「雛祭が生まれる前にも女の子の節句と結びつきやすい。

この時、河原や浜辺で外竈を組んで飲食したことから、いっそうに女の子の遊びと転化しやすい。今、雛人形一式に箪笥、調度とともに塗り物の膳碗がついているのはその名残ではないかと推測する(五來重「仏教と民俗」)

 

『浴』

祖先を祭る廟の中にサイ(神への祈りの文である祝詞を入れる器の形)を供えて祈り、そのサイの上にかすかに現れた神霊の姿であり、廟に祈るためにみそぎをすることを「浴」といい、「ゆあみ、あびる」の意味となり、古くは死者を浴することが行われたが、それは祓い清めるための復活のための儀式であった。髪を洗うことを沐(あらう)といい、髪を洗い、体を洗う沐浴はみそぎの方法だった。

白川静「常用字解」

 

 

旧暦3月の節句の山磯遊びは、花見や潮干狩りなどに名残を残してる。

3月の山磯遊びは、中国の上巳節句の「流杯曲水の飲」(曲水の宴)が民間のものに変容したという説があるが、折口信夫は「春の成人式」の名残りとし、そちらのほうに与したい。

 

※中国の上巳が「上流士民」の祭であるのに対して、日本で「女の節句」になったのは別の原因がある。

 

日本の年中行事が中国の模倣で、貴族や支配者の文化生活に取り入れられたのに対して、これが庶民の行う日本固有の宗教儀礼、年中行事が同化し、日本独自の行事になっていくのが常である。そして名称は中国風であっても、内容は独自のものになっていくのである。

 

 

 

『山遊びと磯遊び』

 

女の成人式は、別に四月八日の山籠りによる「天道花(纏頭花)」の行事もある。

三月三日の浜遊び、磯遊びも成女式だったと推定される。

山籠りの成女式のなごりであろう。

沖縄県南城市の久高島では、イザイホーに成女式の名残が見られるが、現在ではイザイホーも存続が危ぶまれている。イザイホーは、ニルヤカナヤ(ニライカナイ)からの来訪神を迎え、神女(ナンチュ)という一家で神に仕える女になる儀式であるが、原型は島内七カ所の御嶽に参拝する。夕神遊びなど、成女式の名残が見られる。

 

これらの行事のすべては「通過儀礼」というもので、少年少女が一人前の大人になっていくための儀式なのである。

 

男では、成年式に山登りの苦行があった(大峰山や白山、立山に登る)。

京都では3歳までに愛宕山へ登ることが今でも見られる。これは親が背負って登るため、親になるための成年式のようなものかも知れない。(一生火事にあわないと言われている)どちらにしろ苦行である。

おそらく七五三の「子供組入り」の通過儀礼でもあると思う。

 

「三月三日の桃祭に(中略)また女子生れて三歳になりぬれば、此桃祭の日、いろいろ布の小袋を縫て二袋其丁女(おとめ)に持たせて奉るためし也。」

菅江真澄『月の出羽路』(仙北郡四)

 

秋田県仙北郡神岡町、正太寺(勝大寺)・龍蔵権現へ、女子三歳になれば三月三日に、布の小袋を縫って成女に持たせておさめたものである。

「丁女(おとめ)」は成年に達した女子で、三歳の時と成年の時、ともに納めている。

 

『旅と伝説』(五巻二号)「童謡・年中行事・俗信」(宿久克己氏報)

大阪府三島郡豊川村

四月のメンギョという山遊びが出てくる。これも三月の女行(めぎょう)だったのではないかと思われる。山登りが成女式の行である。

甲州西八代郡

三月節句に、女の子が川原に竈をつくって飯を炊くのを「竈飯」と言ったのは、やはり成女式のために山に籠った姿を、野外の炊飯に残ったものと思われる。

 

成女式は秘事な部分も多くて全容は明らかにはしにくいが、女の子供の行事に名残が残されている場合も多く見受けられる。

 

「カンナベエ」 

信州南佐久郡では三月三日に川原の外竈で炊事する遊びがあり、これは「神鍋会」と思われ、神へ食べ物を捧げたもののようだ。

「コドモノハナミ」

上総君津郡地方では、三月三日には男女の子供が集って、畑の隅などで餅を煮て食べたという。

この餅や焚火を家々からもらい集める「花の勧進」があった。

柳田国男編『歳時習俗語彙』。民間伝承の会、昭和十四年。のち復刻版、国書刊行会、同五十年。

 

※野外炊飯に男子が加わるのは成女式が変化していったもので、それが名残りではないだろうか。

古くは、訪問、通い婚、夜這い、女の夜市といった開放的性向もあったのもわかっているので、成女式が終わると男子が訪問したものかもしれない。

 

男女が共に雛祭をしたものの古くは、山遊び、川遊び、浜遊びであった。これらが変化していくのは元の成女式の山籠り、磯籠りであり、史料は少ないけれど、男子が訪問、もしくは襲った時代もあったのは少ない史料から伺える。

 

これは「ヒナアラシ」「ガンドウチ」という習俗があって、女の子の雛祭のご馳走を、男の子が盛んに盗んだりして食べることから、山籠りの変化していったのがわかる。

「ガンドウチ」は飛騨、美濃では子供たちが雛祭の家々を廻って、おとなしくご馳走になるのが「ガンドウチ」である。

 

折口信夫は、未成年の島籠りをする島(俗謡)が「毛無島」であろうと推測されている。

「下田の沖の毛無島 毛のない女は〇〇だ 〇〇にふれれば 三日のけがれ 三日どころか 一生のけがれ」

 

全国に毛無島という名の付く島も多々あるようで、雛祭の磯遊びの関係、成女式の名残りと考えられるのである。

 

 


 

人形(ヒトガタ)と雛人形

 

中国の上巳節句の習俗からは「女の節句」の言葉は出てこない。では「女の節句」はどういうふうに日本文化に取り入れられたのであろうか。

 

〔日本の女の節句〕

五來重は、山遊び、磯遊び、三月場、三月講、あるいはヒナアラシ、ガンドウチ等の伝承からわかる。

この女の節句から雛流しが雛祭になったのではないかという。

 

「三月の朔日に出で来たる巳の日、今日をかく思すことある人は御禊し給ふべきとなまさか(生利口)しき人の聞ゆれば、海面もゆかしうて、出でさせ給ふ、いとおろそか(粗末)に軟障(ぜんじょう)ばかりを引きめぐらして、この国(摂津)に通ひける陰陽師召してはら(祓)へせさせ給う。舟にことごと(大袈裟な)しき人形(ヒトガタ)のせて、流すを見給ふにもよそへられて

  しらざりし 大海のはらに 流れきて ひとがた(人形=他人事)にやは 物は悲しき   」

『源氏物語』「須磨」

(光源氏は須磨の浦で雛流しをする。それは三月朔日が巳の日にあたり、貴族社会の上巳節句である。

 

   

これは賀茂川で雛流しをしていたのを模して、煙幕をめぐらせた中で祓いをしたものであり、本来なら光源氏はここで自ら身体を禊をするはずであった。しかし、ここでは自分の身代わりに人形を流すのである。

したがって水浴の禊をしなくなってから雛流しが始まったといえる。雛祭の前身は雛流しにあるという説になっているが、その前に宗教的な概念としての禊があったと思うのである。

                              

禊の水浴(上巳節句)は、一年間、または十二月の大祓から2ヶ月経た罪穢を祓うためのものであったことは確かである。

これが成女式の水浴となれば、通常十三歳の少女までの穢れを流して、清浄な成女として生まれ変わるという通過儀礼である。

 

(先述)沖縄県久高島のイザイホウ(12年ごとに行われる、しかし1978年を最後に中断し存続が危ぶまれている)を実際に調査された民俗学者の報告書を見ていると大変興味深い。ここでは触れないが、巫女を論ずる場合も興味深い。

このイザイホウでも厳粛な禊祓いがあった。毎朝、特定の海岸の泉の浴びているのは、かつて深夜に海水に浸かって禊したそうである。

余談であるが、学生時代の恩師は、久米島で風葬・洗骨の儀式を見たそうで、海辺の洞くつで風化して骨になった遺体を、親族の女性のみで海水で洗うそうだ。これも亡骸の穢れを洗い落とす禊であるらしい。久高島でも海岸で行われる。

 

 

 

 

様々見たように、常に通過儀礼は「生まれ変わり」なので、古い自分から穢れを祓う禊をする。

 

禊が人形(ヒトガタ)に代わり「流し雛」となった。紙の人形ならば、体を撫でて息を吹きかけて流す「撫物(なでもの)」になり、これが雛祭の紙雛た立雛の起源である。流し雛として流す、鳥取市用瀬町(もちがせ)の流し雛は有名である。

また土や木で作った天児(天勝)や這児というものも雛祭の起源の一つである。

多くは子供の枕元に置いて、その子の禍を負わせて流したり、神社へ納めたりする。

この這児を嫁の実家から贈ったことから、女児の節句の雛人形を親元から届ける習俗が始まった。

 

人形のもう一つの始まりに、東北地方に多いコケシである。

先祖または氏神のシンボルとして、男根形の木や石を神体としたことから始まる。そこに仏教の影響で、仏像のように木彫神像として発展していったもので、コケシ形の人形や草人形(趨霊)は、宮咩奠(みやのめのまつり)の人形に受け継がれたそうである。

この人形については、寛元四年(1246)に書かれた『執政所抄』に残されていて、その元治二年(1125)の「宮咩奠祭文」があり、寛治七年(1093)の記事に人形の作り方が出てくる。これには陰陽道の影響があると思われるが、「衣笠二具、比々奈七人、男形三人、女形三人、召一人」などとあるところから、住吉人形か、十日戎の吉兆笹に下げた繖(きぬかさ)人形であっただろう。二つの繖に、男女三体ずつの人形を下げたのである。そしてこれを祀る供物が、もじり祭文風の宮咩奠祭文に出ていて、縁起を担いだ様子がわかるのである。

 

 

夏越の祓のヒトガタ
夏越の祓のヒトガタ

すなわち、日本固有の紙や草の人形は流されたが、木や土の人形は神体として保存され、形象化が精巧になって雛人形となり、贈答されるようになった。特には貴族の献上雛として美術品化していったのである。

この雛には、女子の願望をこめて結婚を表す夫婦雛ができ、その理想化されたのが、内裏雛となる。そうすると女官や怜人、随身、桜橘などが加わって、ますます宮廷風を表すようになった。

その上で、山遊び、浜遊びの名残りが、台所道具や調度をつけることになって、今のような華麗な雛祭の人形としてそろったのである。

 

山遊びや磯遊びの名残は、今も潮干狩りやバーベキュー、そういう形で意識なしにDNDの中に残っておこなわれているのではないだろうか。