京都では大晦日の夜、祇園さんへ白朮(をけら)火をもらいにいく。

八坂神社では、古式にのっとって火きり臼と火きり杵でご神火をおこし、除夜祭の後、境内に吊られた灯籠に点され、人々の願いのかかれた「をけら木」ともに、夜通し焚かれる

人々は火縄に移された浄火を消してしまわないようにぐるぐると回しながら持ち帰る。持ち帰った「をけら火」は、神棚仏壇の灯明に灯したり、雑煮を焚く火種にするなど、新年の祝事とし、燃え残った火縄は「火伏せのお守り」として台所にお祀りししている。

 

これを「年榾(ほだ)」または「世継榾」ともいい、旧年から新年に焚き続けるのである。

大晦日の夜に、この消してはならない火を不注意で消してしまった「大歳の火」の話を後述する。

 

さて、日本人にとっての正月はどんなことだろう。

除夜の鐘の前から寺社にお参りする。これを「2年参り」といい、年をまたいでお参りする人も多い。

「大晦日」は、その字の通り「おおつごもり」である。

「つもごり」とは「月籠もり」のことで、旧暦では月の運行で満ち欠けが「みそか」と一致し、毎月旧暦「みそか(月末日)」は新月となる。そのような新月の夜には「月籠もり」といって、新月を迎えるためにお籠もりし、月の満ち欠けを生命の「死と再生」と感じ信じた。

特に「大晦日」は、新しい年を迎える大切な行事で、多くの晦日行事が行われる。

古くは氏神のお社に村人全員でお籠もりして一夜を明かした。日本では「満年齢」と「数え年」の二つの歳の取り方があるが、「数え」では、この日に日本人は一斉に一つ歳を取るのである。

日本ではそのように、「年始」は神聖なものとし、歳神、歳徳神としてお迎えするのである。「大晦日」は疲労、穢れた旧年の歳神を見送り、新しい生命力に満ち溢れた歳神を迎えるのである。

歳神の正体は、祖霊(先祖の霊)ともいわれ、また山の神=田の神でもあり、生命の再生を願うもので、稲神でもある。命の甦り・無事を祈って、年越し参り、初詣になっていく。

 

元旦には初詣、恵方参りに行く。

元々は先の通り「年籠もり」で、遠つ御祖(みおや)をまつる氏神(氏社)に大晦日に籠もり、先祖の霊を「年玉」(年魂)としていただき、みんなで歳をとる。そして夜が白々しくなって明けてくると、生命が再生し、身も心も新しくなって、皆で一つ歳をとって帰る。「明けましておめでとう」となる。

 

「年籠もり」には、京都・八坂神社などがそうであるように、灯籠で絶やさず火を灯したり、元旦火・庭火・大火を焚いた。「歳の火」「年越トンド」は暖を求めるものではなく、歳徳人(氏神という遠つ御祖の御魂や山の神・田の神)の象徴として焚かれる。そしてその御分火を頂くというのは、これが本当の「年玉」なのである。「年玉」はお餅のことでもあるが、浄火はもっとも大切な根源の御魂なのである。

「をけら火」も単に炊事の火を頂くのでなく、年玉(御魂)をいただいて再生するということである。

かつて氏神の社に不滅の聖火の焚かれていた場所は、氏族の長が「日継ぎ」をおこなった。

皇室では「天つ日継ぎ」といって、天皇のことである。その一説に火を絶やさない習俗は日本には古くからある。山本信哉は出雲国造の古伝新嘗祭における火は初詣、恵方参りに行くと述べられている。

 

元々は先の通り「年籠もり」で、遠つ御祖(みおや)をまつる氏神(氏社)に大晦日に籠もり、先祖の霊を「年玉」(年魂)としていただき、みんなで歳をとる。そして夜が白々しくなって明けてくると、生命が再生し、身も心も新しくなって、皆で一つ歳をとって帰る。「明けましておめでとう」となる。

 

 

 

「年籠もり」には、京都・八坂神社などがそうであるように、灯籠で絶やさず火を灯したり、元旦火・庭火・大火を焚いた。「歳の火」「年越トンド」は暖を求めるものではなく、歳徳人(氏神という遠つ御祖の御魂や山の神・田の神)の象徴として焚かれる。そしてその御分火を頂くというのは、これが本当の「年玉」なのである。「年玉」はお餅のことでもあるが、浄火はもっとも大切な根源の御魂なのである。

 

「をけら火」も単に炊事の火を頂くのでなく、年玉(御魂)をいただいて再生するということである。

 

かつて氏神の社に不滅の聖火の焚かれていた場所は、氏族の長が「日継ぎ」をおこなった。

 

皇室では「天つ日継ぎ」といって、天皇のことである。その一説に火を絶やさない習俗は日本には古くからある。山本信哉は出雲国造の古伝新嘗祭における火鑚臼継承の神事(亀太夫神事)から「火継説」を出しているが、疑問点もある。

「火治り(ひじり)」は聖火を不滅に管理する者という名から、半俗半僧の「聖」との説もある。

 

 

 

さて、奈良県桜井市の大神神社の繞道祭(にょうどうさい)も神火の行事が古式で有名である。

新年の午前零時、拝殿東の三輪山の禁足地の中で宮司によって火がきり出され、拝殿の燈籠に移される。そのご神火で小松明に点し、2人の神職が拝殿の中を走り出て、拝殿前の斎火のところで待っている、3本の松明に火が継がれる。そして、「先入道(さきのにゅうどう)」「後入道(のちのにゅうどう)」と呼ぶ2本の大松明(長さ約3m)と、それより少し小さめな神饌松明と呼ばれるものの3本を氏子の若者が担ぐ。そして神職とともに山麓に鎮座する摂末社19社を巡拝する。そして境内の「ご神火拝戴所に移されると、待ち構えていた参拝者が競って持参した火縄などに移して持ち帰り、神棚の灯明に点け、また雑煮の火などに用いられ、1年間の無事息災を祈る。「繞」というのは巡るという意味で、火を継ぐのである。

 



生田神社の煤払い
生田神社の煤払い

 

大晦日は現代にあっても大切な各家の行事である。

正月に祀るのは、歳神である(歳徳神、正月さまとも)。その歳神を家に勧請してもてなし、年内の家内安全、無事息災を願うものである。

歳神さまは、祖霊であっても、農神であっても大きな問題ではなく、祖霊にしても、山の神にしても、山から里へ降りてくるのである。その方法も、風に乗って来ても、榊などの常緑樹であっても、幣であっても、動物の背に乗ってくるのもそれは問題ない。家の前に飾られた門松を一時依り代となって、家へとやってくるのだ。

 

歳神を迎える準備は12月中旬から始まる。

古くから12月13日は埃と煤を落とすために「煤払い」をする。煤払いが終わると門松を立てる。その間、煤神さま、竈の神様にお供え物をするところもある。そして歳神を迎えるのである。

飾り付けた門松は、依り代となるが、仮の宿である。そして神を家に招き入れるのである。

近年、地方の名士の家など、門松も華美なものになってきた。色々理由をつけて、松竹梅が縁起良いとか菰の巻き方であったり、ほかに南天を飾るとかあるけれど、近ごろの家は入り口も狭いマンションも多く立派なものは立てにくい。でも本当は、地味であっても依り代となる常緑樹、すなわち松だけでもよくて、大きさも関係ない。スーパーなどで売ってる小さな門松でもちゃんと来てくれる。

古くは、恵方の方向の山に入って松を切ってきて飾り付ける「松迎え」が行われていたが、最近では聞かず絶えてしまったようだ。しかし「煤払い」が終わって、門松を立て飾ることを今でも「松迎え」と呼ぶところもある。

 

門松はいつまで飾るのか。

歳神を迎えた大晦日より五日から七日あたりまでということが多い。

一般に七日の朝方に取りはずす場合が多く、それまでの期間を「松の内」という。

これは、江戸中期のころの「町触れ」で定着したという。江戸という都市から、松の内の習慣ができたそうである。寛文2年(1662)正月六日の町触れに「松飾り明七日朝取可申事」とある。

 

江戸以外でのお正月は、普通1月7日が本当のお正月扱いで、これを「小正月」といった。

1月15日が「事じまい」で、門松を外すところが多かった。それらはトンド(左義長とも)で門松や注連縄を焚き上げて、鏡餅を焼いて食べた。これが「事じまい」である。

ちなみに正月を1日から7日までとするのが「大正月」というのに対し、7日からのものを「小正月」「田舎正月」ちった。

 

神座(かみくら)・年棚

 

都会などの一般家庭では行われにくくなってきたが、家の中に、神座を造って歳神を迎える。これは元来、通常の神棚とは別にしつらえられる。

この神座は大きく二つの種類がある。西日本に多い「拝み松」、東日本に多い「歳棚」である。どちらにあっても仮設で設けられるものである。

「拝み松」年俵ともいい、床の間に種籾を入れた米俵を置き、上に松を置くのが一般的で、地方によっては竈や土間の上に設置するところもあった。種籾は秋に収穫した、翌春に撒いて再び収穫を得るために不可避なもので、人々はそこに穀霊が宿ると信じた。そうみれば歳神は、祖霊であるとともに山の神田の神でもある。

「年棚」は、歳神棚である。恵方棚ともよばれ、歳神がやってくる方向(恵方)に向くように台所や居間の天井から吊るされた。この棚へか神餅などを供え、先祖の位牌などと祀る。

「拝み松」も「年棚」も、さまざまな事例を合わせてみれば、歳神や餓鬼仏の、時期が定められた「来訪神」で、家に居ついた「常在神」とは区別される。

歳神を迎えれ神座や供物は場所によって異なるが、餅やその地方の食材、ダイダイ・ミカン・カキ・エビ・カズノコ・昆布なだを供えることはおおよそ共通する。

1年の豊穣を祈念する人々がそこにはあるのだ。

 

注連縄の事

 

注連縄は、神が降臨した神聖な場所を示すための一種の表象である。悪霊や不浄なものの侵入を防ぐ役「魔除け」の役目をもっている。

歳神を迎えるよう家の入口の玄関などに張る。竈の神などを祀る場所に張ったりもしてるところもあるが、どちらにせよ結界のためである。

注連縄は多く、「左縄」といい、逆方向の左縒りに縒る。張り方は各地各家の慣習で変わるが、共通するものとして、綯いはじめが、向かって右流れになるように、藁̪̪垂が綯いこまれた縄ならその垂が右流れとなるし、切り紙が垂にとりつけられているならその垂は左流れとなる。注連縄の藁垂には、三束、五束、七束といった奇数が縁起いいとされる。そして一般的には、その間にシメノコ(注連の子)とよぶ紙垂がつけられる。これは当然、二組、三組、四組と偶数となる。長い注連縄を引きまわす場合、荒縄のみ、またはそれに紙垂を均等にとりつけられる。

正月の紙垂のみに、ゆずり葉や松の葉、樫の葉などを紙垂の代わりに取り付ける例もみられるが、本来はこちらが正しく、常緑樹の葉が紙に変わっていったと思われる。

紙が使われるようになるのは、「神道」という概念が広まったことで、原始神道では高価な紙をそう使用もできない。そしてなにより、民間の信仰は、体系だった神道や仏教よりずっと古くからあり、そこではなんらかの身近なものを祭具としたはずである。

ここで、常緑樹の葉が使用されているのが興味深い。常緑樹は、神の依りどころとなるものであると同時に、歳神様が山から乗ってやってくるという信仰が根底にあると思う。

注連縄の取り付け、取り外しは門松に準ずる場合が多いが、地方によって微妙に変わる場合が多い。

伊勢地方の注連縄は、ゴボウ注連の変形で「笑門福来」と記した木札をとりつけ、正月だけでなく1年間を通して取り付けられる。

 

「鏡餅」

 

正月の鏡餅は、ただお供えをしているだけでなく、歳神依り代となるのである。

飾り松に年棚、鏡餅など多くカムが依りつくというとは、どこに本物のカミがいるのか。と言われる方もいる。しかし、日本人の伝統的精神においてはそれは問題にならない。通常の神社における祭礼などでも、神籬や御幣、幟、鉾、神輿に至るまで依りつく。それはいくつにでも分霊をすることが可能であるからである。歳神も門松にも鏡餅にも依りつくのである。

古来より、米粒にはイネの霊力(稲魂)が宿ると信じられてきた。これは日本だけではなく、稲魂信仰は、古くから稲作が生活基盤の東アジアの国々各地でみられることである。大きく天候に左右され、生命にかかわる稲作は、先祖の人並みならぬ苦労があった。そして水田が開かれ、稲作が安定的に行われ、また異常気象で不作だった日はよけいに丁寧に祀り、そこには強く祖霊信仰が篤くもてなされたのである。

その米粒を凝縮させた餅や酒は、米のもつ神聖な力がこもったものを食するとあれ、もっとも至上なご馳走なのである。それをカミに供え、そのあと人々が食べることによって稲の霊力と先祖の霊力が人々に宿るのである。

正月の鏡餅はその代表的な者である。

正月の鏡餅は、床の間や神棚に供えられるので「御鏡(おかがみ)」とも呼ぶ。これは丸い餅であって、普通の持ち寄るいくまわりも大きいのが普通である。そしてそれを二つに重ねて二重とする。

「鏡餅」といって鏡に模してるのは、三種の神器の神聖な鏡をもされてるのではないかと思う。神霊は鏡に依りつくからである。神社のご神体の丸い鏡も依りつくし、他に地名などに鏡池などと鏡の名の付くものも神の出現などの由来を残しているものが多い。

食用の餅に、関東などでは長方形の餅を使うこともあるが、鏡餅は丸餅であることに意味があるのだ。

一説に、心臓を形どったものということもあるが、心臓の形は周知されてるわけではないので、心、精神的なことではないか。

 

「お年玉」(御魂分け)

 

鏡餅を正月に飾る。この鏡餅は、実は神の依り代である。その祖霊・神霊(御魂)が依り憑いた鏡餅を下げて、分けていただく。それを「おかげ」というのである。これはなにも鏡餅だけではなく、神饌(カミへの供え物)は御飯も御酒も同じである。

正月の鏡餅。それを下げてきて家中で分けて食べる。雑煮の意味もそこにあるのだ。

つまり、歳神からの「御魂分け」であるから、これが「歳魂」(年玉)なのである。

「お年玉」は今では、大人から子供への新年の贈り物であるが、かつて、家長から家族へ、主人から奉公人へ贈られる贈答品の総称であった。金銭でなくとも、食品から雑貨まで年玉といった。これは元々は、小餅を与えていたことは間違えがない。正月は主人が神座のもてなしをおこなうが、年玉も神との仲介者となったので、主人は歳神の御魂分け、すなわちおかげを分配する意味があるのである。

雑煮はその名が示しようにその地方でとれる季節の野菜・魚介類などの具、餅とごったにされる。すましの出汁のところもあるが、餅は主役である。これらのように、雑煮を食べるとういことは、年を重ねるということである。そのため歳神様に「御魂」を分け授かって食するのである。

正月の寺院では、修正会行うことが多いが、これなどでも鬼が躍り出て、餅割鬼という鬼が餅を割る。鏡餅を割り切って分け、それを雑煮の餅としたり、小正月の十五日にトンドの火で焼いて食べるところもある。これは鏡餅の霊力があるとして無病息災を願うものである。

 


 

「追儺より四方拝につゞくこそ面白けれ。晦日(つごもり)の夜、いたう闇きに、松(松明)どもともして、夜半過ぐるまで、人の門たたき走りありきて、何事にかあらん。ことごとしくのゝしりて、足を空に惑ふが、暁がたより、さすがに音なく成りぬるこそ、年の名残も心ぼそけれ。亡き人のくる夜とて、魂まつるわざは、この比(ごろ)都にはなきを、東(あずま)の方には、なほする事にてありしこそ、あはれなりしか」

吉田兼好『徒然草』第十九段

 

ここで追儺とは、節分のことではなく、大晦日に行われた宮中の追儺で、四方拝は宮中元旦の早朝、天皇が天地四方の神祇を拝する行事のこと。

 都で吉田兼好の見たのは、大晦日の夜、暗闇に松明を灯して、明け方まで家々の門をたたきまわり、口々でなにかを叫んだという。これは、男鹿のなまはげが人里を訪れ、家々を廻り、新年を祝福する ” 祝い " の行事と同じに思うのである。

ここで大切となってくるのが「亡き人のくる夜」で、ご先祖か新仏、精霊が帰ってくるという信仰が古くからあって、タママツリがあったことがわかる。盆祭と同様なことが行われていた。巫女の項で詳しく記す予定だが、先祖神を主とする我が国の原始古代より、死者の魂祭は、今では想像できないくらいに重要な意義をもつものであった。死者の魂祭を、都にはなくなり、東国ではまだ残っているというのは、出家後も朝廷と深い縁のあった兼好法師であったので、宮中の追儺や四方拝とは違う、民間の魂祭と深くかかわることもなかったのではと思う。

 

平安時代の例である。

 

   十二月つごもりの夜によみ侍りける。

 「亡き人の来る夜と聞けど 君もなくわが住む宿や魂なしの里」

和泉式部 『後拾遺和歌集』(応徳3年〔1086〕選進の勅撰和歌集)中の「哀傷」

 

この意味として、大晦日のみならず、正月そのものが祖霊祭である。これが山の神であっても、先祖の霊は山へ行くと信じられているのでどちらでも間違いでない。

その祖霊、山の神を招いて旧年の収穫を感謝し、新年の豊作を予祝していることを表している。霜月の新嘗祭も同様である。

また戦後の阪神間の農村の事例で紹介したいが、煤払いに始まる一連の行事は、潔斎と物忌を意味し、祖霊、山の神を迎えて豊作の予祝をするものである。日本人の霊魂感は、死霊や祖霊は子孫が祀ると浄化され、やがて清浄な神、和魂となる。穢れを払い、丁重な祭が行われて豊年となるためにも潔斎と物忌を必要としたのである。

※祖霊や死霊を扱うのは寺としてしまったのは、後世の国学神道が規定したためで、古代神道では祖霊が浄化されて氏神となる。この観点に立てば、民間の初詣は神社でも寺でもよく、今よく日本人は宗教がなく、寺で手を合わせ神社で拍手打つとか、多神教というが、いくら神仏分離したところで民衆には、太古からのDNAで神棚の横に仏壇があってもいいのである。その根拠は下記になる。

五來重は祖霊が浄化して神(氏神)となることを「霊魂昇華説(サプリメーション・オブ・ザ・ソールズ)」と名付けている。

 

 

 

小正月に来訪する祖霊は、もと死人の姿であったように、笠と蓑を着けてやってくる。

国指定無形文化財に指定された来訪神たちがそうである。

 

ホトホト、コトコト、パタパタなどと呼ぶが、それはホトホトと、コトコトと、パタパタと来るからで、擬音である。

「見島のカセドリ」は家中に上がって青竹を打ち鳴らす。頃合いを見て主人は酒や茶でもてなすこれは正月に当たって先祖が訪れ、祝福を与えるとともに悪災を払い、家内安全や五穀豊穣を祈る。青竹は生命力を表してるのではないかと思う。

「遊佐の小正月行事」(遊佐のアマハゲ)。囲炉裏で長く暖をとっていると「アマゲ」という火斑ができるのを怠惰の表れとして、正月にその怠惰を戒めるためにアマハゲがやってきて「アマゲ」を剥ぎとるといわれる。「能登のアマメハギ」も同様であるが、酒や料理を接待し、人々に福を授け、餅などを交換して地域に幸をもたらし豊穣を予祝する。

「男鹿のナマハゲ」などでも「泣く子はいねがー」など怠惰を戒め、料理や酒などもてなす。これも祝福を与える予祝である。日本国中で似たり寄ったりで、同じような行事を行うところも多い。

 

大晦日の祖霊はその姿が現れにくく、中国思想・陰陽道思想で歳徳神から歳神さんと呼ばれるようになったためで、また福をもたらすという七福神は、大晦日の夜寝るときに枕の下に敷いて寝て夢を見れば縁起がいいというところもある。七福神は、ただ唯一の日本の神である恵比寿をのぞき、中国の道教の福禄寿や寿老人、布袋や、紅一点の弁財天や毘沙門天、大黒天はヒンドゥー教などの他国の神が主体になっている、これは「寄り来る神」の信仰かとも思えるし、それであるなら祖霊が海の彼方、山の彼方から来るのもわかる。

「寄り来る神」は、老人の姿をしてやってくることが多く、兵庫県高砂市に伝わる、福と寿をあたえてくれるめでたい神としての「高砂の姥」と「尉」などに表象されたのではないかと思うのである。

 

ここで、来訪神として、再び一例をあげておきたい。

やはり国指定無形文化財に指定された薩摩甑島(こしきじま)のトシドンである。

大晦日の夜に、トシドンという神が山の上に降り立ち、首のない馬に乗って人里にやってくる。馬の蹄の足音をさせて各家を廻り、そこの家の子どもたちに、大声で脅し、日ごろの暮らしぶりを問いただし、よい子となるように諭し、褒める。そしてご褒美にトシモチ(歳餅)という大きな餅を与え、背中に載せて去っていく。歳餅をもしもらえないと1つ歳をとれないという。これは、お年玉の原始の姿である。年始に神が訪れ、人々に予祝し、訪れることによって歳を取る。典型的な歳神の姿を見ることができる。

 

 

『大歳の客』の話

 

大晦日のことを、「大歳」「歳の夜」「歳越」「歳取」とよぶところがある。

これらの呼び名の数ほど昔話が存在する。しかも話は少し変われども、類型の型をして残っている。

それが「大歳の客」「大歳の火」や「笠地蔵」「貧乏神」という昔話が、同類の話の骨子を持っている。

これは常世から来訪する祖霊や神がやってきて、人々を祝福する「客人」「稀人」(まれびと)という折口信夫らの概念と一致する。

 

「貧しい爺婆の家に、大晦日の夜に乞食が訪ねてきて、泊めてくれと頼む。爺婆は情け深くて、何もないがと言って、炉に火をいっぱい焚いて粥などを食べさせる。夜更けて寝るところもないので、土間の隅に蓆をかけて寝させる。ところが元旦の朝になっても起きてこない。そこで起こしに行くと乞食は死んでいる。可哀そうにと思って、葬ってやろうと蓆をあげると、乞食の体は黄金になっていた。」

 

実はこのような話は、少しシュチエーションを変えながらも、本質はまったく同様な話が、北から南まで多く伝わっている。

 

「昔々ある田舎に、貧乏な一人の馬方があった。明日は元日というのにひとつも成す術もなく、空の馬を牽いて空しく家に帰ってこようとしたら、街道の松並木の陰に、汚い姿の乞食が倒れて唸っていた。やれやれ俺よりのまだ気の毒な人があったのかと、これは助けてやらないとと思って、幸いと空っぽの馬鞍の上に乗せて帰ってきた。そして女房と相談をして、土間に蓆を敷いて横に寝かせ、何もないけど囲炉裏の火だけはうんと焚いて、どうにかどうやらこうやら年だけは取らせた。元日の朝は、もう太陽が高く上がってきたのに、その乞食はなかなか起き出してこない。そばによって、おいおいと起こしてみても返事がない。なんだか冷たくなっているようだと思って、びっくりして掛けてやった藁の莚をめくってみると、乞食だと思ったのは大きな黄金の塊りだった。それを使って馬方は大金持ちになったとさ。めでたしめでたし。」

柳田国男「日本の昔話」(新潮社)要約

これは柳田国男が採取した「大歳の焚き火」の要約である。

 

実はこの大晦日の来訪者は、乞食ばかりでなく、坊様であったり、座頭であったり、巡礼、遍路、あるいは六部、かったい坊であったりして、いわば放浪者であるのである。

また食べさせてくれる場合も、粟の粥であったり、芋の粥であったり、米粒三粒であったりする。米粒三粒は、一升炊の釜いっぱいになって爺婆と乞食と一緒になって腹いっぱい食べるという話になる。乞食の死も、炉の焚き火の転げ込んで死んだとか、井戸の水を汲もうとして落ちて死んだとか、尾ひれがついて変わっていることもある。

しかし、来訪者が死んでしまうことには違いがない。すかも、不思議なことにこの乞食の死者は金になる。また大判小判になる。炉に転げ込んで落ちて死んだ乞食の骨を炉に入れて、元日の朝見ると黄金であったと変化するものまである。

面白いものとして「隣の爺型」に変化した伝承も残っていて、翌晩無理矢理に乞食を連れてきて泊まらせたところ、翌朝は糞と小便を垂れ流して黄金にならなかったと「花咲爺」に似た話になるところもある。ただしこれは、昔話が教訓の話となってしまっていたり、笑い話になってしまっていたり変化していて、この「大歳の客」の本質ではなくなってしまう。

 

この「大歳の客」のモチーフとして重要なことは二つのファクターである。

「大晦日の夜には放浪者の来訪がある」

「その来訪者を遇すれば金になる」

この二つの方程式を紐解くと「大晦日は死者の霊が来訪して、これを祀る者に黄金や富を与える」ということである。

 

 

先の『徒然草』の「晦日(つごもり)の夜・・・亡き人のくる夜とて、魂まつるわざは・・・」というような大晦日の魂祭が、このような昔話として残ったのである。

昔話はよく子供へのお話とイメージする人が大半だ。そのような子供だけへの再録話としてだけではなく、それを通して、日本民族の過去や、庶民の心の根源を顧みるのが宗教民俗学で、その取扱いは軽率に扱ってはならないことである。原始の名残や昔話は、正月とは何かを永遠に語り継ぐものであるからである。

 

正月は、7月のお盆と対比されることが多い。

祖霊を迎えてこれを祀り、新しい年への幸運をいただこうと願う祭で、祖霊はすでに霜月祭に山へ帰って行って、山の神として鎮まっているが、大歳には再び降りてきて、年の変わり目や、その子孫に来訪して接待を受け、戒めたり祝福したりして、子孫を祀るのである。

典型的なものは、国指定重要無形民俗文化財になっているが、やはり近ごろは少子高齢化のあおりを受けて「なまはげ」のなり手がすくなくなってきているのがさみしい限りである。また近ごろは来てほしくない家まで存在するという。

荒魂としての祖霊の恐ろしさは時代とともに変化して減少していき、翁の面になったり、笠と蓑で顔を隠したカセドリや、バタバタ、トタタキとなって、米や餅をもらう来訪者ともなった。そして乞食としても語られるようになる。

カセドリらは、笠と蓑を着け、頬被りで顔を隠し、家々を廻って厄を落として祝福する。この時、様々なものを置いていく場合がある。カセドリらに食事をもてなし、餅だって、来訪神への供物の代わりである。

 

「熊野には死をば金に金になるといへり。」

鎌倉中期の説話集『沙石集』の中の一節であるが、これは熊野だけではなく、全国でもそうであった。

 

さて、乞食は黄金を、来訪者は黄金をもたらしてくれる。

この「黄金」は確かに至上の財物としての価値のある贈り物かも知れない。しかし、決して金貨の黄金という意味ばかりではなく、黄金の「光物」として光る「たましい」の象徴であったのではないだろうか。そして本当の「年魂(玉)」であったと考える。

 

 

『大歳の火』の話

 

『大歳の客』の話とまったく似た話であるけど「大歳の火」も不思議な話である。

 

 

「ある家の女性、女中、または嫁が消してはならぬ火を、不注意で消してしまう。この消してしまった火は、年榾というもので、旧年から新年まで焚き継がないとならないとされている聖火である。(今も恵方詣の社寺では大晦日から元旦まで、または三ヶ日を境内で焚いている)。歳榾は、旧家などでも行われていたことで、もし消えれば不吉であるので、消した嫁や女中はたいそう困ることになる。そこで、どこかからこっそりと火種をもらわねばならないと外へ出ると、向こうから提燈がやってくる。近づいてみると葬式の棺桶で、この火種がほしければこの棺桶をあずかってくれといわれる。嫁か女中は困ってしまうが、心の良い女性だったので棺桶を預かって、火種をもらうことになる。嫁か女中は棺桶を押入れか納戸に隠しておくが、元旦の朝に心配になって蓋を開けてみると、棺桶の中にはいっぱいの黄金が詰まっていた」

 

という話である。

この昔話も、大晦日の夜に「亡き人の来る夜」である。

そして魂の光となってやって来ている。

これを迎えて大事にまつれば、黄金が表すような福がやってくることを表している。

 

もう一つこの話には後日談がついて残っている場合が多く、おおよそ同じ内容である。

 

「大歳の火を消した下女が火種をもらう代わりに棺桶をあずかり、これを開けてみると金になっていた。その金は旦那も受け取らないので、下女は寺を建てるが、その建立の日に下女は観音さまに化身した」『日本昔話集成』(兵庫県美方郡温泉町)

 

また

 

「岡という下女が大歳の夜に、年中火を絶やさぬ燈籠の火を葬式に与え、棺桶をあずかり、自分の部屋に隠しておいた。その家の主人が、下女の部屋から光がさしてるというので、棺を開けてみると、大判小判がいっぱい入っている。その金で観音堂を建立したが、岡は堂開きのとき、坐ったまま観音様になっていた」(岡山県御津郡今村=現・岡山市)

 

「岡という女中が長者に奉公しているあいだに、大晦日の火を消してしまい、火種を葬式からもらったら、棺も家の中に入ってきた。長者は元日の朝に光物を見て、岡に尋ねる。岡の話を聞いた長者が棺を開けてみると金銀が入っている。岡はその金で観音堂を建立したが、これが岡寺である」(大分県大野郡上井田村)

 

「岡」という名前が出てくるものも多い。なぜかはわからない。

 

「おかあ」はいつも残飯をとっておいて乞食に与えたが、大晦日の火を消したので、乞食の提燈の火をもらう。すると乞食は「おかあ」の床に寝かしてくれというので、寝かすと死んでしまう。死体を叺に入れて物置に置くと、光物がして金になっていた。この金で寺を建てると、「おかあ」は仏となった。(福島県田村郡小野新町)

 

正月に「死」とかの言葉は縁起悪いともいうが、根底には大晦日の祖霊来訪があって、福をもたらすということが説話になったものであろう。

 

 

 

大晦日の祖霊来訪は古い時代から信じられていて、平安初期の『日本霊異記』に次のような話が載せられている。

 

「高麗の学問僧道登(どうとう)は元興寺の僧で、山城國の恵満(えま)の家の出身であった。大化二年(646)に宇治橋を造って大和と山城を往来している時、髑髏が奈良山の谷川にあって、人や獣に踏まれていた。道登は悲しんで、従者の万侶に木の上に置かせた。同じ年の十二月晦日の夕方になって、ある人が寺の門まで来て、

「道登大徳の従者の万侶というものに会いたい」

と言った。万侶が出て会うと その人は語って、

「大徳のお慈悲をいただいて、このごろ楽になりました。ところが今夜でなければご恩返しができないのです」

と言った。

そこでその人は万侶を連れて家へ行き、戸が閉まっているのに家の中に入ると、たくさん、物や食べ物が用意してあった。その中の自分の分け前の食べ物を万侶に与えてともに食べた。その夜半2時頃、男の声がして万侶に告げて、

「わたしを殺した兄が今来ようとしているから早く出よう。

と言った。万侶は不思議に思って尋ねると、

「昔、私は兄とともに商売に出かけ、私は銀四十斤ばかり儲けました。ところが兄はこれを妬んで、私を殺して銀を奪いました。それ以外ながい年月のあいだ、私の頭は人や獣に踏まれました。大徳のお慈悲をいただき、いま現に苦しみを免れています。それであなたのご恩が忘れられず、今夜恩返しをしたいのです」

と言った。その時、母と長男が死んだ人の霊を拝むために家の中へ入って、万侶を見つけて驚き、来たわけを聞いた。万侶は先ほどからのことを話した。母は長男をののしって、

「ああ、私の子はお前に殺されたのだ。他の賊に殺されたのではなかったのだ」

と言った。そして万侶を拝み、そのうえに飲食を用意した。万侶は帰ってこの様子を師匠に話した。

死者の霊や白骨でさえこうである。まして、生きている人がどうして恩を忘れてよかろうか

 

『日本霊異記』「人や獣にふまれた髑髏が拾われて不思議なしるしをあらえわし、恩返しをした話」第十二

※同型の話は『今昔物語』巻十九第三十一「髑髏、報高麗僧道登恩語」、『扶桑略記』孝徳天皇の条にみられる。

 

この頃には大晦日に母と兄が参拝しているのがわかるので、墓参りが行われていたのだろう。今でも全国や京都近郊では墓掃除をおこない墓参拝するところも少なくない。

年の終わりにその霊はやって来て、饗応する。すなわち「福」をもてくる。家に入るとあるのは、殯(もがり)または墓と思われる。

 

大晦日にはまだ祖霊来訪談がる。

「笠地蔵」だが、これもさまざまなパターンで存在する。

 

「婆のつくった糸を爺が年の市に売りに行く。そして傘売りの売れ残った六枚の笠と交換して帰る。大晦日の大雪で六地蔵に雪が高く積もっているのを見て、心のよい爺は、持っていたその笠を全部その六地蔵にかぶせて帰った。正月の米や餅を買って帰るのを心待ちにしていた婆はがっかりするが、夜中になると六人の笠をかぶった人が、大きな荷物を持って爺婆の家の前に運んで来る。爺婆は何事かと思い起き出して、雪の中に消えていく六人の後姿を見送る。

言わずともこの笠をかぶった六人は六地蔵で、持ってきた荷物は、金であったり、米と餅であったり正月のご馳走であったりする。

心根のいい爺に六地蔵が大晦日の夜に贈り物を運んできた、そして地蔵尊は子孫を慈しむ祖霊の表象であることは間違いが、ただそれだけではなく、五來重は、墓の入り口に立っているのが地蔵で、賽の神でもあるとしている。すなわち墓の穢れを村に入れないようにさえぎる役目を持っているという。また同時に、墓から村へと戻る荒魂を見守る意味もあるのではないかという。

 

とにかくとして、新たな年には「歳神」を招いてもてなし、祖霊や山の神に感謝し、福を願うのである。

 

 

 

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