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令和元年 改元

4月1日、5月1日に変わる元号が発表されました。

テレビや各種メディアで多く取り上げられ、多くの有識者・コメンテーターによって元号の解説が行われているので、いまさら取り上げることではないかと思います。

今回、中国古典でなく「万葉集」からとられたとのことで、さまざまな意見がありました。

また書店では「万葉集」が、日ごろ馴染みのなかった方々まで手に取って多く買われているとのことです。

お祝いのムード、また、「万葉集」など日本の古典文学や文化、風景に触れることはとても素晴らしいことだと思います。

そして、話題に便乗させていただけるなら、学生時代に少し学んだことを書き残しておくのもと思いました。

つたない解説ではありますが。

 

万葉集の巻五に所収される序文の一説です。

「時に初春の令月、気淑(よ)く風和(やはら)ぎ、梅は鏡前の粉を披き・・・」

太宰帥大伴旅人が書かれたといいます。

 

天平二年(730)正月十三日(新暦2月8日)、大伴旅人の官邸で梅花の宴が盛大に執り行われます。集まったのは、大宰府の中央官人、山上憶良、小野老、沙弥満誓、大伴百代、そして大隅・薩摩・壱岐・対馬におよぶ所官諸国の官人らを加えての大饗宴で、その際に梅花の歌三十二首(他員外・追加六首)詠まれた詩が読まれ所収されています。

(この序については旅人でなく、作者について諸説あります)

 

「令和」は、中国の詩文からの引用ではないか、と言われる学者の方もいらっしゃいます。

それはそうだと思うし、しかし、それは深く考える必要のないことと思います。

当時は、奈良平城京に遷都され、天平文化が開花した時代。

平城京では、貴族たちや仏教寺院の文化が華開き、遣唐船が大陸に派遣され、多くの大陸文化がもたらされ、取り入れながら、大和文化と融合して独自の文化を築き上げていった時代です。

そしてその往来の窓口だったのが大宰府の官庁なのです。中国詩文を模倣し、駆使した美しい序文であってもなんの不思議もないと思いますので、あれこれ詮索・異論・論議も不要と思います。

 

太宰帥大伴旅人の官邸がどこにあったのかは文献上も不明だけど、都府楼府のすぐ北西にある坂本八幡神社付近から蔵司の台地にかけての傾斜地を小字内裏とよばれていて、この付近ではないかと言われています。ここは坂本村の入り口にあたり、先には池と森を通って国分寺址に至ります。

 

平城京の中央朝廷では、藤原氏を中心に栄華を誇り、天平文化が花咲いていました。

大伴旅人の2度目の大宰府下向は、60歳を過ぎた老齢の域に達し、都から遠く離れた田舎で、妻を亡くした旅人。

貴族名門の大伴氏の生い立ちゆえ、高い教養を身に着け、中国の古典、詩文の豊かな教養を持ち、賛酒歌を詠み、また風流・浪漫の世界に"筑紫歌壇”で遊んでいました。歌壇において重きをなす存在でありました。

中央から遠く離れた大宰府楼府にあって、中央から下った貴族や官人らが、大伴旅人という総帥を得て、筑紫歌壇を形成されますい。この梅花の宴のような貴族的風趣を楽しむのも、彼らの郷愁の想いがこもったものかも知れません。

序のみならず、梅花の歌も紹介をしておきます。

 

わが園に 梅の花散る ひさかたの 天より雪の 流れ来るかも(巻五ー八二二)

大伴旅人

 

春されば まづ咲く宿の 梅の花 独り見つつや 春日暮さむ(巻五ー八一八)

山上憶良

 

この梅花の歌の中では、儀礼歌、観念化されたものの多い中で、この二人の作は際立ってみえます。

 

大宰府を訪れる人が増えてるようですが、大宰府天満宮、このたびの坂本八幡神社のみならず、遣唐使など大いにゆかりのある観世音であったり、水城跡など見るべきところは多いので、ぜひ訪れていただけたらいいなと思います。