「蘇民将来」は日本全国に伝わる説話で、それに基づく民間信仰である。
これを起源として、祭祀を行い、護符を貼る家も多い。
現在「蘇民将来」は、日本各地の国津神系の神(素戔嗚尊等)を祀る神社で授与され、災厄を払い、疫病を除いて、福を招く神として信仰されている。
住居の門口に「蘇民将来子孫」と書いた札を貼る家も多い。
卜部兼方『釈日本記』(鎌倉時代中期)に引用された『備後風土記』の疫隅国社(えのくまのくにやつしろ・現広島県福山市素戔嗚神社)に比定される縁起がみえる。
「備後の国の風土記にいう。疫隅の国つ神の社。北の海にいらっしゃった武塔(むとう)の神が、南の海の神の娘に求婚しにお出かけになったところ、(途中で)日が暮れてしまった。その場所に将来という二人の兄弟がいた。兄の蘇民将来は、たいそう貧しく、弟の巨旦将来は裕福で、家と倉は百もあった。ここに、武塔の神が、宿泊する場所を借りようとされたが、(弟は)もの惜しみをして貸さなかった。(一方)兄の蘇民将来は、お貸し申し上げた。兄は粟柄を使って御座所とし、粟飯などのお食事を差し上げた。宿泊を無事に終えて出発した数年後に八柱の御子神をひきつれて戻ってきて(兄の蘇民将来に)おっしゃるには、「私は、(兄の)将来の恩を返したい。お前の子孫はこの家にいるか」とお尋ねになった。(兄の)蘇民将来が、答えて申し上げるには、「私には娘と妻とがございます」と申し上げる。(武塔の神が)おっしゃるには「茅草で作った輪を腰の上に付けさせよ」とおっしゃった。神のお言葉通りに(茅で作った輪を腰に)付けさせたところ、その晩に、蘇民将来の娘一人を除いて、人々を尽く殺し滅ぼした。武塔の神がおっしゃるには、「私は、速須佐雄(はやすさのお)の神である。後の世に疫病が発生したならば、お前は、『蘇民将来の子孫である』と宣言して、茅の輪を腰に着けている人は、災いをまぬかれるであろう」とおっしゃった。
『逸文 備後国風土記』(『釈日本記』巻七「素戔嗚尊乞宿於衆神」) 中村啓信監修訳注「風土記」角川ソフィア文庫
・速須佐雄の神は「古事記」に表記された当て字で「日本書紀」の素戔嗚とは同体。また牛頭天王は素戔嗚の本地で、密教では薬師如来の垂迹といわれる。
さらの『釈日本記』には「祇園を行疫神とする武塔神の御名は世に知られたところである」という記述もある。
武塔神と牛頭大王が同一であることは確かである。『伊呂波字類抄」(12世紀)に、牛頭天王の別名として武塔神の名が現れているという。(山口健司『オニ考:コトバでたどる民間信仰』頸草書房)
密教(仏教)は、牛頭天王は祇園天神、武塔天神というとある。
牛頭天王は、祇園精舎の守護神とされる。頂上に牛頭のある太子が、龍宮の婆利采女を妻に迎える旅の途中、将来の兄弟に宿を依頼したが、富裕な弟の巨旦将来に拒まれ、貧困の兄蘇民将来に助けられた。帰途、弟を滅ぼし、以後鬼の子孫を疫病から守ると宣言した「蘇民将来」の伝説と、素戔嗚尊を付会し、また牛頭栴檀が熱病に効く効果などが混淆して疫病神と信仰された。
平安京の八坂郷へは元慶年間(887~)に勧請されたらしく、この社を中心に全国的に信仰され、天王社・八王子の名の社が多い。形像には甲冑を着けた憤怒相で、牛頭を頂くもの、左右の脇面のものなど種々ある。また牛頭天王曼荼羅もある。
神仏習合までは、婆利采女(はりさいにょ・本御所少将井、祇園社西間)〖現在八坂神社では八柱御子神(八島篠見神・五十猛神・大屋比売神・抓津比売神・大年神・宇迦之御魂神・大屋毘古神・須勢理毘売姫)〗とも。