京都・鳥辺野 六道まいり (京都の盆 ①)
【精霊迎え】
京都のお盆は8月7日~10日の「六道まいり」によって始まり、16日の送り火で終わる。
観光客であふれることもなく、もっとも京都市民に密着した京都らしい行事である。一番落ち着いた時間、場所と言って過言ないと思う。ここは生活の場で、祈りの場である。
六道参りは「お盆のほとけ迎え(精霊迎え)」のことで、京都では(全国でもほぼ同様であるが)、先祖や近親者の霊をわが家に迎え、対話できる日であり、京都・鳥辺野などでは、近隣の祇園や清水坂の観光客の雑踏と比べて、京都市民の本来の生活と信仰が今なお息ずく場所である。京都市民はこのご先祖、精霊を、親しみこめて「ごしょらいさん」と呼ぶ。
※この期日、同日程で清水坂陶器まつりが開かれ、瀬戸物の買い入れをする料理屋や旅館の主人・女将であったり、観光客、外国人で賑わっていて生活環境が全く違う、本来の京都らしい風情に出会うことができる、心落ち着く場所なのでである。
私どもの寺でもそうだが、お盆は13日から14日からという地方も多い。
なぜ京都は7~10日なのだろうか。
そのあたりも別途考えていきたい。
古く平安京の時代には、風葬の葬送が行われていたことはよく知られたことだが、京の都における郊外の葬送地として、東山山麓の鳥辺野、北西の船岡山やその麓の蓮台野、愛宕山麓の化野(あだしの)があげられる。
これらの入り口には六道の辻があり、閻魔堂が設けられたりする)
・鳥辺野入口=六道珍皇寺(閻魔堂・篁堂)
六波羅蜜寺
西福寺
・蓮台野入口=千本閻魔堂(引接寺)
千本釈迦堂(大報恩寺)
・化野=念仏寺
六道珍皇寺付近では、祇園社(八坂神社)があり、祇園御霊会が天禄元年(970)に。
千本閻魔堂付近では、北野天満宮があり、北野船岡山御霊会 正暦5年(994)、紫野今宮御霊会 長保3年(1001)に。
※初見の貞観5年(863)御霊会は神泉苑。
と催されており、葬地に近い場所で、怨霊を鎮めて御霊とする御霊会が行われているのは興味深い。
鳥辺野の葬地における六道の辻は、西福寺角の三ツ辻であったかと思われる。また後述するが寺院の間の複雑な論争もあった。
(六道珍皇寺が六道の辻という。しかし、車大路を松原橋(旧五条大橋)と鴨川から上がってまっすぐにある辻の西福寺あたりがしっくりくるように思う。この路地を右に行けば六波羅蜜寺で、先に進めば六道珍皇寺がある。
いずれにしろ、現在の五条通は戦中疎開で架けられたもので、かつては松原通から松原橋(四条大橋と五条大橋の中間あたり)清水寺へと道が続いている。有名な牛若丸と弁慶の話もこの松原橋が本来の五条大橋であるこの場所での物語なのである。そこからの先が六道の辻であり、閻魔堂や地蔵堂があったのである。遺骸の受け取り地であったと思う。
この鴨川を超える松原通りは「車大路」ともいわれるそうで、これなどは鳥辺野に送られる棺を乗せた車が通ったからであろう。
かつての様子を伝えるものの一つに、有名な謡曲「熊野(湯谷・ゆや)」がある。
「河原おもて(賀茂川)を過ぎゆけば、急ぐ心の程もなく、車大路や六波羅の、地蔵堂よと伏し拝む。観音(清水寺)も同座あり。闡提救世(せんだいぐぜ)の、方便あらたに、たらちねを守り給へや。げにや守の末すぐに、たのむ命は白玉の、愛宕(おたぎ)の寺も打ちすぎぬ。六道の辻とかや。実(げ)に恐ろしや此道は、冥途に通ふなるものを、心細鳥辺山、(後略)」
ここにある六波羅の地蔵堂は西福寺の角にあったようだ。
そして六道珍皇寺(愛宕の寺)を過ぎ、清水寺へ向かっている。
車大路を地蔵堂へ、細かい論争はともかく、地蔵堂の場所が六道の辻である。
人が亡くなれば、棺を乗せた車、さまざまな葬送の形はあったであろうが、貴賤問わず、車大路を通り、松原橋(五条大橋)を通り、ここ六道の辻に至ったのである。
現在は三差路、または一本道になっているが このあたり、かつては六差路に分かれていたのかも知れない。
六道というのは、仏教の概念、また古くインドにあった考え方で、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天の六つの世界のことで、人が死ねば生前の罪科の軽重によって、罪に相当する世界に生まれ変わる。(仏教の本来の教えは悟りを開くことによって六道の輪廻より解脱して仏の世界へ行くことを説くわけではあるが、別の機会に)
罪の軽重で、罪に相当する道へ行かねばならない。その罪を判決を下すのが閻魔大王で、陪審員となって期日ごとに審査をする陪審員が十王である。
しかしその前に三途の川に葬頭河婆(奪衣婆)に衣服を差し出せば罪が軽くなるといわれる。また生前の信心や作善(造寺・造塔・写経など)を申し立てれば六道地蔵がもらい受けてくれるともいう。
鳥辺野の六道の辻、地蔵堂で、遺体を処理し墓地を管理する「三昧聖」が亡骸を受けとって鳥辺野へ送るのである。「地獄の沙汰も金次第」とはいうけれど、現世ではここから先が「金次第」で、金を出せば「火葬」「土葬」そして貧しい者は「風葬」であった。
蓮台野や愛宕の化野などでも同様であったと思う。
さて、先に書いた鳥辺野の六道の辻は現在の「六道珍皇寺」だという説である。
先に書いた謡曲『熊野』も「愛宕の寺」、すなわち珍皇寺を六道の辻としている。
これは六波羅蜜寺と愛宕寺の権力争いのために二つの場所が生じてしまったように思われれる。(数百メートルの違いではあるが)
平安時代中期には、六波羅蜜寺は天台宗の別院で、愛宕寺(珍皇寺)は真言宗の別院となっていた。
『弘法大師二十五箇条御遺告』の第四条を見てみると興味深い。
※『弘法大師二十五箇条御遺告』は空海の御遺告としてその真偽の論争がある。仮に違うとしても、同時期の真言僧によって書かれたのは間違いない。
「珍皇寺 宇ハ愛宕寺 を以て、後生の弟子門徒の中に修治す可き縁起、
右の寺建立の大師は、吾が祖師、故の慶俊僧都なり。諸の門徒相共に付属すること有るに依って、修治を加へ来る者なり。然れば則ち修治を能くする人を以て、住持せしむべし。不能の者を用ゆること莫れ。」
すなわち、珍皇寺(愛宕寺)は大安寺の慶俊僧都が建立したという。
詳細ははっきりしないのだが、当時、慶俊僧正が弘法大師空海の師であった説があり、大師の弟子たちが修理するとともに住持するものとしている。
ここでわかることは、その経営権は真言宗にあると正当化していることである。
ここで珍皇寺のことを今までも愛宕(おたぎ)寺とも書いてきたことについて記す。
”あたご”ではなく”おたぎ”であることに注意されたい。愛宕寺と呼ばれたのは、このあたりが愛宕(おたぎ)郡であったためで、京都西部の愛宕(あたご)山と文字は同じでも、場所も読み方も別のものである。
この愛宕寺は、平安時代中期には”珍皇寺”と”念仏寺”に分かれていたようである。
なぜ二つに分かれていた、その原因や事情は記録にはないので、別の史料や伝承を参考にして推測するにすぎないが、次のようには考えられる。
①珍皇寺は、小野篁(802~853)が開基との説もあり、珍皇寺に住んで地獄に往来したといわれていること。死者滅罪の密教と陰陽道の修法をする真言系の寺だとする。
②10世紀、著名な念仏者・千観内供(918~948)がこの寺に入って念仏を勧めるようになったものと思われる。当時、愛宕寺は鴨川の洪水で廃れていたといい、再興したのち、奥嵯峨野鳥居本の愛宕念仏寺と統合されたのではないか。というのも、愛宕念仏寺の中興も千観内供である。
そうして密教・陰陽道の珍皇寺と浄土系の念仏寺と分離していったのではないかと思われる。
千観は奥嵯峨野、愛宕念仏寺の中興。天台宗に属していたが、浄土教に傾倒し、阿弥陀和讃などをつくっている。
確証を示す史料はないが、愛宕念仏寺中興としての千観の移動とともに愛宕寺も移動したと考えられるのである。
京都の六道参りはお盆の精霊迎えなので、和魂(にぎみたま)、あと地獄や餓鬼、その他六道から帰ってくる精霊、ご先祖を迎えに行くことである。そこで六道の辻まで出迎えに行くのである。
高野山では、弘法大師御廟がある奥之院燈籠堂の消えずの火から分燈を受け、帰り道に所々にある自坊の所縁墓に拝みながら灯を灯し、燈明を自坊へ持ち帰り施餓鬼棚などの点燈する。
自坊では、本堂ではなく別途施餓鬼棚が設けられており、盆の期間中、仏飯以下供え供養する。
ところで、鳥辺野のには珍皇寺(愛宕寺)ともう一つ、六波羅蜜寺がある。
六波羅蜜寺の開祖は、空也上人である。先の千観内供は、空也の影響を受けて念仏者へとなっていったようである。
ともに天台宗の僧で、六波羅蜜寺は当時、珍皇寺の真言別院であるのに対し、天台別院であった。
結局、どちらにしろ、現在の西福寺の旧地蔵堂や閻魔堂が六道の辻にあたり、珍皇寺はそれは愛宕寺は境内地であるとし、六波羅蜜寺も寺域内であるとの論争が行われたのかもしれない。
現在、六道珍皇寺は臨済宗建仁寺派で、六波羅蜜寺は新義真言宗智山派、愛宕寺は珍皇寺から分かれて奥嵯峨野の愛宕山麓、化野念仏寺の北側に移転している。
しかし、市民たちは、そのような宗派の移り変わりに関係なく、六道まいりに精霊を迎えに来るのである。
六道の辻というのは前記のことだが、この六道という地名について、もちろん仏教の六道輪廻の地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天からきていることはいうまでもない。
あと一つ留意しておきたいのが、五來重先生の解釈である。
愛宕寺(おたぎでら)、愛宕郡(おたぎぐん)をオタギと読んだように、六道の「ロクド」はドとドの混用のため、ドクロ(髑髏)から転じたものといわれる。
土地の古老の伝えでは、六波羅の地名もドクロ原であったといい、京都所司代がロクロ原から轆轤町に改めたといっているらしい。
先のように鳥辺野は葬送地であることは確かだし、庶民の貧困者は風葬であったことから髑髏もあちらこちらにあっただろうことから(飢饉の際には市中に死骸が道路に放置されてた)ドクロ原になったと考えられ、仏教の六道や六波羅蜜の考え方と結ばれたものではないかという。
愛宕の「オタギ」も「アタゴ」と同じ文字なのは、共通の語源からきているのは間違いないことである。
アタゴはアタシ野(化野、他野)と関係があって、「はかない」または無常を意味する「アタ(徒)」から出ている。すなわち風葬、土葬、火葬にかかわらず、葬地をアタシ野、アタ野といんだのではないかという。
※あだ(徒)=形動詞〔別に「あだし」が存在して古く連体修飾にのみ用いたが、その「あだ」と同じ語幹か。空虚・虚構・不信実などの意をもととする。「仇」「讐」「敵」は古くは「あた」で「あだ」とは別語。(角川古語辞典)〕
京都の西の愛宕山麓も風葬が行われる葬地である。
「今は昔清徳聖と云う聖ありけるが母の死にたりければ棺に打入れてただ一人愛宕の山に持て行きて大きな石を四の隅に置きてそう上にこの棺を打置きて千手陀羅尼を片時やすむ時もなく打寝る事もせず物も食はず湯水も飲まで声絶もせず誦し奉りてこの棺を廻る事三年になりぬ、その年の春夢ともなく現ともなく仄かに母の声にて、この陀羅尼をかく昼夜誦し給へば、我ははやく男子となりて天に生れにしかども同じくは仏になりて告げ申さん、とて今までは告げ申さざりつるぞ、今は仏になりて告げ申すなり、と云うと聞ゆる時、さ思ひつることなり、今は早うなり給ひぬらん、とて取り出でてそこも焼きて骨取り集めて埋みて上に石卒塔婆など立てて例のやうにして京へ出ずる道に水葱いと多く生ひたる所あり(後略)」
『宇治拾遺物語』(巻二)「清徳聖奇特ノ事」
空也の伝説があるのも葬地であるからだと思う。
アタゴのアはア行でオと相通じてオタギとなることが可能となるので、オタギも葬地のアダから出たと思われる。
すなわち京都の東の東山山麓と、西の愛宕山麓に「あた(あだ)」から出た共通の地名があることは、葬所という条件で共通していたためと推定できるのである。
【六道珍皇寺の一考察】
六道珍皇寺の縁起を見てみると、奈良・大安寺の僧で、弘法大師空海の師である慶俊僧都が平安時代前期の延暦年間に開基されたといわれる。
しかし建立には、さまざまな説があってはっきりしない。
①空海説(「叡山記録」ほか)
②小野篁説(伊呂波字類抄・今昔物語集)
③先に宝皇寺の後身とする説。
珍皇寺とは、東山阿弥陀ヶ峰(鳥辺山)山麓一帯に住んでいた豪族鳥部氏が建立した鳥部寺が前身だというもので、これはその遺址も鳥部氏のこともよくわからない。
東寺の古文書を集めた国宝『東寺百合文書』などには、承和三年(836)に鳥辺野の豪族であった山代淡海等が国家鎮護の道場として建立したとか様々ある。
それだけよくわかっておらず、荒廃を繰り返した記録はあるため特定はしにくい。
この珍皇寺は、先に書いたように真言別院であり、平安から鎌倉時代を通して東寺(東寺派真言宗)の末寺で多くの寺領を有し、大きな伽藍を有していたというのはありうるが、中世の兵乱で荒廃を繰り返していたのを、建仁寺住持、聞渓良聰師によって再興、改宗され臨済宗になったという。
それにしても、珍皇寺(ちんこうじ)という名前は珍しいが、小野篁に所縁があったためであろう。
五来重先生によれば、小野篁にゆかりが深く、元は珍篁寺(ちんこうじ)であったのではないかと言われている。
はじめから珍皇寺なら、呉音で”チンノウジ”とよんでもいいのに、”チンクワウジ”というのは「珍篁寺」だったからであろう。珍には奇略という意味があり、小野篁が奇略の行為をなし、奇行があって「野狂」とも呼ばれていたことを指すとしている。(私は普通とは変わっている意と解している)
小野篁については有名な話があって、冥界を往来したことがある。
「今は昔、小野の篁といふ人あり。学生にてありける時に、事ありて公過を行はれけるに、その時に西三條の大臣良相と申しける人、宰相として事にふれて篁がためによき事をのたまひけるを、篁、心の中にうれしと思ひて、年ごろを経る間に、篁、宰相になりぬ。良相の大臣も大臣なりぬ。
しかる間、大臣身に重き病ひを受けて、日ごろを経て死にたまひけり。即ち閻魔王の使のために搦められて、閻魔王宮に至りて罪を定めらるるに、閻魔王宮の臣どもの居並みたる中に、小野篁ゐたり。大臣これを見て、これはいかなることにかあらむ、と怪しく覚えてゐたるほどに、篁、杓を取りて王に申さく、「この日本の大臣は心直しくして人のためによき者なり。今度の罪おのれに免したまはらむ」と。王、これを聞きてのたまはく、「これ極めて難きなりといへども、申し請ふによって免したまふ」と。されば、篁、この搦めたる者に仰せたまひて、「速かにゐて返るべし」と行へば、ゐて返ると思ふほどによみがえへり。その後、病ひやうやく止みて月ごろを経るに、かの冥途の事極めて怪しく思ふといへども、人に語ることなし。また篁にも問ふことなし。
しかる時、大臣、内にまゐりて陣の座に居たまふに、宰相篁かねて居たり。又人なし。大臣、ただ今よきひまなり。かの冥途の事問ひてむと、日ごろいみじく怪しくおぼえつる事なり、と思ひて、大臣居寄りて、忍びて篁の宰相にいはく、「月ごろも便なくて申さず。かの冥途の事極めて忘れ難し。そもそもそれはいかなる事ぞ」と。篁これを聞きて、少しほほ笑みていはく、「先年の御□□のうれしく候ひしかば、その喜びに申したりし事。但し、
この事いよいよ恐れて、人に仰せらるべからず。これ未だ人の知らぬ事なり」と。大臣これを聞きていよいよ恐れて、篁は只人にも非ざりけり。閻魔王宮の臣なりけり、といふことを始めて知りて、人のためには直しかるべきなりとぞ、もろもろの人にねむごろに教へたまひける。
しかる間、この事おのづから世に聞えて、篁は閻魔王宮の臣として通ふ人なりけりと、人みな知りて恐ぢ怖れけりとなむ、語り傳へたるとや。
『今昔物語』巻第二十の第四十五
他にも『江談抄(こうだんしょう)』巻三、『三国伝記』巻四などにも同様の冥途に通う能力を持した人であるとしている。
珍皇寺には篁がここから冥途に通ったとされる井戸の穴がある。
※小野篁(802~852)の実像
平安時代初期の学者、漢詩人・歌人。
小野岑守の子で幼少時は弓馬を好んだといい、のち学者となって漢詩文で名をあげて「令義解」の選に参加した。
遣唐副使に任じられたが、大使の藤原常嗣と争いになり、病と称して行かなかったために隠岐に流罪となった。のち赦免され参議・従三位になる。
野相公、野宰相といわれる。常に自分を引き締め、自分の信じるところを遠慮なく言い、世間に受け入れられず「野狂」と言われ、反骨の人だったようである。
「野狂」であるがゆえに、このような話ができたのかと思う。
■冥府・閻魔王宮との往還には井戸が使われ、それは珍皇寺(入口)と京都嵯峨の福正寺(生の六道、出口、明治に廃寺となった。現在、嵯峨薬師寺に併合され史跡が残る。
結局、彼の奇行、変人、そして野狂と称されるがゆえに成立した説話であると思う。
考えうる話として、学者であった小野篁は、陰陽道や密教にも通じていてもおかしくない。
真言宗の修法に「冥道法」があり、追善供養のために修される。地獄の閻魔王に罪の贖罪、宥恕を願ったのかもしれない。
また、陰陽道では「泰山府君祭」などの秘法を修したのかもしれない。「泰山府君」は、陰陽道の主神、冥府の神、人間の生死を司る神として知られ、今昔物語に安倍晴明が泰山府君の祭祀を修した話が載っている。
博学であった小野篁であれば、これらの修法をしたとしてもおかしくないのではないかと思う。
この頃には民間でも、いったん死んで生まれ変わるという「擬死再生の逆修」がおこなわれていたので、そういう意味であったのかもしれない。
高野山などでは、御廟の橋の袂の玉川に逆修の塔婆が流され、また寺社や山に胎内潜りの場所があったり、四国遍路の白衣も逆修である。
もしかしたら、この井戸の中でこれらの修法をしたのかもしれないと思うと真実味が湧いてくる。
また民衆は、この井戸から精霊さんが戻ってこられるのだと信じられてきた。
これらのことを考えれば、小野篁が地獄へ行って閻魔王に会い、逆修する者のために寿命をもらってくるのだという言い伝えができたのだとすると腑に落ちるのではないかと思う。
【六道まいり、ご精霊さんの迎え方の基本】
8月7日~10日 六道珍皇寺、六波羅蜜寺、西福寺
◆六道珍皇寺の場合◆
(1)境内や参道において高野槇を求める。
(2)本堂前で、故人の戒名、俗名を水塔婆に書いてもらう。
(3)迎え鐘を撞く。
(4)本堂の本尊の薬師如来さんにお参りし、ご先祖の精霊が無事に我が家にお帰りになられるようにお祈りする。
(5)水塔婆を線香で清める。
(6)地蔵堂前の「賽の河原」と称する場所で、水塔婆を水桶に納め、あらかじめ用意した高野槇の穂先で水塔婆を湿らす「水回向」を行う。
(7)これにて「六道まいり」は終了するが、参詣者は参道で買い求めた高野槇を、ご先祖・精霊が宿る「依り代」として大切に持ち帰り、お盆の期間中、精霊棚(または仏壇)に燈明、香を焚き、盆花とともに飾る。
(8)仏送り(また送り火)に持参して精霊を送る。
(以前は鴨川に流していたが、衛生上現在は流せない)
【お盆の簡単な説明】
お盆の行事は仏教の行事であることには違いはない。
お盆の棚経など旦那寺の僧侶が檀家をめぐる。
しかしこれには、日本の古来からも祖霊信仰が根付いている。
後述するように、様々な要素が組み込まれ、さらに日本独自のものとなっていく。
盂蘭盆の名前は、古代インドのサンスクリット語のウランンバナ(Ulla-mbana)という。
※未稿
盂蘭盆は正式には鳥藍婆拏と書き、サンスクリット語の Ulla-mbana の音訳で原語は倒懸を意味する。
この倒懸はインドでまつるべき子孫をもたぬ餓鬼が、まっさかに地獄に落ち、鬼に逆さづりにされて責められるという所伝に因むとしている。
玄応『一切経音義』〔唐の貞観年間(627~649)〕
また干潟竜祥は玄応のいう鳥藍婆拏のサンスクリットの原語は救済を意味する Ulla-mbana にあたるとしている。
これに対して、(岩本裕『地獄めぐりの文学』開明書院、1979)は、中国では盂蘭盆という語は6世紀初期には供物をのせる盆をさしており、すでに当時『盂蘭盆経』も流布しており、玄応はこの盂蘭盆を器物の盆とする説を否定して『盂蘭盆経』、ひいては中国で行われていた盂蘭盆会をインド伝来のものとするために、この語義を与えたとしている。
そして盂蘭盆会の原語は本来イラン語で霊魂を意味するウルヴァン urvan であったとしている。このウルヴァンは、特に死者の霊魂、さらに守護神、その複数形は栽培植物をさしている。さらにウルヴァンは、祭りの日に各家に訪れて栽培植物の豊穣をもたらすと信じられたという。やがてこの信仰は、現在のウズベスク共和国の首都サマルカンド近郊に居住した小麦を主食とする通商民のソグド人によって1世紀から5世紀頃にかけて中国に伝えられた。
当時、中国では一月十五日の上元に自然の主宰神である天官、七月十五日の中元に畑作の小麦を守る地官、下元の十月十五日に米作を守る水官がまつられていた。また七月十五日は四月十六日から夏安居に入った仏教僧が修行を終えて、罪を懺悔する自恣の日であった。そして在俗信者は彼らに布施をし、死霊の供養を依頼した。この日があわせて地官をまつって、小麦などの畑作物の豊穣を祈る日でもあった。これらのこともあって、七月十五日の中元の比に畑作の収穫物をのせて地官に供える盆をイラン語にちなんでウルヴァンとよび、これを盂蘭盆と音訳した。さらにこれが展開して、この中元の死霊の祭り、畑作の収穫祭を盂蘭盆とよんだ。
先述のように、この日は仏教徒にとっては、夏安居の僧の自恣に日であった。そこで、この行事を仏教的に解釈するため『盂蘭盆経』がつくられ、盂蘭盆会の淵源がインドにあるような説明が試みられた。それが玄応の先述の語義解釈で、干潟説もそれにのっとるものである。(岩本裕『目連伝説と盂蘭盆』法蔵館、1968)
『盂蘭盆経』は、隋・唐代には西晋の武帝のころ(265~290)に竺法護が訳した経とされてきたが、これはあやまりで、中国で編纂、作経されたと考えられるものである。
その内容は、目連尊者が餓鬼道に落ちている母を救うことを記した前段と、父母並びに七世の父母を救済する後段からなっている。当初は前段のみであったが、6世紀頃に後段が加わって現在の形になったといわれる。
【前段】
釈迦が舎衛国の祇園精舎で説いたものとしている。それによれば神通第一と言われた仏弟子の目連が、父母の恩に報いようと思い三世の世界を見通した。すると母が餓鬼となっていた。鉢に飯を盛って食べさせようとするが、食べ物が炎となって食べられない。そこで目連は釈迦に教えを乞う。釈迦は「汝の母は生前の罪業が深いから、汝の孝順の念や天神地神、邪魔、外道道士、四天王神などでは救えない。ただ十方の衆僧の神威の力をもってすれば救うことができる。そのためには七月十五日に山で禅定の行を終えて自恣をしている衆僧に百味の飯食、五果を盆に入れ供え、さらに香油、燭火、臥具を施して供養すればよい。そうすれば彼らの広い徳によって現世の父母や親族、七世の父母、親族にまで及んで三途の苦しみから抜け出すことができる。そして現世の父母は百歳まで生き、七世の父母は天に生まれて天の妙華光明の中に入ることができると説いた。
さらに釈迦は僧に対して、こうした飯食を受けるときには、施主の家の七世の父母の福を願い、心静かに禅定したうえで飲食を受け取れるように、そして供物はまず仏に供え、衆僧の呪願を終えてから食するように諭された。これを聞いた目連や大会の菩薩は大歓喜した。このようにして目連の母は餓鬼の苦しみを逃れられたのである。
【後段】
目連が釈迦に、私の母は衆僧の供養の神威の力と三宝の功徳によって餓鬼の苦しみから救われた。これと同じように仏弟子が盂蘭盆の供養をすると現世の父母、七世の先祖を救うことができるのだろうかと尋ねる。すると釈迦は、比丘・比丘尼、王族、臣下や庶民、誰でも孝滋を修したい人は、現世の父母や七世の父母のために、毎年七月十五日の僧の自恣の日にあたる盂蘭盆の時に新鮮な百味の飯飯を供えて修行僧に布施するように、そうすると在命中の父母は苦悩もなく幸福に百歳まで生きれるし、七世の父母は餓鬼の苦しみを逃れて人間界と天界に生まれて、限りない福楽を得ることができる。それゆえ七月十五日には孝慈の心をもって、父母と七世の先祖に盂蘭盆供養をし、仏と僧に布施をして、父母や先祖の慈愛に報いるようにと説かれ、目連をはじめ仏弟子はともに喜んでその教えを実践した。
松原泰道「盂蘭盆経を読む」佼成出版社
以上のように『盂蘭盆経』では前段では目連尊者の救母譚をあげ、後段ではこれを敷衍して万人に父母や七世の先祖の供養のために盂蘭盆会を行うことをすすめているのである。
前段に五果を盆に供えることが説かれているが、唐の宗密(780~841)の『盂蘭盆経疏』によれば、五果は核果(ナツメ、杏、桃李)、膚果(瓜、梨)、殻果(胡桃、石榴)、糩果(蘇、荏)、角果(麦、豆)というように畑作にかかわるものである。ここからも中国で盆が畑作の豊穣儀礼であったことがわかるのである。
日本でも供物に、ホオズキ、茄子、胡瓜、枝豆、芋、梨、西瓜、桃、小麦で作ったウドン、ソウメン、ダンゴなどの畑作物が供えられ、盆が祖霊祭祀であると同時に畑作の豊穣を祈る行事であることがわかる。