8月16日の夜、「五山の送り火」が京都の山に焚かれる。

「大文字の火」など特に有名だが、これは観光資源や物見遊山のために始められたものではなく、先にお迎えしたご精霊さん、ご先祖さんの魂をお送りするもの。

 

「花洛名勝図絵」元治元年(1864)七月十六日大文字送火
「花洛名勝図絵」元治元年(1864)七月十六日大文字送火

古く江戸時代の大文字送火の様子を「花洛名勝図絵』『都林泉名所図会』『諸国年中行事』の挿絵を見ていると、送り火の16日夕方、多くの人々が鴨川の河原に出て水辺に石を積み、樒の枝を立て、線香をともし、苧殻の松明に火をつけて送り火を焚いた様子が描かれている。

 

精霊を送る。

このことは、地方での記録を見ていても大きく二つに分かれている。

水辺(または海など)に送るもの、山へ送るものである。

京都では、この二つが複合して行われていた。

遠い先祖の霊魂観念は、山の上に霊は昇り天上に至る考え、また水を伝って遠い海の彼方にある霊会へと去来するもの。

これらは山里に暮らす民衆、海辺に暮らす民衆でこのように二つに分かれたのではないかと考えられる。

 

 

燈籠流し 水辺の送り
燈籠流し 水辺の送り

水辺に流すものは、燈籠流しや精霊船のようなもの。

また火祭りのように山間に行うもの。

このような精霊送りが今でも各地で見られる。

これらの二つが合わさったのが大文字の送り火である。

 

ただし京都五山(かつては京都市中で行っていた)の送り火はいつ成立したのかはわからない。

しかし野辺や山、川辺に送っていた小さな灯りなど、精霊、ご先祖が迷わぬように流していたであろうが、そうしたものがだんだん大きく、派手になっていったのであろう。祇園祭の山鉾も現在のような派手なものになった(ゴブラン織りや装飾金具のような)のも南北朝か室町ということであるし(鎌倉末期のものはもっと単純な山車のようなものであったと考えている)、大文字の送り火もだんだんと派手なものになっていったのではないだろうか。

 

お盆には寺院にしろ、民家にしろ、火を施餓鬼棚や仏壇に灯し続ける。

先に書いた高野山では、奥之院の燈明を提灯に移してもらって持ち帰る。

 

迎えることと送ること。これらはご先祖様が迷わぬようにだという。精霊の去来を火で導くことで本来は精霊迎えと精霊送りの2度行い、盆の間、不断の火を灯す。

お盆の精霊の行事より送り火の方が派手になる。今は大文字も観光資源のようになって多くの人で混みあうが、江戸時代にも大文字焼を見る指南書があったようなので今と変わらぬのかもわからぬ。

ただ京都の庶民が行った精霊送りは、山に送るもの、川に流すものとあったと思われるが、盆の精霊、ご先祖は、お盆の供養を受けたなら、残らずに帰っていただかないと困ったことになるからで、火で浄霊したり、盆踊りや念仏も精霊、御霊の御魂を鎮めるために行われた。

このように現在の大文字、五山の送り火は、物見遊山の火とも多いが、本来は鎮め送る呪術として行われ、鴨川では石を積み、樒を立て、線香を灯し、苧殻の松明に火をつけ送ったのである。

 

平安時代、京都・船岡山の御霊会のように、大阪の難波の海に祟る御霊を二基の御輿に移し、難波の海に流した。

過去、精霊は荒魂、祟る存在と信じられたし、鬼のような姿のもの、餓鬼のような姿のもので表現され、祟ったり畏怖したりすべき存在であって、 これを和めしめて送り出すものが、無縁仏であったり、餓鬼であったりというものも、ご先祖やご精霊とともに祀り、お帰りいただく。そして来夏まで戻ってくるなと火を灯して追い出すものがあったようで、これが仏教の概念とうまく混ざり合い、和やかな風情となってノスタルジックなものとなって、静かにあの世に帰っていただく道を火を灯して照らし、帰路のお弁当に白むしや送りだんご、オケソクを持たせたりするのである。

ただし、京都での迎え火は盛大なものでなく、六道珍皇寺や六波羅蜜寺のように、精霊・ご先祖が迷わぬようにと迎えの鐘を打つ。

 

 

大文字の火床
大文字の火床

 

『五山の送り火』(現在のもの)

 

「大文字」  東山ヶ嶽

「妙法」   松ヶ崎西山(万灯籠山)東山(大黒天山)

「舟形」   西賀茂船山

「左大文字」 金閣寺山・大北山(大文字山)

「鳥居」   西山愛宕

 

しかし江戸時代に書かれた『諸国年中行事』(享保二年)には、五山のほかに、北山の市原に「い」の字、洛西の鳴滝に「一」の字の送り火があって、また「此の外諸方の山々に火をともすなり」とあるので、かつては京都周辺の山々では、村の所在の山に登って、大なり小なりの送り火を焚いたに違いない。(西山の「竹の先に鈴」、北嵯峨野の「蛇」、観空寺の「長刀」など確認される)

 

江戸前期の俳諧師・服部嵐雪(1654~1707)は『杜撰集』の中で「十六日は山々の送り火、如意ヶ岳の大文字、、松ヶ崎の妙法、河原にも麻殻に火をとぼして魂送りし侍りぬ」という前書きをしたうえ、

 

   経を焼く 火の尊とさや 秋の風

 

と詠んでいる。

その後、与謝蕪村(1716~1784)の『蕪村句集』にある有名な句に、

 

   大文字や あふみ(近江)の空も ただならぬ

 

昼間の暑さに雷雲が残って、時々稲光のする東山の空に赤々と大文字が燃える火が空に浮かぶような光景が目に浮かぶ。

ただ、同じく蕪村の句と言われる『夜半叟句集』には

 

   銀閣の 浪華の人や 大文字

 

とあって、この頃には大文字を見学しに大阪から来ていたことがわかる。

先の服部嵐雪の頃の状況から変わりつつあるのがわかる。

 

 五山の中で、いまでも如意ヶ岳の大文字は、一番規模が大きい。

東山山麓の旧浄土寺村の村民が焚く送り火であった。

現在「大文字保存会」という名称になっているが、今でも旧浄土寺村の住民が主となって焚かれている。

 


 

宮家隼先生によると、五山は、東山は「鳥辺野」、松ヶ崎は「西山」と「深泥池」、左大文字と舟形は「蓮台野」、鳥居形は化野の上方で愛宕山の麓と葬地の上の山に点じられているのは、御霊信仰、火の神の愛宕に結びついたものだとするのに賛同する。

 

霊魂は山の上に帰るという信仰、すなわち「霊魂昇華説」もあったし、祇園、北野天満宮、また千本閻魔堂、愛宕、化野の念仏寺、これらからも京都では御霊信仰、御霊の慰みと加護を願うということも大きなウェイトを占めていると思う。

また愛宕の火祭りも大いに関係があり、そして続く地蔵盆にも関わっていく。

 

 


 

明治維新後、京都府知事だった槇村正直。長州藩士郷士であり、木戸孝允(桂小五郎)に重用された人物である

彼はまったく京都の伝統的文化に関心がなかったようで、維新後の東京遷都後の荒廃した京都の復興に尽力したものの、寺院を撤去させ跡地に学校を造ったり、京都博覧会の余興として祇園の芸舞妓の踊りを一般公開させたのも彼である(今の都をどりになる)。

そして明治5年(1872)、「非科学的である」という理由で、夏の盆行事、送り火、地蔵盆、盆踊りまで禁止した。これは明治16年(1883)に解除されたが11年の空白ができた。この時、送り火も多くなくなって、五山の送り火が残って今に伝わるのではと考えるのである。

 


《賀茂川河原の精霊送り》

 

現在は衛生上、またゴミや火事の問題から禁止されているが、ごくごく最近まで河原での送りも賀茂川で行われていて、大堰川でも行われていたと思う。

現在もされる方がいるようで、右記の掲示板などでも所定の場所にという京都市からのお願いが貼られている。

 

つい最近まで、鴨川の河原で、水際で石を積み樒の枝を立てて線香を立て点し、苧殻や藁に火をつけて送り火を焚き、供物を川に流すなどのことが行われていた。

 

石の信仰は古代より存在する。

石の信仰の話もかなり長い話になるのでここでは述べない。

今でも多くのところで磐座が神の依代、ご神体となって祀られてる寺社はかなり多くある。

賀茂社の方では、15歳で元服をした新成人が山で石積みを行った(さんやれ祭)ようである。

 

有名な「地蔵和讃」に

「二つや三つや四つ五つ 十にも足らぬおさなごが 父恋し母恋し 恋し恋しと泣く声は この世の声とは事変わり 悲しさ骨身を通すなり    

かのみどりごの所作として 河原の石をとり集め これにて回向の塔を組む

一重積んでは父のため 二重積んでは母のため 三重積んではふるさとの 兄弟我身と回向して (後略)」

ここで亡くなった幼児、子供らが供養、回向のために石を積んでいる。」

そこに鬼が現れて、せっかく積み上げた石を金棒で崩してしまう。

そこに地蔵菩薩が現れて、冥途の親と思えと優しく衣の脇に抱えたりさすってくれたりして救われる。

ここでもあるように石を積んで回向する。

または、御魂を慰める、御霊を鎮める、そういう意味が石積みにはあったであろうし、また加護も祈ったのである。

今でも、青森の恐山であったり、富山の地獄谷のように、山の地獄や賽の河原という名称のつく場所では、いたるところで高く積まれている。

少し話はそれるが、奈良・和歌山の大峰山の入峰修行では、万が一、山でなくなった場合、谷に落として石を落として被せたという。山は清浄な霊地なので、死んだとしないのだと思う。

大峰の捨身ヶ岳ではその名のように、険しいところで行をするため落ちて死ぬ人もいた。これも死んだといわないで、修行で捨身したのだといった。

 

 


【火の信仰】

 

ここで一つ、火に対する信仰について記しておきたい。

 


一般概論

 

一般的に解釈されていることを掲載する。

 

【五山送り火の歴史】

 

点火の起源については現在、まったくわかっていない。

五山送り火の中でも、如意ヶ岳の大文字は一番大きいためか、伝説が残っている。

ただすべて決定的な起源とは言えない。

 

(1)平安時代に空海が創始(平安初期)

 

往古山麓にあった浄土寺が火災にあった時に、本尊阿弥陀仏が山上に飛来して光明を放ったことから、その光明をかたどって点火したものを、弘法大師空海が大の字に改めた。『都名所図会』

その他、空海が創始とするのは『大文字噺』『山城四季物語』等。

大の字は、空海の書であるという説もある。

しかしこれらは、近世まで、すべての記録に記載がなく、一般的な俗説であることは確かである。

 

(2)足利義政が開創(室町中期)

 

足利義政の発意によって、相国寺の横川景三が指導して、義政の家臣・芳賀掃部が設計したとしている。『山城名跡志』

(義政が義尚の冥福を祈るために横川景三が始めたというものもある)

 

(3)近衛信尹の説(江戸初期)

 

山々の送り火、但し雨降ればのぶるなり・・・

松ヶ崎には妙法の2字を火にともす。山に妙法といふ筆画に杭をうち、松明を結びつけて火をともしたるものなり。北山には帆かけ船、浄土寺には大文字皆かくの如し。大文字は三藐院殿(近衛信尹)の筆画にてきり石をたてたりという」 『案内者』 寛文2年(1662)

 

(3)の説が一番現実的で妥当性があるという。京都市観光協会のホームページで解説されている内容である。

 

 

 


 

【大文字の例】

 

大文字では、保存会の人たちが15日午後・16日午前と、松割木、護摩木、水塔婆、苧殻、松明を山へ持って山の火床に上がります。

松割木、護摩木には志納金を収めてお願い事、水塔婆には先祖の戒名、先祖代々等を書きます。

それらを山にもと上がると、それぞれの字形にかたどられた火床に井桁を汲みます。

夜20時より30分間かけて「大文字」「妙法」「左大文字」「船形」「鳥居」と順に点火します。

またこれらの火の残り灰は、魔除け、治病に効果があると言われ、当日は一般の入山は禁止されていますが、解除されると山へ登り、灰を持ち帰ったりしています。

 

 

鳥辺野(東山区)六道の辻 西福寺での送り火お焚き上げ
鳥辺野(東山区)六道の辻 西福寺での送り火お焚き上げ