京都人にとって旧六月二十三日の夜は「愛宕千日詣」に群をなして松明をもって登る火であった。
明治以降は七月三十一日の夜から八月一日にかけてが千日詣となったが、大祓をひと月遅れにしたもののようで、大きな意味はないようである。
しかし近畿地方では江戸時代より、七月二十三、二十四日に「愛宕火」とよぶ火祭や柱松もあったから、京都・広河原の「松明上げ」はこれを新暦の八月二十三日におこなう愛宕火であったことは間違いがない。
播磨の印南郡米田町では七月二十三日の夜に、子供たちが麦藁の松明を持って、
「おたぎ(愛宕)さんのごしょうろごしょうろ」
と唱えて走り回り、終いに堤の愛宕社にそれを捨てるという。(「近畿民俗」旧一の五)
これに対して因幡各地では六月二十三日が愛宕火で、子供組が萬燈を灯したり、柱を立てて「火揚げ」をしたりする。これを因幡の若桜地方では、「小地蔵講」というのは、七月の地蔵盆に対して、子供の地蔵盆と思ったからかもしれない。
このように愛宕火とよばれる愛宕権現の火祭(柱松)は、旧六月二十三日と旧七月二十三日の二種類があったことは確かである。また旧六月二十三日を「日待」とするのは瀬戸内海沿岸に多く、伊予の宇和島では和霊様の命日として「日待」は「火祭(ひまち)」のことではないかと考えるのである。
この二種類の火祭の伝承が複雑に絡み合っているので、柳田国男先生は次のように述べられている。
「摂津伊丹地方の愛宕火は、俳人鬼貫の頃から七月二十三、四日であった。この附近では八月望夜(もちのよ)の火祭もあり、丹波では盆の柱松をも愛宕火といふ例さへあるが、因幡の各郡では六月二十三日が愛宕火である。(中略) 盆と六月の水の神祭との中間にある此日を、斎ひ祭るといふ慣行は爰だけで無い。日が同じなので、愛宕の信仰に引き寄せられたのであろう」 柳田国男『歳時習俗語彙』
柳田国男翁も、この愛宕火に明確な答えを与えられていない。これはむしろ愛宕修験の柱松が、中世には六月十五日または六月二十三日に広く各地で行われていたものが、近世に入って愛宕修験が衰退されるにしたがって、旧七月のお盆の火祭(迎え火・送り火)のほうに引き付けられていったものではないかと思う。
五來重先生は、柳田国男先生はこれを修験行事であることに気づかれていなかったために、六月十五日または二十三日の意味が説明できなかったのではと説かれている。
寛文二年(1662)、中川喜雲(北村季吟の門人)によって板行された『案内者』の六月廿四日『愛宕千日詣』の項に、
「夜もすがら廿三夜をかけて山上にのぼる。西の京よりは松明の数百千とも(燃)し連れ(つれ)たる、まぎれなくみゆる。愛宕粽また名物なり。されば炎暑に瀬水になり苦行して参詣する、これ一たびの参詣は、千日にむかふといひといひつたへし」
とある。江戸時代初期には、あきらかに六月二十三日の夜のことで、手松明を手に手に持って登り、山上の斉燈にこれを投げ入れたものだと思う。しかしこれが修験山伏の集団の験競い(鞍馬寺の竹伐り会なども験競いである)であったことは確かだが、この時代には二本、三本、四本の柱松に手火を投げ入れて、点火を競っていたもので、『案内者』についで『増山の井』(寛文三年)、『日次紀事』(貞享二年)、『滑稽雑談』(正徳三年)になると六月二十四日を愛宕千日詣とするが、松明のことも、柱松のことも記されていない。
おおよそにおいて「千日詣」は愛宕行人が千日行をした結願を意味し、人々がこれに結集するという参詣であったのではないかと思う。
しかし、甲斐国市川大門に近い飯富村で、「風祭」と称する柱松の投げ松明をしていた例がある。
「風祭は廿三日、永久寺大門に近い、南町の道祖神屋敷で行われる。当日は村中の人々が永久寺本堂に集まって、風祭のお題名を唱へる。道祖神屋敷には永久寺から贈られた三本の大竹を立て、その竹の天辺から三方に縄を張る。(下略)」
『旅と伝説』「風祭と投松明」(石川緑泥氏報) 昭和九年六月
7月31日夜、愛宕山頂の愛宕神社。神社の正式名称では千日通夜祭という。この夜から8月1日未明にかけて参拝すると千日間の功徳を得るとされる。全国からの信者でにぎわう。3歳までの子どもが参ると、その子は一生火難から免れる徳を得るといわれ、子供連れの参拝者も目立つ。(3歳詣は千日詣には限りません。春(4月5月)や秋(10月11月)が多い。)京都バス清滝下車4.5キロ。問合先:愛宕神社 075-861-0658