【日本古代宗教における祖霊観念】
講義におけるノート形式でまとめてみます。
日本文化の原点=精神的な文化
↪ 古代宗教は古代の精神文化により、仏教・神道の教義とは別に、庶民信仰、庶民宗教として伝わる。
古代人の宗教の場は、生産、生活の場として平野部があり(住み)、宗教生活の場、神聖な空間として山が存在した。《現在よりも海は内陸部にまで寄せていた》
古代、縄文期以前(一部弥生時代においても)山海は狩猟、漁撈の生産の場である。山海から住居が平野に移っていき、農耕を主とした生産へと代わっていくと、山海は宗教の場、神聖な空間、精神文化の拠り所へとなっていく。
やがて仏教が伝来すると、天皇、朝廷など国家主導者らは、平野部・盆地の、都、国府、郡、衛のある場に寺院建立し、公的に官僧が置かれた。しかし、かってのように山岳部においても仏教が広がり、山岳仏教は公的ではないところから民間の私度僧が生まれ、修験道となるのである。(余談だが官僧になれば種々の税が免除されて国の庇護を受けられた。私度僧は国家より固く禁じられていた僧である)
紀伊半島の南端、熊野は山であり海でもある。「山の熊野」「海の熊野」の二面性を持っているのである。これら三か所を一霊地として「熊野三山」となっていく。先の修験、私度僧らの修行の場としての躍動が大きいであろう。
日本の古代宗教においては、山岳宗教と同時に、それに少し先だって海洋宗教の信仰があったのではないかと思う。海に生活の根拠を求めていた頃に自然と発生した時代の宗教である。
【海洋渡来の山神】
伯耆大山、彦山(英彦山)、箱根などの山岳宗教の神々は、海から来たという伝承を持っている。
『伯耆大山寺縁起』
美保の岬(現在の地蔵崎)から金の狼が海からあがってきた。それを見つけた依道という狩人が金の狼も後を追っていくと伯耆大山に山の中に入っていく。そこで、洞窟に入ったのを見て、矢をつかえて、いまや放たんとすると、矢先にみえたのは金の狼ではなく、地蔵菩薩だった。
ここで依道は自分の殺生の罪を悟って弓矢を捨て、髪を剃って僧侶となり、金蓮上人と呼ばれるようになる。
ところが金の狼は、また一人の老尼に変身したという(山の神は女性として表現される場合が多くある)。
我は都攬尼(とらんに)となって依道をこの山に導くため狼に化けたのだという。自分は生の神の化身であるが、依道と夫婦になって地蔵権現を祈り、伯耆大山を修験道の山として開いていこうというものである。
ここでは山伏は、半俗半僧で尼と夫婦である場合が多い。
このように海中上がってくる神は「帰(よ)り来る神」とされる。
そのことを最初に考えられたのが、柳田国男翁と折口信夫氏である。両先生は、『古事記』『日本書紀』『万葉集』などからも、海の彼方から来る神が記されていることに気づかれている。体系的な海洋宗教という概念はまだなかったようだが、「帰(よ)り来る神」ではなく「寄り来る神」と書かれている。
この「帰り来るの「よりく」は、「寄り来」とも書いて、海岸に木が流れ着くので寄る木になったとも考えられた。
箱根では「余彩」という字を当てて「よらき」「よろぎ」と発音している。
(平安時代中期に記された『和名類聚抄』(倭名類聚抄)十巻に国名・郡名・郷名を加筆した和名類聚抄二十巻本に、相模国には足上(足辛乃加美)・足下(准上)・餘彩(興呂岐)・大住(於保須美国府)・愛甲(阿由加波)・高座(太加久良)・鎌倉(加未久良)・御浦(実宇良)の各郡あって、今の伊勢原市を中心に平塚市・秦野市・厚木市の一部を含む大住郡の郷名に高來の名があり、読みの註はないものの、例に拠れば「太加久」と唱えると風土記稿はしている。
江戸時代待末期までは相模国余綾郡と書かれている。大磯付近の郡名である。磯に箱根の神が寄ってきたというので余綾の地名となった。寄ってきた神が鎮まる場所を探すと箱根山があったのでそこに鎮座した。
『箱根権現縁起絵巻』二巻・絵巻物
「インドの大国の王子と大臣とその娘と継母子と高僧六人の継子のいじめの物語がある。
箱根の三所権現、伊豆山の二所権現の両方の神の五柱(継母は芦ノ湖の龍になる)の神の縁起として『御伽草子』のような物語化された。
https://www.tobunken.go.jp/materials/glass/21163.html
原始的な神は、死んだ人の霊魂が神になっていく。
先祖の神は、亡くなった先祖の魂が次第に供養され、浄化されて祖霊となる。最初は荒魂で祟りやすい霊であるが、次第に子孫を守り、慈しむ守護霊的な神霊に変わっていき、そして神、氏神となる。
五來重氏にならい「霊魂昇華説」とよぶことにする。
山の神は、山の麓からも始まる。
たとえば、京都東山の麓は鳥辺野(鳥部野)は《墓地葬送地》]であるが、葬られた人はだんだんと浄められ、その位が高められてついに神となる。
その鳥辺野の山が霊山(りょうぜん)といわれて信仰されることになるのである。
また維新の戦いや戦争で死んだん人も霊や神ととなることがある。それは京都護国神社や、東京に移っては靖国神社になる。
これらも「霊魂昇華説」で説明できる。
またそれが、海となると、死者を水葬し、海の神となるのである。
熊野では「補陀洛渡海(ほだらくとかい)」という水葬信仰がある(生きたままの場合もある)
補陀洛浄土とは、南方にあるという観音の住する浄土である。
熊野では、補陀洛渡海と称して、熊野那智の沖で水葬者を沈める場所もあるという。
葬られた霊は海の彼方「常世」「根の国」「妣の国」とよばれる霊の国へと行くのである。
※現那智勝浦町の補陀洛山寺の歴代住持は、補陀洛上人と称し、観音浄土へと向かう「補陀洛渡海」が生きながらにして行われた。小さな舟に30日分の食料を携え、舟の周りは木板で外から打ち囲まれ、海へと出ていった。
つまり、海と山はともに霊魂の留まる霊場であり、神々が誕生する神聖な空間なのである。
霊の世界を「常世」というのは、ここに行けば永遠に変わらない姿で霊魂不滅と信じられたからである。
「龍宮」などと言われると、永遠に歳を取らない不老不死の国と考えるようになったのである。
これはのちの浄土思想などで多く、観音の南方補陀洛浄土、薬師の東方瑠璃光浄土、阿弥陀如来の西方極楽浄土にも通じてもいく。
【海の彼方の常世】
根の国の「根」とはルーツ(根源)のことで、先祖の霊のいる世界である。
『古事記』『日本書紀』(三貴子の分治)
伊弉諾尊が素戔嗚尊にわだつみ(海原)を統治するようにお命じになるが、素戔嗚尊は死んだ妣の国、根の国に行くと言って駄々をこねたという。駄々をこねて乱暴するならば、現実の世界に住むべからずといわれ、追い出されてしまう。
この「根の国」は、向こうにある冥界の常世で、妣の国とのいわれる。
古代は母系社会で、先祖は女性であると考えられていた。山の神が女性がであるのも母系家族であったからではないだろうか。母系社会の始祖は紛れもなく女性中心であって、天皇家の始祖も「天照大神」であり、またそこから根の国は妣の国ともいわれたのだろう。
「常世」とは、遥か彼方にあると想定される国、死後の世界である。
物語・昔話(フィクション・メルヘン)としての『浦島太郎』の龍宮の話がある。
これは『日本書紀』雄略天皇二十二年、丹波国与謝郡の筒川の人、水江浦島子が、舟に乗って釣りをしていた。そして大亀を得た。それがたちまち女となった。浦島は感動して妻とした。二人は一緒に海中に入り、蓬莱山に至って、仙境(仙人たちを)を見て回った(この話は別の巻にある)。昔話の歴史化の現象である。
「龍宮」は「蓬莱山と書いて「とこよのくに」と読まれる。常世では、蓬莱山は永久不変、不老不死であるといわれる。
「常世」のタブー
浦島太郎には、玉手箱を開けてはならないというタブーが設けられ、そのタブーを犯すことによって世界は一変する。浦島太郎は白髪の老翁となってその場で死んでしまう。
この話の後半部分は、『日本書記』に「別巻に在り」とされたのが『丹後風土記』『万葉集』に残ったのである。
古代の他界観念として、死後世界である常世では年を取らない。
常世の支配者は「わだつみの神」(海神、海若、海童)といい、これはインド・中国の「仙人」「龍王」と同じである。
「帰り来る神」とは、海浜で生活していた人が死んで水葬され、その祖霊が神となり、海の彼方の常世にあって子孫の祭りを受けるために帰ってくる神である。その上、飢饉などで子孫が困れば助けに帰ってくる神である。これらの信仰は、仏教の弥勒、薬師信仰と重なっていく。
他界、死者の霊魂の世界は特定の場所にあるのではなく、漠然と海の向こうにある世界、あるいは山の中にある世界であって、仏教が入ってくると地獄極楽となるのである。
越中・立山には地獄谷と呼ばれる場所がある。これは平安時代から有名であったが、日本中の罪を犯した人の霊がこの地獄へ集まってくる場所として有名で、平安中期の『本朝法華験記』や後期の『今昔物語』に出てくるし、謡曲「善知鳥(うとう)」もこれをテーマにしている。これらの場合、他界は山の中なのである。
ただ一口に極楽と言っても「西方十方億土」というような漠然としたものである。ただ海を越えた遥かな国という印象を漠然と持っていたのである。
仏教以前から日本人が持っていた、海に向こうの他界、不老不死の理想郷があり、そこから幸いがやってくるという他界観念と合致したのであろう。
【常世からの贈物】
古代日本人の最も大きな関心事は「幸」としての「食べ物」「稲」である。
常世から祖霊によってもたらされたものの中で一番大切なものは「稲の種」である。農耕生活となってから「稲種」は、常世の祖霊のもっとも大きな「賜りもの」であったのである。
※それは日本の古代伝承や庶民信仰の上では希薄となってきたが、南西諸島や沖縄には残っており、民俗学の上では一つの定説となっている。
沖縄では、ニライカナイ(海の向こうの他界)から稲種が渡ってきたと信じられたことが、琉球の諸文献や『琉球神道記』に記されている。
※『琉球神道記』=慶長8年(1603)に日本本土から沖縄へ念仏を伝えに行った袋中(たいちゅう)上人が、沖縄の宗教事情について書いたものである。
袋代上人は、袋を被ったような形で生まれてきたのでこの名があると言われている。生まれた時より気骨があった人らしい。
慶長年間(1596~1615)、日本を南や北へ向かって、多くの遊行僧が念仏の伝道に出ていった。
袋中上人も、中国や南の呂宋(ルソン)南蛮(フィリピン)の方まで念仏を伝えに行こうとしていたが、途中で暴風に遭って着いた沖縄で8年間滞在し、その間に『琉球神道記』を書いて沖縄の人を啓蒙した。
その『琉球神道記』もはニライカナイ(僞来河内)信仰があり、海の彼方の楽土から「アマミキュ」「シネリキュ」が稲束を持ってきたとある。
日本本土では、最初に稲を持ってきた神として「稲荷」の伝説がある。
「稲荷」の名の由来は、稲を荷って海岸に現れた神であるという説(海から)と、神の化身の白鳥が止まった山頂に稲が生えたことから(山から)の海山の二つの説がある。
【伏見稲荷大社】
①奈良時代に秦中家忌寸(はたのなかつえのいみき)の先祖の伊呂具(いろぐ)が餅の的を射たら、それが白い白鳥となって飛び去り、それが止まった山頂に稲が生えたとする(『山城風土記』の伝承)
②弘法大師(あるいは智証大師)が紀州田辺の海のほとりで稲を荷った老翁と出会い、将来、京都に大きな寺を建てた時は守り神になってほしいと言うと、その老翁は約束通り東寺をつくる時に稲を荷って女神(命婦)を連れてやってきた。そこで、これをしばらく東寺の側の柴守長者二階堂に祭り、やがて稲荷山へお連れし祭った。(弘法大師伝『二十二社本縁』)
※インド・中国の海の向こうから来た説が多くある)
海の彼方の常世(ニライカナイ)の先祖の霊が、子孫を慈しむ恩恵として稲を持ってくる(稲種渡来説)。それが稲荷起源説へと結びついたのではないだろうか。
海に流れ着いた稲の籾か、すでに他所で田植えられていた稲かもしれない。
稲は、考古学的には中国の揚子江あたりで生まれたのではないかという。
すこし考古学と民俗学は捉え方の違いがある。考古学では歴史的事実、文化の起源となる場所を捉えていく。
民俗学で稲を考える場合、特使の船などのようなもので一度にやって来たのではなく、沿岸部に漂着したり、海の向こうから渡来してきたり、あるいはこちらから大陸に渡って持ち帰ったのが、何百年もスパンでいつともなく日本に着したのではないかという漠然とした真実で考える。
なので両面から考えることが必要なのである。
宗教的な問題としては…
漠然とした先祖の恩籠として考え、稲は海の向こうからやってきた神が持て来たという伝承が生まれ、それをもたらすのが「帰り来る神」であり、先祖であり、海の神ということに結論的になろうかと思う。
【弥勒とニライカナイ】
弥勒菩薩(慈氏菩薩、弥勒慈尊、弥勒仏とも)は、仏教伝来、飛鳥から白鳳時代の仏像のほとんどは弥勒思惟像(河内野中寺の白鳳仏など有名)が製作・信仰された。
弥勒菩薩は、釈尊入滅後、56億7千万年ののちに末法に仏陀(覚者)となって衆生救済のため現れる菩薩である。
古代宗教で山の神というのはほとんど弥勒菩薩であると思われ、のちに観音・薬師・阿弥陀に変わっていくのである。
ニライカナイは海の彼方の祖霊の住む浄土。
ニイクル、ミイクルは内地の根の国である。
奄美大島ではニラの島、ニラの国ともいう。
奄美大島の昔話の『桃太郎』は、
桃太郎が鬼退治に行く島はニラの島で、普通言われる鬼が島に鬼を征伐に行く鬼とは少し違う意味が読み取れる。
(桃太郎が宝物を持ち帰るのは、ニラの島の先祖祖霊の豊穣の約束の信仰の裏返しであったのではないかと考える)
鬼=隠(おん)に通ず=死者やものの精霊ということで鬼(き)の字が仏教が広まるにつれ、怖ろしい人を食べる鬼のイメージになった。
本来の鬼は、子孫を守護し、物語で宝物を持ってくるのは、豊饒を約束することからだと思う。
日本人本来の鬼ヶ島は祖霊の島であり、常世、根の国なのである。
ニライカナイ、ニラは沖永良部島などではミラ、ニイル、ミイル、ミクル、ミイクルと言われる。
ミイクル(ミルク)の音は弥勒と似ている。仏教で永遠未来の慈悲の仏がこれにあてられたことに違いない。
沖縄では、ニライカナイからミルク神がやってくる「豊年祭」が行われる。弥勒と布袋は同一視されている。八重山の島々に多い。
布袋(弥勒)の面をかぶった行列が出るが、「豊年祭」など呼び、海の彼方(ニライカナイ)から来た神として丁重に迎えられる。
【お金と米を持って来る弥勒】
このように弥勒は、常世から来る神とみなされている。
これは仏教の56億7千万年後の弥勒菩薩ではなく、海の彼方から金や米を持って来る神である。
「帰り来る神」と「弥勒菩薩」が、長い年月で少しずつ習合して変化する。それが民俗信仰である。
弥勒菩薩の民間信仰に、海の彼方から弥勒の舟が米俵を積んで訪れてくるという宝船や、神の舟に対する信仰がある。
弥勒下生のとき黄金世界が出現する(金を持って来る)。
帰り来る神が米を持って来る。
この両方が混ざり合ってくるとミラクル(弥勒)が信仰され、弥勒踊りや鹿島踊りの歌ができるのである。
常陸から下総、相模、伊豆の海岸に弥勒歌、弥勒踊歌・弥勒踊が残っている。
千葉県の鹿島踊りも弥勒踊りと混合されたものとしてよく形が残っており、また千葉県南部(安房)ではミノコ踊りとも呼ばれ、弥勒が転じたものであろう。
熱海・来宮(きのみや)神社の鹿島踊り(ミロク踊り)に
「世の中は万劫末代、弥勒の船がつづいたぁ」と米や黄金がやってくる歌が歌われる。
※仏教の『弥勒上生経』や『弥勒下生経』には出てこない。
「ひとたびは参り申して金の三合もまこうか」
この三合とは、宝船の珊瑚かもしれないが、または「弥勒の船がくると砂金三合もまこうよ」のこの三合も撒くので黄金もいっぱいになっていく。
「黄金三合は及びもござらん。米の三合も撒こうよ」
黄金でなくとも米でよいといっている。
これらのように、ともかくも弥勒の舟が来ると黄金や米でいっぱいになると期待したのである。
「何事も叶え給え、常陸・鹿島の神々」
弥勒踊りは、中世末期に爆発的に流行したそうで、江戸時代の記録にも出てくる。
現在も沖縄や、茨城、千葉、神奈川、静岡の海岸部で残っている。ミノコ踊りと呼ぶものもあり、鹿島踊りともいわれる。
鹿島踊りは、鹿島神宮の信仰を持ち歩く「鹿島の事触」といって芸能者が各地に広めたものが弥勒踊りと混同された。
鹿島踊の歌に「誠やら鹿島の浦に弥勒お舟がついたやら」と出てくることから合わさっていったものと思われる。
柳田国男翁の「海の道」も大変参考になろう。
仏教からは「五十六億七千万年ののちに弥勒菩薩がこの世に降りてくる。その時には大地に金が敷かれる」『弥勒下生経』とあることも多くの信仰にも連なっていく。
「ジパングは黄金の国。金を道に敷いたり、屋根を葺いたりする国だ」と有名なマルコ・ポーロの『東方見聞録』にあるのは大袈裟ではあるが、東北での金の産出などもあって金はふんだんに使われていたこともあろうが、弥勒信仰にも触れたのかもしれないと想像するのである。海の彼方の黄金を求めてコロンブスが新大陸発見にもつながったのではと考えてしまったりするのである。
弥勒と金
奈良の大仏の建立に際して鍍金の金が足りなくなって、良弁僧正は各地に金をもらいに行くが、黄金を蔵する山というやまという吉野の金峯山の神にもらいに行くと、蔵王権現が現れて「金は確かにここにある。しかし弥勒菩薩が現れた時に地に敷くための金であるから渡せない」と断られた。その後、百済王敬福なるものが金華山から出てきた金を献上したために大仏ができたという。 『続日本記』
弥勒と金の関係
①笹に小金が成り下がる
②飢饉の年に弥勒が世直しにやってくるという信仰が風評となる
享徳二年(1453)に年号を私的に「弥勒」「身禄」に変えた地方も存在した。
それらは巡礼札や仏像を作った時の紀年銘に使われているのが残っている。石山寺の中世の巡礼納札の中に弥勒二年と書かれた札があった。
※帰り来る神という海洋宗教は日本の歴史の中にいろいろの形を残している】
【海から山へ 山から平野へ】
『古事記』『日本書紀』=創世神話
最初に葦芽(あしかび)というものが現れる。これは水辺のもので、そこから神が生まれる(葦の芽のように水辺に神が現れた)。
そして天神七代ののちに伊弉冉尊・伊弉諾尊が誕生し、その両神によって磤馭慮島(おのころじま)を胞衣として大八州国(おおやしまのくに)が生まれる。
その後、死んだ妻伊弉冉尊を追って黄泉の国の来訪し、その後穢れを禊ぐと「天照大神」「月読尊」「素戔嗚尊」と、それに先行して蛭子(夷)という神が生まれるが足腰の立たない子供であったために葦船に乗せて流してしまう。(これらはいずれも海に関係した神話である)
そして、海の神のあとに山祇の神、大山祇の神という山の神が生まれる。
※創世神話ではまず海の神が生まれ山の神が出現する。
縄文時代の貝塚は水辺、あるいは海辺に居を持っていた者たちのものである。
そして生活の場が内地(内陸)に入っていき、狩猟・採集・農耕の生活へと変わっていく。(野生の栗やクルミの木の実を採ったり、動物を狩る生活であった。しして平地へと移住し、農耕生活へとなっていくのである。
寄り来る神の神話と伝説
【寄り来る神と帰り来る神】
海の他界のこと
『古事記』『日本書紀』は常世神話である。
素戔嗚尊 → 海原の根の国へ去った
少名彦神、稲飯命(いないいのみこと)、三毛入野命(みけいりぬのみこと) → 常世へ去った神
少名彦神(すくなひこのみかみ)
大国主神が日本の国土を経営するのに自分一人ではとても手に負えない。誰か助けに来てほしいと美保の岬に立って海を眺めていると、海の彼方より近寄ってくる神がある。
ここでは「より来る神」を「帰(よ)リ来る神と書いている。
「あなたは誰か?」と聞くと「少名彦神だ」と名乗る。「自分の仕事を助けてくれるか」というと「助けます」というので、二人は日本の国土を開いて農耕や漁撈や医療を教えた。(大国主命と少名彦神の神話)
ところが少名彦神は、その後用事が済むと熊野の岬、または粟島(淡島)から常世へ去っていった。
※『古事記』『日本書紀』の書かれた時代には「帰り来る神」の概念が漠然となっている。
本当はすでにこの世から去って、常世へ行った神が、子孫の大国主命が困っているのを見てこの世に帰ってくるのが「帰り神」だった。したがってこれは逆である。
常世へ行った霊が子孫の困難を助けるために帰ってこなければいけない。
記紀では向こうから寄って来て仕事をして去っていくのである。
【稲飯命と三毛入野命】
少名彦神と同じく常世へ去っていく。
『日本書記』神武天皇の条
神武天皇が日向から大和へ入ろうと軍勢でやってくるが、長髄彦によって孔舎衛坂(くさえのさか)で敗れ大和へ入れないでいる。そこでやむなく引き返し、雄水門から熊野に回り、熊野から大和へ入るが、熊野に着いた時に暴風に遭う。
※神話は荒唐無稽であてにならないという扱いに対し、神話は神話なりにその背景に歴史的事実がある。それらを分析してはじめて記紀が使える。
神武天皇、熊野遠征の時、暴風に遭って稲飯命と三毛入野命の皇兄二人が「浪の秀(ほ)を踏みて常世郷に往でましぬ」(海へ飛び込んで常世へ行った)とあり、2人は暴風雨、すなわち海神の生贄となる。
神武天皇は4人兄弟であった。
長男:彦五瀬命
次男:稲飯命
三男:三毛入野命
四男:神日本磐余彦尊(かむやまといわれびこのみこと)
稲飯命、三毛入野命の名が出てくるのは興味深い。この頃には、末子が家督を継ぐ慣習だった。
かつて常世とは、「稲のある世界」「食べ物のある世界」と意識されていた。
それは地上に飢饉や困難があれば常世から米や宝物を持って助けに来る神霊恩恵の世界観。
三毛入野命の三毛は「御食」のことであろう。
食(ケ)=食べ物すべてを指す
食べ物の神=オオケツヒメ
またウカノミタマ、ウケノミタマも食(ケ)で、字では三毛(御食)と同じく食べ物を指すのではなかろうか。
神話では、神の名を象徴的に表現される。
稲飯命も三毛入野命も常世に行って食べ物の神となったと思う。少彦名神のような後日譚はない。
【みみらくの島】
海や山の霊場には死者の世界がある。そこへ行くと死んだ人に会えるという信仰がある。
善光寺の戒(廻)壇の下の回廊の中で死んだ人の会えるという。
(そのため四十九日忌または一周忌までに必ず善光寺参りしる)
平安時代中頃
『蜻蛉日記』『大納言経信集』の「散木奇訶集(さんぼくきかしゅう)」にみみらくの島が見られる。
「みみらくの島」はニライカナイの訛り。ニイクル、ミイクル、ミイラクにあてられた町名が現存する。
五島列島北端の良港・三井楽(みいらく)は『万葉集』の遣唐使が風待ちする港として出る。
『蜻蛉日記』
前文
「この亡くなりぬる人の あらはにみゆるところなんある。さて、近くよれば消えうせぬなり、遠うてはみゆない」
「ありとだに よそにてもみむ名にしおはば」(あるということであるならば、よそからでも見たいものだ)
「いづことか 音にのみきくみみらくの しまがくれにし人をたづねん」
『大納言経信集』「散木奇訶集」
「みみらくの わか日のもとの島ならば けふもみかげにあはまし物を」(みみらくの島がわが日本の島であるならば、きょうもそこで恋しいみかげ<亡くなったお姿>にお会いしようものを)
日本の国内にある島との認識はないが、平安にはニライカナイの訛った「みいらく」「みみらく」が死者の魂の行く世界と知っていた。
常世の死者の霊 = 海の神、わだつみの神・・・・・豊漁を守る
仏教と習合 = 弥勒・・・困難の時に助けに来る信仰へと
根の国、常世(信仰の根源)
蓬莱 = 中国の道教と習合したもの
恵比寿信仰・・・常世、海の彼方の死者の国から来た福神
水死者・・・エビスさまとよび、海岸では丁重にまつられ大漁をもたらす神となる ⇒ 海上他界
※海の向こうから稲をもたらす神から魚をたくさん持って来る神(恵比寿信仰へ)
【徐福の伝説】
熊野の除市(徐福)の伝説・・・海の向こうから富をもってやってきた
新宮市・徐福の墓がある
阿須賀神社のある山 = 蓬莱山
熊野市・波田須港 徐福の神社がある
徐福神社の徐福祭は恵比寿祭とも呼ぶ
(不明) 海岸の各地に伝説がある
富士山 =蓬莱山・・・徐福がこの山にとどまった?
↪ 秦の始皇帝・・・神仙術(不老不死の薬)を得んがため、中国東海中の蓬莱の島に神仙がいて不老不死の薬をもつとされ、多くの道士に命じてそれを求めた。その一人が徐福である。
(他の徐福伝説の例)
丹後半島伊根町新井崎(東向きに徐福神社(新井崎神社)というのが稲荷とともにある)
※東真正面の冠島(老人(おいと)神社に上がってから新井崎に上がってきたといわれる。
冠島・・・(舞鶴の北に入り口)オオミズナギ鳥の繁殖地
↪ 海の彼方から「帰り来る神」の陸に上る中継地
〇島伝いに神がやって来ると信じられた例が多い。
途中に何もないのも頼りなく、島から島へ伝わってやって来たと説明があって現実味である。
島は重要な役割がある。
他にも多く徐福伝説がある
佐賀県、鹿児島県、宮崎県、三重県熊野市、和歌山県新宮市、山梨県富士吉田市、京都府与謝郡、愛知県など・・・ほかにも
【熊野信仰と海】
熊野古道沿いには、九十九王子という王子がある。(百以上あるといわれる)
王子とは、海の彼方から来る神の一般的な名称が王子ではないかと思うのである。
海神を海童・海若(わだつみ)と書くことにも関係するかもしれない
沖縄 ⇒ 海の神 ⇒ 「オオチキュ」『琉球神道記』 ※オオチ = 神の名、キュ = 敬称
オオチに字を当てると「王子」になる
九十九王子
昭和15年、和歌山県が紀元2600年記念として王子を調査 ⇒ 92ヶ所(熊野詣御幸道の王子)
しかしその後、新たな王子が熊野詣の離れたところから出てきたのはなぜだろう。
島や磯にある岩を王子という。また常世から来る王子を拝むところも王子といったのではないだろうか。
祠があったり、何もない岬や岩であったり、森の中の大きな石であったりする。
このようなことから海の彼方の常世を拝む陸地の聖地も王子で、王子という神が海から伝わってくるところはすべて王子になっている。
※江戸時代初期に書かれた、熊野市中心の木本の町の漁業古文書には、何々王子と漁場になる磯の名前が挙がっている。
五來重は、この磯を王子とした(磯を伝わってきた神が王子であったためであろうと考えられている)
海岸の王子と呼ぶところは、日本中にたくさんあることがわかっている。海である場合が多い。
熊野三山 = 三所権現ともいう ⇔ 平安時代中頃までは「山の熊野」と「海の熊野」の二ヵ所だけだった ⇒ 元は熊野二所権現であった(新宮と那智、または本宮と那智というのでなく、本宮と新宮・那智であったと思う。
結早玉神があり、結の神というのは、那智の夫須美(ふすみ)の神で、早玉(速玉も同じ)というのは新宮の神で合わせて一社となった。
本宮の山の熊野、新宮・那智の海の熊野が一つとなって、はじめて本宮・新宮・那智の三所権現となった。『熊野権現御垂迹縁起』(平安時代中期)
熊野の神の伝来
唐・天台山 → 鎮西の彦山(英彦山) → 伊予・石鎚峰(石鎚山) → 淡路・遊鶴羽峰(論鶴羽山二所権現) → 熊野
海を見ながら巡礼すること ⇒ 辺路(陸地との境をいう)
四国はもっとも知られた辺路だったが、弘法大師の信仰に中世には変わり、近世になって遍路となる。
☆日本古代宗教・・・海と山から始まる。しかも海の方が先で、のちに人間の生活の場が内陸に移るにしたがって、山に行くと同時に平野に移ったために山の宗教が盛んになった。(五來重)
日本民族の死後観
【山と他界】
山の地獄(地獄谷や賽の河原などと呼ばれる)
立山、白山、月山、蔵王山、恐山など
日本人の罪業感で読み解いてみる
他界観(死後の世界)
日本人の根源的な他界観 ⇒ 死んだ人の魂は山の中へ行くという信仰
◦初期の古墳は山に造られているものも多い。特に山のいちばん端となっている部分に墳墓を造って、それを山から切り離したのが前方後円墳といわれる。(大陸にはみない)
◦人を山に葬って、そこから死者の霊は山にとどまるという他界観へとなっていく。
山への葬り方
高貴な人 = 埋葬形式
庶民 = 風葬(山に捨てられる)・・・京都・東山山麓など
これが姨捨伝説『楢山節考』の参考になったと思われる
※奈良時代以降、上層階級のものは火葬となるが、下層階級以下はいまだに風葬
(風葬された骨をもう一度集めて改葬した形跡もみられる)
『羅生門』は山ではないが、少しでも高い所へ死体を葬るという日本民族の死後観
【山と他界】
山の地獄(地獄谷や賽の河原などと呼ばれる)
立山、白山、月山、蔵王山、恐山など
日本人の罪業感で読み解いてみる
他界観(死後の世界)
日本人の根源的な他界観 ⇒ 死んだ人の魂は山の中へ行くという信仰
◦初期の古墳は山に造られているものも多い。特に山のいちばん端となっている部分に墳墓を造って、それを山から切り離したのが前方後円墳といわれる。(大陸にはみない)
◦人を山に葬って、そこから死者の霊は山にとどまるという他界観へとなっていく。
山への葬り方
高貴な人 = 埋葬形式
庶民 = 風葬(山に捨てられる)・・・京都・東山山麓など
これが姨捨伝説『楢山節考』の参考になったと思われる
※奈良時代以降、上層階級のものは火葬となるが、下層階級以下はいまだに風葬
(風葬された骨をもう一度集めて改葬した形跡もみられる)
『羅生門』は山ではないが、少しでも高い所へ死体を葬るという観念もあって選ばれたのではないだろうか)
山を他界とし、山にも地獄があるという信仰である。ゆえに山の麓や中腹に死体を贈るのであろう。
〔山と墓地の例〕 山中他界
京都・西山 三鈷寺(宇都宮頼綱の遁世所)
寺のすぐ下に墓があり「灰屋」という麓の村の墓地である。
非常な急坂を登って埋葬墓に死体を運ぶ(高い所へ死体を葬る)
※親が死んだのは悲しくないが棺をお墓まで担ぎ上げるのが悲しいとまで言われた。
(山の麓に葬ることもあり、地獄谷の名称になっていったと考える)
立山のような高い場所の地獄谷のように、火山の噴気孔が多いこともあり、また低い山の地獄谷の信仰はこのような名山からではないだろうか。
高野山には、弘法大師信仰とは別に、山麓に3ヶ所、弘法大師の三三昧というものがあって、そこへ遠い村から登って葬った。そういうことが高野山初期の霊場信仰へとなり、やがて高野聖の活動で日本全国から納骨、納髪されるように日本総菩提所へと成長していった。
かつて近隣の花園村から死者の骨のぼせを見たことがある。