※ 現在、メモとして資料を書き付けていってます。今後、小論文としてまとまる予定ですが、現在は取材メモとして、特に論調としてまとめたものでありませんのでご容赦ください。

 

 

(記)巫女に関して、ほとんど知識を持ちえません。ただ、歴史・民俗について触れ、フィールドワークしていく際に、巫女とは切っても切り離せない存在となってきます。

現在の神社に附属し奉仕し、神職の補佐であったりする、白衣に赤い袴姿の巫女とは少し変わってくる。

フィールドワークの中で出会い、また伝え聞き、その意味を考えさせられたとき、どうしても考察せざる得ませんでした。

特に農耕儀礼であったり、天変地異、御霊信仰であるようなことについて、巫女という存在もかかせませんし、それらのうちより、知識はないなりに伝聞し、整理したものを少しずつ記していきたいと思います。

さまざま、こういうものではないかとご意見いただいたり、叱咤いただけたら幸いです。

 

 


《民俗から見る芸能》

 

① 神楽

② 田楽

③ 風流

④ 祝福芸

⑤  外来脈

本田安治「日本の伝統芸能 本田安次著作集」

 

神楽

神様の座を設けてそこに神を勧請して、鎮魂する目的のもの。宮廷で行われる御神楽に対して、民間でおこなう神楽が里神楽。

 1:巫女が神前で採物を持ち、神の言葉を託宣として語る巫女神楽。

 2:釜に湯を沸かし、湯を神に献じ、自分たちも湯を浴びて穢れを祓う湯立神楽。

 3:神の依り代となる榊、幣、杖、篠、弓、剣などの採物をもち、神を招く採物神楽

 4:仮面を付けて舞う能神楽。

 5:獅子頭に幕を付け、その中に二人以上の人が入って舞う獅子神楽など。

 


 

巫女。一般に現在では、神道の神社で神職の補助者として、白い衣に緋袴のイメージが強いのではないかと思われる。

しかしそれは、明治に入って、今見るような光景となってきたものが基本である。

 

神楽を舞う、祈祷をする、占いをする、神託を得て他の者に伝える、口寄せする。

それらが明治以前には一般的な巫女の概念であったようである。

 

・朝廷の巫(かんなぎ)系

・民間の口寄せ

 

柳田邦男翁によれば(巫女考)

①大きな神社に所属してその境内地に居住し、例祭の節には必ず神幸の行列に加わるのみならず、神前に鈴を振って歌舞を奏し、また湯立ての神事に関与するもの。

関東=ミコ 京阪神=イチコ

②もう一つのミコ、タタキミコとも口寄せともいう、たいてい何村の住民であるかよくわからず、少なくも五里八里の遠方から来る旅行者。この口寄せというのは古い語で、その意味は隔絶して近づくべからざる神または人の言語を、眼前の巫女の口を介して聞くこと、すなわち託宣・託言を聴かんと求むることであって、従ってその仲介を業とする女をも口寄せとよぶのである。

関東=イチコ、イチ

常陸国=大市、小市、市子と名付け、祭事に与かる者もいる。あるいは宮市子ともいって元は皆女子の業である。(常陸国誌)

土佐で多くの社に佾(いつ)いう者がいる。その住居を佾屋敷といい、あるいは男の神主を佾太夫などともいう(諸神社禄)

 

 関西方面で、口寄せ巫女をミコ、また大原神子などといい、社頭に居住する者をイチ、イチコなどと呼び、関東では口寄せ巫女をイチコ、梓神子といい、社頭に仕えるものをミコと呼んだ。

これらは、神社に仕える巫女、漂流する巫女とはまったく正反対の存在かと思われるが、近世までは根源的な伏流には同じものが流れているようであるようである。

 

 

大原神子
大原神子

「もともとこの二つの巫女は同一のものだったが、時代が下るにつれて神を携え、神にせせられて各地をさまよう者と宮に仕える者と分れた。」

 

東京などのイチコは江戸時代の公文書には必ず「梓巫」または「梓神子」とみえ、これも地方によっていろいろな名称がある。

上方では単にミコといえば口寄せのことで、神に仕える方をイチという。(賤者考)または京都では梓神子と大原神子というとの説もある。(物類称呼)

大原(丹波国)

 

 

日本の巫女の特徴は「海外のシャーマンのように全員が精神的疾患を持っていない。」「『神にせせられて』さまようものの、いわゆる憑依の症状をしていない。」「そもそもシャーマンは口寄せをしない。」という点から歩き巫女を含めた巫女と海外シャーマンを区別しうる。(堀一郎)

 

巫女は穢れを払い、神・貴人にマナを付与する。(霊鎮め)等の行為を行なう職掌であり、心身ともに健康な者が求められた。

 

「巫(かんなぎ)系巫女、口寄せ系巫女を問わず、巫女が結婚した後も巫職を継続したものの、座摩巫(いかすりのみかんなぎ)のように七歳頃から勤め、結婚後引退する者や常陸の鹿島神宮に勤める物忌(ものいみ)、斎女(いつきめ)、伊勢神宮(いつきのみこ)のように終生結婚せずに過ごした巫女も存在する。

 

 

 

《古代》

 

 古神道で神を鎮める様々な行為の中で、特に祈祷師や神職などが依り代となって神を自らの身体に宿す。「神降し」や「神懸り」の儀式を「巫(かんなぎ)」といった。これを行う女性が巫女の発生と考えられる。男性でそのような祭祀に仕える者は覡(げき)と称される。

 

卑弥呼のような「鬼道」を事とする女王、倭迹迹日百襲姫命(かみやまとととびももそひめのみこと)の神話に登場する女神たち、神功皇后、伊勢の斎宮、賀茂の斎院、また古代の神社巫女、神事に従事する者。

 

 

「(前略)其國本亦以男子為王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年、乃共立一女子爲王、名曰卑彌呼、事鬼道、能惑衆、年巳超大、無夫壻、有男弟、佐治國、自爲王以来、少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人、給飲食、傳辭出入居處。宮室・耬・城柵巖設、常有人持兵守衛。女王國東渡海千餘里、亦有國、皆倭腫。(後略)」 (『魏志倭人伝』)

 

「天宇受売命、天の香山の天の日影を手次に懸けて、天の真折を蔓(又一万)と為て、天の香山の小竹葉を手草に結ひて、天の石屋戸に汗気伏せて踏み登呂許志神懸り為て、胸乳を掛け出で裳緒を番登に忍し垂れき。爾に高天の原動みて、八百万の神共に咲ひき。」

『古事記』

 

「又猨女君の遠祖天鈿女命、即ち手に茅纏(ちまき)の矟を持ち、天戸窟戸の前に立たして、巧に作俳優す。亦天香山の真坂樹を以て鬘にし、蘿(ひかげ)を以って手繦(たすき)にして、火処焼き、覆槽置せ、顕神明之憑談す。」

『日本書紀』

 

 

 《宝亀八年(七七七)五月戊寅【廿八】》○戊寅。典侍従三位飯高宿禰諸高薨。伊勢国飯高郡人也。性甚廉謹。志慕貞潔。葬奈保山天皇御世。直内教坊。遂補本郡采女。飯高氏貢采女者。自此始矣。歴仕四代。終始無失。薨時年八十。

『梁塵秘抄』「口伝集」 後白河院

和歌の口伝『俊頼髄脳』を模範に今様の世界を試みる

 

 

「弘徽殿とは、閑院の左大将の女御をぞきこゆる。その御方に、うち臥しといふ者の娘、左京といひてさぶらひけるを、「源中将かたらひてなむ」と、人々笑ふ。(後略)」

清少納言『枕草子』157段

(弘徽殿というのは、閑院の左大臣(の姫君)の女御を、そう申し上げるのだが、その女御に、うち臥しという女の娘が、左京という名前でお仕えしていたのを、「源中将がねんごろになっている」と、人々が笑う。)

 

「今昔、打臥の御子と云ふ巫(かむなぎ)、世に有けり。昔より賀茂の巫と云ふ事は聞こえぬに、此れは賀茂の若宮の託(つか)せ給ふとぞ云ける。何なれば、此く「打臥の御子」とは云ふぞと思へば、打臥のみ物を云ければ、「打臥の御子」とは云ける也けり。」

『今昔物語』巻第三十一ノ第二十六

 

(打臥の巫女という巫子という巫女(かんなぎ)がいて、昔から賀茂の巫女というのは聞いたこともないのに、この巫女は賀茂の若宮が乗りうつられたということであった。「どうして、このように打臥の巫女というのか」というと、いつも、打ち臥して託宣を告げたのでそれで打臥の巫女というのであった。)

 

 

その時は、夢解(ゆめとき)巫女(かんなぎ)も、かしこきものどもの侍りしぞとよ。堀河の摂政のはやりたまひし時に、この東三条殿は御官(つかさ)どもととどめられさせたはひて、いと辛くおはしまし時に、人の夢にかの堀河院より、箭をいと多く東ざまに射るを、いかなることぞと見れば、東三條殿に皆落ちぬと見けり。よからず思ひきこえさせたまへる方よりおはせたまへば、あしきことかな、と思ひて、殿にも、申しければ、おそれさせたまひて、夢解に問はせたまひければ、いみじうよき御夢なり。世の中の、この殿にうつりて、あの殿の人の、さながらまゐるべきが見えたるべきなり」と申しけるが、当てざらざりしことかは。

また、その頃、いとかしこき巫女(かんなぎ)侍りき。賀茂の若宮のつかせたまふとて、伏してのみものを申ししかば、「おち伏しのみこ」とぞ、世の人つけて侍りし。大入道殿に召して、もの問はせたまひけるに、いとかしこく申せば、さしあたりたること、過ぎにし方のことは、皆さいふことなれば、しか思し召しけるに、かなはせたまふことどもの出でくるままに、後々には、御装束奉り、御冠(かぶり)せさせたまひて、御膝に枕をせさせてぞ、ものは問はせたまひける。それに一亊(ひとこと)として、後後のこと申しあやまたざりけり。さやうに近く召し寄するに、いふがひなきほどのものにあらで、少しおもとほどのきはにてぞありける。

『大鏡』一〇九 「ある人の夢想と打臥しの巫女」

 

 

「男怖ぢせぬ人、賀茂女(かもひめ)、伊予女、上総女」 『梁塵秘抄』(1180)

 

 平安朝廷から公認されていた宗教者は、仏教僧、神職、陰陽師えあったが、貴族たちはそれ以外に、民間の巫女たちとも関わりを持っていた。

『蜻蛉日記』右大将道綱母の夫藤原兼家は、賀茂神社近辺で評判の巫女を自宅に囲い、この巫女の占うとおりに出世を遂げたと書かれている。賀茂の若宮が憑いているというのは、この巫女の言うことはご託宣なのである。

「打ち臥しの巫女」は朝廷内でも有名だったらしく、清少納言によれば、うち臥しの娘が左京とよばれる女房として、一条天皇の女御義子に仕えていると書いている。

 

 

『春日権現験記絵』(国立国会図書館オンライン)
『春日権現験記絵』(国立国会図書館オンライン)

春日大社は、巫女の力も大変大きな神社であったようだ。

絵巻は延慶2年(1309)に左大臣西園寺公衡が氏神である春日大社に奉納したものである。

一巻第一段の冒頭から神が憑依して託宣を述べている。

『春日権現験絵」には託言や夢想が非常に多いのが特徴である。

 

《承平託宣亊》

「承平七年(932)二月二十五日の夜、本殿中門下に参籠した橘内氏の女性に、春日明神が憑依して、興福寺の僧や春日の神官を呼び集め、「既に菩薩となっているのに朝廷がその称号を奉っていない」「菩薩の名は慈悲万行菩薩である」「公卿の任官は自分が判定する」など様々なお告げがあった。

(人に憑依して語られるのが託宣である。神の真意を知る重要な手段で、特にこの「承平託宣」は春日の根本託宣という。夜の中門の下は大切な祈りの場であったらしい。)

 

ここで注意しなければならないのは、春日大社には橘氏の娘という巫女が常駐していたそうだ。

 

春日若宮の拝殿で行われる神楽は「神寄せ」「ご祈祷」の意味を持ち、巫女としての職掌があって自立していた。

 

 


ⓒKOBE MEET TRIP   春日おんまつり 春日大社の巫女(みかんこ)
ⓒKOBE MEET TRIP   春日おんまつり 春日大社の巫女(みかんこ)

春日大社に奉仕する巫女は「ミカンコ」と通称と呼ばれている。

下に記したが、ここでも春日社の「巫女」は、「社人」といわれる神職や興福寺の僧侶と婚姻関係があって年齢層もかなり高かったことがわかる。

このような「巫女」が神楽の中で神懸りし、託宣を下している様子が書かれている。。。

 

「この道の果てに、神子(みかんこ)と名づける女僧たちの家があります。ほとんど皆四、五十歳、またそれ以上です。しかし、彼女たちは社人と名づける一種の僧侶と結婚しています。二人ともこの社に奉仕しています。彼らは表面は結婚しているような様子を見せませんが、そこには彼等の子供たちが小さい頃から父母のもとにいます。その大きな構内で、彼等は務めを互いに分けあっています。神子、すなわち妻はある役目を、そうして社人、すなわち夫は別の役目を受け持っているからです。これら女僧の役目は、預言者であり、大した魔術師であることです。というのは、誰かが健康、富、安産、勝利、あるいは紛失物を再び取得することを願うとき、この神子の所へ行って、自分のために神楽をあげてもらうのです。そうすると、数人の社人が太鼓やその他の楽器を持って現われ、神子たちも同様にほかの楽器を持って現われ、そのうちの一人が細長く切った紙片を結び付けた一本の棒を手に持って、神像の前で舞うのです。彼女は地獄の叫喚と絶え間ない咆哮のように思われるほどの激烈さをもって、また音楽の伴奏につれてそれほど情熱的に、急速に舞いまくって、ついに失神したように地上に倒れてしまいのです。その時、神の霊が彼女に乗り移るのだと言います。それから、彼女が起き上がると、頼みに来たことに対して答えます。

ルイス・フロイス『日本史ーキリシタン伝来の心13』

 

 

若宮社 常住神子 (17世紀)

 

「神子達、三句・五節句・かくら始・御田植・法楽之能・御祭礼には残らず拝殿へ出仕これ有る約なり、されとも月の障有る間は成さざるあり、此常住神子達をみるに、さはりの歳をのかれさせ玉ひて、不断あいつめしさたは殊勝にこそ、さだめて齢もかたふき玉はんに、センゲンタル鬢ナデツケ、カツラノ黛ほそぼそとつくらせ、柔和のスガタニテ立ちまはせたまヘハ、いと若クこそ見侍れ」『春日社若宮記』上

 

拝殿に常住する「巫女」等は「さわりの歳をのがれ、かなり高齢であろうに、たおやかで美しい鬢をなでつけて、三日月のようなまゆをほそぼそとつくり、やわらかい様子で立ち舞われるので大変若く煮える」と。