祇園祭 7月1日~7月31日
祇園祭は、八坂神社の祭礼であって、この祭礼に合わせて中京・下京区の山鉾町等では諸行事がおこなわれます。
京都では、葵祭(賀茂祭)・時代祭と並んで京都三大祭、また全国では大阪の天神祭・東京の神田祭と並んで日本三大祭の一に数えられています。
祭礼の期間は1か月間にわたって続きます。
7月1日の吉符入りの神事から始まって、その夜からお囃子の練習が行われ、2日には京都市市議会場において、京都市長立ち合いのもと、山鉾巡行の順番を決める鬮取り式が行われます。7月10日には神輿洗いが行われ、同日から鉾建てが始まります。鉾は数日かけて完成しますが、山は一日で組み上がるため、山建ては十三日より始まります。
十六日の宵山、十七日の山鉾巡行(四条烏丸/四条通/河原町通/御池通)は多くの人で賑わい、新町御池で巡行が終わると、山鉾は、各山鉾町に戻りすぐさま解体されます。その後、二十四日には花笠巡行、二十九日の神事済奉告祭で祭礼は終わりを迎えます。
■祇園御霊会
祇園祭は、疫神怨霊を鎮める祭礼である御霊会が起源で、もとは祇園御霊会・祇園会と称して、貞観11年(869)、全国的に疫病が流行したときに、その退散を祈願して、長さ二丈ほどの矛を、日本六十六ヵ国の数にちなみ六十六本の矛をたて、牛頭天王を祀ったのが始まりといいます。
天禄元年(970)以降、祇園御霊会は毎年の行事となり、6月7日に神輿を迎えて種々の神事を行った後、14日にこれを送るのを定例とし、その神事には朝廷や院から馬長(うまおさ)や田楽・獅子などが上納され、見物者の目を楽しませました。
また、庶民からも色々な芸能の奉納があり、長保元年(999)、雑芸者無骨が大嘗祭の標山(しめやま)に似た作山を作って行列に加わったのが、現在の山鉾巡行の原初といわれています。
■山鉾へと
平安末期には祭礼が一段と賑やかになり、鎌倉時代に入ると、鉾や長刀に装飾をつけたものが加わってきます。現在、粟田神社(東山区)の大祭などで見られる剣鉾巡行に当時の様子をうかがうことができる。
三条公忠の日記『御愚昧記』に記された永和2年(1376)の祇園会では、神事を勤めなかったにもかかわらず、鉾は例年通り巡行が行われており、これは、祭礼への関心が、神輿渡御などの神事から山鉾巡行へと移行していったことを意味しています。また当時の山鉾は、すでに一人で担ぐ剣鉾のような小型のものでなく、かなり大型化していったものと思われ、「高大鉾」が倒れ、老尼が圧死する事件も起きています。
一条兼良の『尺素往来』には、定鉾以外に鵲鉾、跳鉾、白河鉾の名が見られ、合わせて笠車、風流の造山、八撥の曲舞が奉納されたとあります。この後も、山鉾の数は年ごとに増え、15世紀中頃には五十八基に達しましたが、応仁・文明の乱(1467~1477)で巡行は中絶してしまいます。