祇園祭・・・7月1日から31日まで一か月間にわたって神事が行われるために、夏の京都の町は祇園祭一色に染まる。
そのルーツは貞観11(869)年、66本の鉾を立てて、当時大流行した疫病の鎮静を祈願した「祇園御霊会」にあるとされる。歴史の長さと規模の大きさから日本三大祭りの一つとして知られている。
多くの神事が行われる中でも、山鉾巡行は祭りのハイライト。「コンチキチン」という祇園囃子に合わせて都大路を進む絢爛豪華な様子には、京都町人の美意識がとまっている。
【概要】
祇園祭とは現在の「八坂神社」の祭礼であって、この祭礼に合わせて中京・下京区の山鉾町等で行われる諸行事を総合して「祇園祭」と呼んでいます。
祭事の期間は1か月に及びます。7月1日の吉符入りから神事が始まります。その夜からお囃子の練習が始まり、翌2日には山鉾巡行の順番を決める鬮(くじ)取り式が行われます。現在は京都市議会の会議室で、市長立会いのもと行われます。
《現在の祇園祭については後述しています》
現在、颯爽、絢爛の祇園祭が定着している。
しかし、昔の祇園祭は旧6月7日の御輿迎え、14日の御霊会。この際に山鉾が出ていた。
『年中行事絵巻』第九巻には、平安時代末期の様子が載せられている。
今のような山も鉾もなく、子供などもホコ(穂木)を担いで都大路を裸足で自由に走り回ってるようだ。
ホコ(元々のホコ)はホ(穂、秀、梢)のついた木。ヒモロギのような榊や杉の梢の尖った枝を指すと思われる。
武器になる前は神の依り憑く依代として立てられた。
比叡山や南都・興福寺の僧兵などが傲訴のため都に担ぎ込んだ神木も、榊や梛のホコを神輿に乗せたものであろう。
五来重氏は、天鈿女命(あめのうずめのみこと)が天岩戸の前で神楽を舞ったとき「茅纏(ちまき)の矟(ほこ)」を持ったというのも、茅(ちがや)を注連(しめ)にして付けた常盤木(さかき)の枝であったのではないかとしている。
祇園祭の鉾(鉾山車)の上に立てる柱を真木(しんぎ)という。
実は、真木は常盤木の枝の神木から来ている。発祥では 1本の枝だったものが、山(山車)に立てた枝葉の付いた松の柱になり、やがて枝葉のない真木になったと思う。その証拠に、真木にはもとの穂木の榊の束が縛り付けられている。
鉾山車のホコ(真木)の前身 → 1本の常盤木の枝 → 山(山車)に立てた梢付(うれつき)松の柱 → 鉾山車のホコ(真木)
『年中行事絵巻』ではそのような枝をホコに持った子供(枝のみで葉が描かれていないが)、これに注連(しめ)の紙手(垂)をつけているので「茅纏の矟」の一種であることがわかる。
常盤木の枝のホコを子供も大人も持ってパレードしている。サンヤレ祭(上賀茂神社・幸在祭)にもこのようなものが残っている。
祇園御霊会の始まった頃、祇園祭が御霊会なら、疫神の依代である穂木(ホコ)を、『年中行事絵巻』等には描かれていないが鴨川に流されたと思われる。
祇園御霊会に先立つ貞観5年(863)から行われた神泉苑の御霊会も疫神を神泉苑の池に流していたと思う。
応仁の乱後、都は荒廃し、環境悪化のために疫病は蔓延し、盗賊や火災が頻発した。将軍義政は個人趣味のための建築、造園を行っていたので余計に疲弊する。
応仁の乱で荒廃してしまった都で、町民主導で祇園祭が復興したといわれるが、木材や生活用品などの物資で裕福になった商人らや(財政面)、不安が広がる一般庶民とともに復興し、今に見るホコを、巨大な柱として山車に仕立て、流すことができなくなってしまった。『太平記』の頃より守護大名やらの「婆沙羅(ばさら)」ともあいまって絢爛豪華となり、社会の疲弊、不安がかえって祭りの山車を豪華にしていって疫を祓おうとしたと思う。
ただそのことでかつての祇園御霊会と異なり、災害の元凶となる疫神や御霊は鉾に乗ったまま、それぞれの町内に戻って行ってしまってると解釈してもいいのではないかと思う。
大阪天神祭り
神幸・一般渡御に先立ち「鉾流し神事」がある。
菅公霊が怨霊になり、雷神や疫神を使って災害をもたらすのを鎮める祭。
船渡御の形態となったのは、鉾に依り憑いた雷神・疫神を川に流し去るため。
※今では水都の夏の風物詩のようになっているが、しかしこのような祭の由来と宗教上の由来を知れば敬虔な祭であることがわかる。
「今日祇園天神也。而自去年。京中有雑藝者。是即法師形也。世謂无骨。(中略)件法師等。為令京中之人見物。造材擬渡彼社頭。而如云々者。件材作法。宛如引大嘗會の標。(以下略)」 『本朝世紀』長保元年(999)六月十四日の条
「材」は「柱」という意味ではないだろうか。
「今日祇園御霊會御輿後。有散楽空車。」
雑芸法師というのは、散楽法師または田楽法師で『本朝世紀』長和2年(1013)6月14日の条には、この散楽法師(雑芸者)が散楽空車(うつくるま)を出したことが出てくる。
これは箱形の車に乗って散楽(曲芸と滑稽な物真似などの大衆娯楽劇)を演じて見世物にしたことを意味し、これに屋根をつけて鉾柱(真木)を立てれば、現在の鉾(山鉾車)の原型が出来上がりつつあるように思う。
雑芸法師の作ったという「材」は「柱」でも「鉾」でもよいのだが、その作法はあたかも「大嘗会の標」を引くようであったというのが大きなポイントである。
標は「標の山」というものである。
山型をつくり、これに依代としての常磐木の梢付(うれつき)柱を立てたもの。
これを台に乗せて舁くか車に乗せるかしたと思われるが、これこそ現在の「山」にあたる。
今の「山台」または「山車」は、神話や中国の故事、あるいは仏教に関する風流(趣向)の造り物と人形、タペストリーを飾ったものであるが、共通しているのは台の後方に籠を伏せて胴幕をかぶせた山型とこれに立てた松の梢付柱を持つことである。
この中心構造は、大嘗祭の「標の山」にほかならない。
ただ「山」のなかで車にのせて引く「岩戸山」「南観音山」「北観音山」は、その屋根の上に松の梢付柱を立てるので、山型は円錐形に胴幕を懸ける。
これは車をもつ「鉾」(鉾山車)の山型でも同じことである。
これらから推論すると・・・
常盤木の枝のホコを手に持って走り歩き、これを鴨川に流していたのだと思う。
それから雑芸法師の趣向でこのホコ(穂木)を山型に立てて、台または車に乗せるようになった。
守護大名や町衆、婆沙羅とよばれる人たちのデモンストレーションで鉾の柱(真木)になって現在のようになった。
なぜ『年中行事絵巻』のホコを台や車に乗せたものがないのかの理由は・・・
※平安時代後期(1157~1179)頃成立
「仍令聞食左大臣此由。篤被下停止之宣旨。随召仰検非違使。奉此由。検非違使馳向彼無骨所。擬追捕之間。件無骨法師等。在前間云々迯去已了。爰検非違使空以還向。且令申彼社頭無骨材停止之由。干時天神大憤怒。(後略)」『本朝世紀』長保元年六月十四日の条
「而依左大臣爪(ママ)仰。雑人數多出來。打留散楽人。破損其衣賞。此間御輿停留不能追却。供奉人并見物者等構称可有微咎之由。(後略)」『本朝世紀』長和二年六月十四日の条
長保元年(999)、雑芸法師の「柱」が左大臣宣で禁止。
長和2年(1013)には散楽空車が左大臣の仰せで破却されている。
しかし、その禁止は神意に沿わなかったようで様々な凶事も起こっている。また民衆の要求もあったことも物語っている。「山」の風流(趣向)は鎌倉時代に復興された。
「祇園御霊会」は今年殊に結構。山崎の定鉾(しづめぼこ)。大舎人の鵲鉾。処々の跳(おぐり)鉾。家々の傘車。風流の造り山。八撥(やっぱち)。曲舞(くせまい)。在地の諸役、定めて神慮に叶うか。」『尺素往来』(南北朝期成立)
とある。
現在のような人形を乗せた風流の「山」があった。
定鉾、鵲鉾、跳鉾 = 今のような鉾柱(真木)を立てたものではなかった。「家々の笠車」と同じく風流傘を立てた「山」であったと思われる。今も踊念仏(風流)の花笠は「かさぼこ」と呼ばれている。
定鉾も風流傘で、やすらい祭の「鎮めの花」と同じくその傘の下に疫神や御霊を鎮めるものであったのではないかと推測できる。鵲鉾は、風流傘の上に鷺の造り物を立てたもので、島根・津和野の祇園社の笠鷺鉾は京都の祇園社のものをうつしたという。
跳鉾は、踊念仏の風流傘で、その下で踊るところから跳鉾といわれたものと思われる。その名残が「綾傘鉾」(江戸期の山鉾の図に綾の垂幕に水引をかけた風流傘の下で鬼の棒振をした光景が描かれている。
※壬生の六斎念仏講衆が奉仕したと伝えられるが、天保5年(1834)に綾傘と棒と棒振の面が残ている(昭和54年(1979)善長寺町民が復興。
【総括】
元々は御霊会の疫神の依代である常磐木の枝のホコにすぎない。
そのような自然祭祀の形こそ、本来の祭である。
応仁の乱後の中世の京を支配した守護大名や町衆は豪華な文化祭祀に変化させたが、祭の原点の庶民信仰は見失わないようにしなければならない。
祇園祭の開始された当初は、今のような装飾された巡行ではなく、原初的にはとても単純なものであったと思います。
山鉾の鉾柱(真木)につけた榊の束は御葭にあたるものであっただろうと思います。
また鉾柱(真木)に取り付けられた人形も、穢れをヒトガタに移して流していたものが芸術品になって流せなくなったものが名残で残っているのではないかと思います。
長刀鉾「天王さん」(和泉小次郎ともいいます)
月鉾「月読命」
放下鉾「放下僧」
函谷鉾「孟嘗君」
菊水鉾「彭祖」
もとはみな流し鉾の人形で、穢れと禍をおわせて流していたものと思います。
和歌山加太の淡島神社では、今も船に人形を乗せてひな人形を流す行事が3月3日に行われていて、自分の身代わりとなって穢れや禍を流すものと考えられます。
京都の賀茂川で行われていたひな流しを模して、『源氏物語』須磨の巻で光源氏は須磨の海岸でひな流しを行っています。
かつて祇園御霊会と呼ばれていました。
貞観11年(869)に京の都をはじめ全国各地に疫病が流行したとき、神泉苑に、当時の国の数66ヶ国にちなんで66本の鉾を立て、祇園の神を祀り、さらに神輿を難波の海に送って、災厄の除去を祈ったことにはじまります。
祇園祭は、7月1日の「吉符入」にはじまり、31日の境内摂社「疫神社夏越祭」で幕を閉じるまで、1ヶ月にわたって様々の神事・行事が執り行われます。