キリスト教では聖書で、イエス・キリストは「汝の隣人を愛せよ」といいます。隣の人も、すべての人も愛しなさい、ということです。
私は僧として仏教的な解釈を試みてみます。
仏教では、釈迦は「愛するな」と言いました。「渇愛(かつあい)」とよんでます。
愛せよと愛するな、まったく別な感じがします。釈迦はなぜ愛するなというのでしょう。宗教的であればあるほど愛せよと言わなければと不審に思う方も多いでしょう。
皆さんの愛はどうでしょう。
自分が好きになったら、相手にも自分のことを好きになってほしいと思うのは当然のことだと思います。しかしこれは、欲望でもあることは明白です。
私たちの愛は、人のために思うのではなく、自分の欲望のためにもなってしまう。
自分がその人のことが大好きになってしまった。だから相手も私のことを一番愛してほしいということになってしまう。異性の恋人なら特にそうです。またマスの多くの人に対しても同様のことで、相手を愛してるのではなくて、よく考えれば自分がかわいいのです。
このようなものを仏教では「渇愛(かつあい)」といいます。
自分は今、とても喉が渇いたので水が欲しい。まだまだ渇くのでもっともっと欲しい。もっともっと欲しくなるのです。
(その時は熱烈に愛し合っていても、年を経るごとに覚めていったり、熟年離婚だってある。気持ちの諸行無常で移り変わるのである)
渇愛は愛の形をとっていても自己愛なのです。そういう愛をやめなさい。
なぜなら人間の色々な問題は自愛から生じるからです。
自己愛を達成するためには、相手や周囲が見えなくなってしまったり、また正しい言葉を使わず、自分の恋敵のことを、「あの人は悪い人だ」と言ったり、、嘘をついたり、相手を自分のものにしたいなどというくだらないことを考え、しまいには敵を、また相手をも殺してやろうと執念深く追い詰める。
そんなつまらない愛などやめてしまいなさいと言うのです。
釈迦とキリストはまったく反対のことを言っているように思います。しかしそれは実は同じことを言ってるのです。
キリストは「あなたの敵を愛しなさい、まわりの嫌いな人でも愛しなさい」
釈迦はその裏返しです。「自分を捨てても(捨身)本当に相手のためを思う無償の愛、お返し、見返りを求めない愛でなければ本当の愛ではないので、簡単に愛するとは言ってはいけないのです。
人が幸せになるためには、執着を離れなければなりません。
愛することによって執着が生まれる。
愛すれば自分のものにしたくなる。するとそこに欲が出る。
これを離したくはない執着。
「愛すれば執す。執すれば着す」
そして離さないためには悪いこと、罪なこともしてしまいます。
この執着から離れることができたならば、心は自由になる。
結婚はしたけれど、今度はばれないように不倫しようとか、このような限りない欲望から離れると、とても気持ちが楽になり、自由になることができるのです。
皴が出たら隠したいと苦心します。
皴ができれば、自然にそのままでいい。
腰がまがれば、白髪が生えれば、人間として当たり前に素直に生きてることです。
年にあらがうことはすべての人間ができることはできません。
年相応でありたいものです。