【田遊び】
立春を迎える頃、春が始まると、田に入り、稲作の作業を模倣した「田遊び」の祭祀が各地方で行われています。これは1年の豊穣を祝う予祝の祭事です。新春や田植えの時期に行われるところもあります。これは、その年が豊作となるように、予め祝い、神、祖霊に祈ります。御田、春日打、お田植祭などともいわれています。
伊勢神宮の『皇太神宮儀式帳』(804)に、2月の鍬山祭として忌鍬で神田を耕し種子を撒き、田舞を奏した記録が残っています。また鎌倉時代初期の『皇太神宮年中行事』には「以レ藁殖レ田遊作法」とあり、今日、東北地方で小正月に、雪の上に藁を差して田植の真似をする「庭田舞」などの行事が、もっとも原初的な形態ではないかと言われています。
しかし稲作行程の模擬芸能として「田遊」の文字が最初に文献に出てくるのは、鎌倉時代末期元弘三年(1333)の年号がある静岡県小笠郡浜岡町の笠原荘一宮に関する文書で、修正会に神楽(巫女舞)などとなどとともに田遊が行われたとあります。今も特に東海から関東にかけて盛んで「蛭ヶ谷の田遊び」(静岡県牧之原市)、杭全神社の御田植(大阪市平野区)など国指定の無形文化財遺産も多く、寺社の修正会の田遊び、田植えが伝承されているのです。
これらの特徴は、長い詞章を唱えつつ象徴的な模擬動作を行い、その詞章の内容の類似から考えて、その伝播には、鎌倉幕府の所領に対する勧農政策があったものと考えられているようです。
春日大社の御田植(後述)は古く、史料にみえるところに寛元四年(1246)の記録が古いものです。
近畿圏に見られる田遊の系統芸能の特徴は、その演出は中世に郷民の間で流行した猿楽・狂言の影響を受けていることです。稲作の行程が翁面をつけた田主役や、農民たちの即興的な会話体で進行し、面をつけた牛役や少女が扮する八乙女なども出ます。
奈良県磯城郡川西町の六懸神社の「子出来おんだ祭」では、「水見廻り」「牛使い」「施肥」「土こなげ」「田植」「安産の神事」「福の種まき」などの曲が演じられます。
このような狂言風な田遊びは、静岡の三島神社や福島県都々古別神社など全国にも広がって見えます。
またこの予祝の模擬演技を、田植え時期に演じるところもあり、東北地方に広く分布する正月の田植え踊りなども、広い意味での田遊びです。
さらに標準的な考えをもう少しわかりやすく記してみます。
田遊びは、1年間の豊作を祈る予祝事業です。あらかじめ祝うことによって豊作の既成事実をつくる呪術的意味合いがあります。
春、田に入って稲作の作業を模倣するのが田遊びの祭事です。
1年の豊穣を祝う予祝神事で、あらかじめ祝うことで、その年の豊穣を既成事実化する呪術的な神事なのです。
かつては、旧暦正月の祭事として行われていました。
その行事内容としては、まず、神職、巫女、神楽女、早乙女、または氏子や村の総代が出ます。そして、種蒔き、田植え、草刈り、虫取り、稲刈り、倉入れなど1年の稲作の稲作労働の真似をしてみせます。神社に属する神田に入って、早乙女が実際に農具を振るうこともあります。しかし、多くの土地では真似だけをするところが多いようです。
【大神神社・御田植祭】
神楽男と田作男が種蒔きの仕草を演じ、早乙女が実際に田へ入って田植えをします。
本来の田植の時期ではないために、松の苗
かつて大神神社には神饌田があったようですが、戦後に無くなってしまったようです。そこで、平成2年に天皇陛下のご即位を記念して、篤農家の集まり『豊年講』の人たちの協力によって「大美和の杜」に神饌田を復活させ、狭井川の清水をそそぎ入れて稲作が始まります。
5月12日には苗代に籾種を播く「播種祭」に、6月25日には水を堪えた田に早苗を植える「御田植祭」が行われます。
御田植祭では、白丁が赤や青の襷をかけ、菅笠をかぶった早乙女、田作男により整然と植える、少し前の日本でごく普通に見まれた田植えの光景です。
田長(たおさ)の打ち鳴らす太鼓の音を合図として、手作業で早苗が植えられていきます。
この神饌田で作られた米は、大神神社の祭典で御饌米として供えられたのち、御神酒の醸造用にも用いられ、稲藁は注連縄の材料に用いられます。
春日大社では3月の祭祀となり、牛面の男が唐鍬や馬鍬を曳いて田起こしを真似たあとに八乙女が田植舞を踊り、籾や餅を撒き、松苗を植えます。
本来の田植えの時期ではないために、松の苗を稲の苗に見立てて地面に落とします。予祝の祭事です。この松苗は、田の水口に挿すと虫害を防ぎ、豊饒を約束すると言います。
田遊びは、山の神に農耕作業を見せるとともに、村人同士が農作業の過程を確認するという意味合いもあったのではないかという説もあります。
【日本の稲作民】
山は農民にとっての貴重な水源であり、祖霊の行きつく場所で、山の神が里に去来する信仰があります。
山は仏教の火葬や土葬の習慣のない頃には、山で風葬する習慣があったことはよく知られます。
普段は狩猟民や鉱山堀り、炭焼きなどの山の民しか入れない禁足の地でした。山の神が御座する信仰です。現在、登山の解禁日を意味する山開きは元々は山の神迎えのことで、卯月(4月)八日を開山祭とし、登拝を行う山岳信仰系の寺社も多いです。
同様に田の神が帰る日を山閉いと言います。
初午は稲荷信仰と合体した田の神迎えの儀式です。
伏見稲荷大社を始め、全国の稲荷社で行われています。稲荷社の御祭神”宇加之御魂大神”と”保食神”、あるいは”御食津神”と呼ばれる食べ物の神は、農耕神と同一視を神道ではされます。
2月最初の午の日に「山の神」が降りてきて、「田の神」となります。その時、馬に乗って(山の神は一本足で不自由なのでともいいます)狐が先導するとも言います。
春日大社 御田植祭 毎年3月15日催行
春日大社御田植祭は、五穀豊穣を祈る神事です。
これに八乙女(8人の巫女)によって「田舞」が奉納されます。神楽男の奏する田植歌に合わせて奉納されます。
御田植祭は、平安末期の長寛元年(1163)より続くと言われ、本来1月8日以降の最初の申の日が式日であったようで、明治5年から現在の日になりました。
当日、田主、神楽男、八乙女たち奉仕者は、若宮前南庭でお祓いしたあと、林檎の庭、榎本神社前、若宮社前で「田舞」が奉納されます。
田主が鍬を使って耕す所作をします。
牛面をつけた牛男が、唐鍬や馬鍬を引いたあと、神楽男の歌と楽器(笏拍子、銅拍手、神楽笛)に合わせ、八乙女の田植舞が踊られます。この時には、早苗に見立てた松苗を用います。
(枚岡の神が春日の地へ神幸の途中、白毫寺の宅春日の地で松苗を用い、不作に悩む民を救われた故事に基づく)
この時御巫の手によって播かれた種々は、年中境内の夫婦大國社で授与で、霊験あらたかだと言われています。
以下、原史料に接する機会がなく、下記論文を参考に書き出させていただきます。
「田舞の所作に関する一考察 ー春日大社の巫女舞を中心にー」
木本百合子氏(名古屋市城山中学校)
平井タカネ氏(奈良女子大学)
『田植歌』の歌詞と意味
① わかたねうえほよ 若苗を植えましょうよ。
えたねうえほよ 田植女共が手に手を取りあって
おんなの むつまじく肩を並べつつ、
てにてをとりて 苗をば拾い取って
ひろひとるとよ 次々と植えて行くというのであります
② みましみしげや 田の畔に美しく咲いている富草の花よ、
わかなえとるてやは 汝もよく繁れよ。
しらたまとるてこそ われらが若草=露の結んでいる若苗をゆらゆらと、
しらたまなゆらや 手に取るといふと
とみくさのはな その露が白玉の様にうつくしくこぼれるよ
③ ふくまんごくに お米がよく出来るように
ほんごくへ 本国到るところへ
うえちらし 植えて植えて散らし、
てにてをとりて そうして様々とよく出来たらば
ひろひとるとよ 一同打揃うて拾い集めましょう、というのでありまよすよ
春日大社の田舞
明治の初めに春日大社の社司大宮守慶『春日大社神楽舞』には、春日大社では長寛元年(1163)に始められたと伝えられる。
その後、鎌倉期の史料として、春日大社の祠官の日記『春日社記録』寛元四年(1246)正月十八日条の「今日可レ有二田植之僞一」との記録が現在のところ初見である。
記録はほかに文永年間、宝徳年間の『春日拝殿方諸日記』や、室町期の『大乗院雑事記』『多聞院日記』の「御田植」の名がみえるが、具体的な所作などの詳細な記述は見られない。
しかし「御田植祭」は時代を通じて正月八日以降の申の日に行われ、八乙女といわれる巫女の舞が奉納され続けてきたのである。
田舞の譜本は元和二年(1616)当時の春日社の巫子・冨田槇子によって書かれた『春日社神楽歌』が現在に現存する最古の伝本といわれるが、この譜面も田植歌の歌詞のみで、舞の所作を表す舞譜は残っていない。
明治12年(1879)、大森守慶によって書かれた『春日大社神楽舞』や、明治35年の、当時の弥宣・大東延慶によって書かれた『社伝神楽歌笛鼓舞琴譜』に田舞の舞譜が残されているようだ。
春日大社 御田植 田舞 所作
① 「ナエタネ」
「ナエタネ」に伴う動作は”カイクグリ”という動作を行うことを伴い、明治の舞譜では「苗の束を解き」「苗のひもをほどく」と記され、苗を植える前の仕草に歌詞を当て降る。
② 「ウエホエ」
「ナエタネ」でほどいた苗を、右手の親指と四本の指でつかんだ形で下方に置く仕草で苗を植える模倣的動作。
③ 「フクマンゴクニ」
両手を上に噴水のようにまわして大きな球を形作る。フクマンゴウは「福」「万」「国」ということで、米の豊作を意味している。したがって所作も米でいっぱいの俵の形を表している。
明治12年の舞譜には「向こうを見るようにかざしみる」と記されている。
出羽三山神社の指導者談に、ホンゴクすなわち「本国を見渡す」意味の所作であったのではないかと述べている。
④ 「ホンゴクエ」
右手は頭のところで軽く握った手をパッと開く。
右手を腰のところへ戻す。
左手を頭のところで軽く握った手をパッと開く。
左手を腰のところへ戻す。
このように田舞はいずれも歌詞の模倣的な仕草が多く、このような動きが「当て振り」である。
春日大社の巫女舞指導者の細田節子氏は、「当て振り」は他の春日社伝神楽にはほとんどないと言い、この当て振りは田舞独自のものと思われる。
⑤ 「ヤレヤレ」
田舞の所作の当て振りは興味深い仕草である。
「カイクグリ」はそれで、これは日本舞踊や童歌遊びや各地の民謡にもしばしば見られる。
「ヤレヤレ」は田植祭の①②③の歌の間に必ず入る囃し詞である「ヤレヤレ」に伴う動作である。
春日大社現行の舞は、手を真下に降ろす。
金毘羅宮、出羽三山神社の現行の舞では、腕を降ろさず前方に伸ばす。
こそ所作は、今日の民謡の基本動作とされる「立てさしかざし」とまったく同様である。
⑥ 「ウエチラシ」
大きく足を後ろへ跳ね上げる動きの「ウエチラシ」の動作も、田舞にもしばしば表れる「打手」(手拍子)と組み合わさって民謡によく現れることが多い。
春日大社社伝神楽は、他の巫女舞には見られない動作が、いずれも日本の庶民的な踊り、民謡と類似していることも田楽の所作の特徴である。
田舞と民謡は成立の段階、変遷の段階で何らかの強い相互関係にあることが推定される。