賀茂祭について、五來重大谷大名誉教授から聴講生として講義を受けたのは、学生時代の一コマに過ぎず、論ずるべき教養もないのであるし、フィールドワークもできていないお粗末な状況である。
ただ、自分なりにではあるが、講義ノートを参照して整理する形で掲載したい。祭も時代で変遷していたりする場面もあるだろうし、諸資料も精読していないので一度、まとめたあとに訂正・加筆を加えていきたいと思う。
ここでは、賀茂祭の中でももっとも中心の行事である「御蔭祭」「みあれ祭」を取り扱う。
また賀茂祭(葵祭)については、賀茂両社の案内書を基準に掲載させていただいた。
(執筆・文責:佐伯浩道)
山城国風土記
『賀茂社』
山城国の風土記に曰ふ。可茂の社。可茂と称ふは、日向の曽の峯に天降り坐す神、賀茂建角身命、神威石余四比古の御前に立ち坐して、大倭の葛木山の峯に宿り坐す。彼より、漸に遷る。山代国の岡田の賀茂に至り、山代河の随に下り坐す。葛野河と賀茂河との会ふ処に至り坐す。賀茂川を見廻りて、言はく「狭小くあれど、石川の清川にあり」といふ。仍りて、名を石川の瀬見の小川と曰ふ。彼の川より上り坐し、久我国の北山の基に定まり坐す。尒の時より、名を賀茂と曰ふ。賀茂建角身命、丹波国の神野の神伊可古夜日女を娶り生む子、名を玉依日子と曰ふ。次を玉依日売と曰ふ。玉依日売石川の瀬見の小川に川遊び為る時、丹塗矢、川上より流れ下る。乃ち取り、床の辺に挿し置く。遂に孕み、男子を生む。人と成る時に至り、外祖父、建角身命、八尋屋を造り、八戸の扉を堅つ。八腹の酒を醸みて、神集へ集へて、七日七夜楽遊す。然るに、子と語り、言はく「汝の父と思はむ人に此の酒を飲ましめよ」といふ。即酒杯を挙げ、天に向き祭らむと為、屋の甍を分け穿ちて天に升る。乃ち、外祖父の名に因り、可茂別雷命と号く。謂はゆる丹塗矢は、乙訓の郡社に坐す火雷命にあり。可茂建角身命なり、丹波の伊可古夜日売なり、玉依日売なり、三柱の神は、蓼倉里の三井の社に坐す。
(卜部兼方『続日本紀』巻九「頭八咫烏」) 『山城国風土記』逸文
(山城国風土記にいう。可茂の社。可茂というのは、日向の曽の峯に天降りされた神、賀茂建角身命が、神威石余比古(神武東征)の先導役として立たれ、最初は大倭の葛木山の峯に宿られ、そこより次第に居所を遷した。まず山代国の岡田の賀茂に至り、さらに山代河沿いに川を下られ、葛野河と賀茂河との合流地に到着された。賀茂川を見渡して言う。「ここは狭い地であるが、石の多い川に清らかな水が流れる良い場所である」。だから川の名を石川の瀬見の小川という。その川を遡られ、久我国の北山の麓に鎮座された。その時から、神の名を取り「賀茂」と呼ぶ。賀茂建角身命が、丹波国の神野にいる神伊可古夜日女を妻として生んだ子の名を玉依日子・玉依日売という。あるとき玉依日売が、石川の瀬見の小川で川遊びをしていると、赤い矢が川上から流れてきた。手を取り(不思議に思い持ち帰り)、寝床に挿し置く。すると身ごもり、男子を生んだ。成人すると、外祖父の建角身命は、多く扉のある広い建物をつくった。たくさんの酒を醸造して神々を集め、昼夜七日間、神祭りをする。そこで孫に語りかける。「お前の父と思う人に此の酒を飲ませなさい。すると孫は、酒杯を捧げて天に向かい奉ろうとし、そのまま屋根の瓦を突き破って天に昇った。外祖父の名に因り、孫を可茂別雷命と名付けた。赤い矢は、乙訓郡の社に鎮座する火雷命であった。可茂建角身命、丹波の伊可古夜日売、玉依日売、この三柱の神は蓼倉里の三井の社に鎮座する。)
『賀茂競馬』
「妋(せ)、玉依日子は、今の賀茂県主等が遠つ祖なり。其の祭祀の日、馬に乗る。志貴嶋の宮に御宇す天皇(あめのしたしらすめらみこと・欽明天皇)の御代、天の下国挙りて風吹き雨零る。百姓(おほみたから)含愁ふ。この時、勅りたまひて、卜部、伊吉の若日子に卜へしむ。乃ち卜ふに、賀茂の神の祟と奏すなり。仍りて四月の吉日を撰び祀る。馬は鈴を繋け、人は猪の頭を蒙りて駈馳せ、祭祀を為す。能く禱ぎ祀らしむ。因りて五穀成熟り、天の下豊平なり。馬に乗ること此より始むるなり。」
(惟宗公方撰『本朝月令』所引「秦氏本系」四月中酉「賀茂祭事」)
(兄の玉依日子は、今の賀茂県主等の遠い先祖である。賀茂の祭りの日には馬に乗る。志貴嶋の宮で天下を治める天皇(欽明)の御世に、全国で大風が吹き、大雨が降った。人民が嘆いた。この時、天皇が勅して、卜部である伊吉の若日子に占わせた。占いには、賀茂の神の祟と出た。そこで四月の吉日を選んで祭りをした。馬には鈴を懸けて(神に見立て)、人には猪の頭を被らせて走らせて(神を振るい立たせるように)、祭祀をした。十分に神をねぎらい祭らせた。これにより五穀は稔り、天下は豊かになった。馬に乗る祭りはこのときから始まった。)
葵祭は、5月に入ると関連行事が始まり、15日にはおおよそ500人に及ぶ平安朝さながらの華やか雅な行列が京都御所を出発、下鴨神社、上賀茂神社へと練り歩く。その光景はさながら平安絵巻のようで、見る者の目を愉しませ、有職故実をその目で見て学習できる機会でもあると思う。
葵祭は、天皇からの勅使が派遣され執行される祭事(勅祭)のこと。中世には、上皇や法皇の御車から、「源氏物語」にもあるように貴族たちも競い合って見物の場所取りをしたであろうし、民衆たちも待ちわびた祭であったであろうことは容易に推測できる。
葵祭を見物する際、行列は大きく分けて二つの行列に分かれるため、まず前半が先の天皇から派遣された勅使の行列、そして斎王代の女人列と続く。葵祭は京都最古の祭であり、行列のすべてに葵が飾られる。
さて今回、記していきたいのは「御阿礼祭」「御蔭祭」のことで、「御阿礼祭」は特に12日の夜行われ、まさに神人交流の場ではあるけれど、非公開で一切見学することはできない。
賀茂祭の本来意義は大きく2つあって、おそらく御阿礼神事の方が先に行われていたのかもしれない。
賀茂祭を考える際、重要行事であるがゆえに秘匿されてる「御阿礼神事」、そして見学可能となっている「御蔭祭」は共に賀茂県主一族の私祭、同族祭であって、15日の華やかな行列は勅裁である公的なもので華やかなものである。戦前などは乗馬の諸役は堂上公卿だったと聞くときっとさらに厳かさがあったのかもしれない。
今回、15日の勅祭についてはごく簡単に記したいが、主に「みあれ」について、あくまで講義ノートによるため不完全で、「みあれ神事」事体も非公開なので未熟なものになって申し訳ないと思うが、実際に「みあれ」に参列同席された先生講義であるので残しておきたいと思う。
※先生筋にあたる大谷大学名誉教授五来重先生の講義ノートを整理しているものです。
「御阿礼神事」も「御蔭祭」もともに、ご神霊を神山(みあれ野)と御蔭山から本社へお遷しする祭である。
柳田国男翁とその門下生による研究では、神社は本来社殿を持たなかったものであって、祭のときに神籬(ひもろぎ)を建てて神を招き、祭がすめば神籬はもとにもどしてしまう。そして翌年にも神籬を建てて神を招くということが繰り返されるという説である。これが天武天皇の御代ころから、仏教の常設の伽藍建築の影響で、現在のような常設の社殿ができるようになったというのが学会の通説になっている。
このような中、別に原始の祭祀として神籬の祭をしていたのが、賀茂祭の「御蔭祭」と「みあれ祭」で、神社もいう、古代の信仰形態を今に伝える祭である。
さて、神社も社殿を持つようになるということは、人々の参詣しやすいところに本殿・拝殿が建てられる。
そして、奈良県の三輪山や、伏見稲荷山が象徴するように、同じようなことが大なり小なり全国的にも見られるように、もとの祭地は山奥であったり、山の中腹であったりすることが多く、奥宮や奥の院、古宮、山宮などと呼ばれている。
この旧祭地がいったい何かということがあきらかにされないと、この賀茂祭の「御蔭祭」「みあれ祭」の本質が解明されないのだという。
戦後、柳田国男翁は満を持して「山宮考」を発表された。翁は「山宮考」の中で、伊勢の神路山を取り上げておられるが、これが「御蔭祭」「みあれ祭」にも適用されるという。「山宮考」の結論は、山宮はかつてのそう葬送地であったというのである。まさにショッキングな説である。
神社の起源が古墳であり、墓であることは、考古神道学の学者の多くもいっており、社殿の背後に古墳をもつ神社も多い。ここで紙面を割かないが、伏見稲荷大社などもそうである。そして社地の移動によって、古墳や葬地の山宮から離れて、現在の社殿になっている場合が多い。
そして下鴨神社の「御蔭祭」のおこなわれる御蔭山は古墳であるといわれる。五来氏がそのことに気づいたのは江戸時代末期の国学者・伴信友(安永2年~弘化3年)の『瀬見小河(せみのお)』(三十六巻)に、御蔭山の御蔭とは日本書紀持統天皇元年の、
「花縵(はなかずら)っを以て殯宮(もがりのみや)に進る(たてまつる)。此を御蔭と曰ふ。」
という一文からだそうだ。
ここで伴信友は花縵を仏教の華鬘と解されているが、古来の葬制では、死者の殯されているまわりに立てられる繖状、あるいは傘状に放射したヒゴ竹に、切紙をつけて造花のようにした天蓋柱である。今も各地で墓に立てる花籠(竿の先につけた籠から細い竹のヒゴを放射状に出し、これに切紙を花のようにつけたもの)にあたるので、御蔭山は、かつて古墳に華縵を立てて先祖祭、山宮祭をしたためにこの名がつけられたのではないかという。しかもここには上賀茂同様の「みあれ」があったという。
「下賀茂御祖神社より北東の方二十町ばかり、日吉山(比叡山)の西麓、高野村の東、御蔭山の麓、みあれ川の東、みあれ野の北に、御蔭社とてあり。下賀茂の摂社なり。四月中ノ午ノ日、御祖神その御祖社に臨行(いでまし)ありて、即日還幸給ふ神事あり。これを御蔭祭、(又、御蔭山祭)といふ。」
とし、伴信友は、この御蔭山の名は、古語の「天ノ御蔭日ノ御蔭」から出たものだろうとのことである。しかも、
「天の御蔭、日の御蔭と隠り坐して」
という祝詞の古語は、もともとは「お隠れ」になった御魂を籠り隠すための「御蔭」の花縵(花状の傘)だったのではという。
「御祖神社」の名も『山城風土記』の賀茂縁起によって、上賀茂社の別雷(わけいかずち)神の母・玉依姫と祖父・建角身(たけつぬみ)命と祖母・神伊賀古夜日売(かむいかこやひめ)をまつった三井の社(下鴨神社)だから、「御祖(みおや)」というのは、一族の祖先神をまつった社であるという。
(※三井社「又、曰ふ。蓼倉里。三身(みみ)の社。三身と称ふは、賀茂建角身命なり、丹波の伊可古夜日女なり、玉依日女なり。三柱の神の身坐す。故、三身の社と号く。今、漸に三井の社と云ふ。『続日本紀』巻九「頭八咫烏」)『山城国風土記逸文』
「新撰姓氏録』では、八咫烏は高皇産霊尊の曾孫の賀茂建角身命の化身であり、その後、賀茂県主の祖になったとしている。奈良県宇陀市榛原の八咫烏神社は建角身命を祭神としている。
ただ『山城国風土記』などの賀茂縁起も、日向の曾の峯に天降った神が、大和の葛木山(葛城山)から山城の賀茂に移ったというのは、それぞれに独立してまつられた山神と、神名の類似から、同一神の移動としてつくりあげた神話にすぎない。
また、
「八尋屋を造り、八つの戸扉を堅め、(中略)七日七夜楽遊し給ひき。」
とあるのは、一辺一尋(約一間)の八角形の建物を指し、これはのちに死者の殯として建てられることの多かった八角円堂なので、円錐形殯(モンドリ型モガリ)にあたり、この殯は八日八夜の號楽
をした残像が、この神話に反映しているのっではという。
※法隆寺夢殿、興福寺南円堂、北円堂、頂法寺六角堂など注目すべき点がある。
上賀茂神社の「みあれ祭」に立てる「御囲」は青山型殯にあたるが、これは円錐形または八角形の殯が四角くなったものと推定。そして御蔭山の祭にもおなじ「みあれの御囲」を立てられたのではと、伴信友が言うように、御蔭山に「みあれ川」と「みあれ野」の地名があることで、十分理解できる。
五来先生の授業では、
「神社」と「古墳」または「墓」の問題、また「祭」と「葬式」と相対する二極化したものも、古来の日本人の概念として結びつけることは可能で、さらに研究が進めば納得のいく説明ができるであろうといわれた。
もともとの殯、墓制について、時代が下るにつれ支配者の権力の誇示に利用されたり、装飾が派手になってきたり、祭から神がいなくなてしまうものかもしれない。
そういう中でも、なんらかの原点が残されている場合があり、注意深く見ていくと上級階級でなく、民衆が受け継いできたものが見いだせるのではないかと思う。
「御蔭祭」も「みあれ祭」も幸いにも原点が受け継がれてきたのではないだろうか。
下賀茂社の「御蔭祭」も昔は夜祭事されていたろうが、昼間の祭典と御神幸となった。いつからそうなったかはわからないが、伴信友の頃にはそうであったようである。
『花洛細見図』(国立国会図書館デジタルコレクション・京都大学貴重資料デジタルアーカイブ)などに描かれて、錦蓋をのせて御神幸があった。
その説明に、
「此のあいだに御さかき(榊)、あおにぎて(青和幣)、しらにぎて(白和幣)あり。神馬にみおや(御祖)の御かみのせ(乗)たてまつり、きぬかさ(衣笠)さしかくす(齧隠)。むまのうへに日かくしあり。」
今は錦蓋といい、馬の背の御神体(榊か)を隠すものが「きぬがさ」であり、「日がくし」であったことがわかる。
これがもとは華鬘(御蔭・はなかずら)と呼ばれるような繖(きぬがさ)または花籠だったのではないかと思われる。
現在は残念ながら車で移動になってしまったようだ。
江戸時代には「みあれ」は「御生れ」で、神が生まれることで、神の出現ということが定説になっている。
先のように柳田国男翁は「山宮考」で、山宮はかつての葬送地であるとしている。
かつて、五來先生が、賀茂県主同族会の系図会に招かれたさい、御蔭祭のみでなく「みあれ祭」が先祖祭の墓前祭という講演をされたとき、社家の方々はそう驚かれず、わかったという反応だったという。
五来先生は、昭和30年頃、「みあれ祭」を上賀茂社宮司代理の厚意で、この時3人の学者が見学することができたという。
この祭がなぜ公開されないのかというのは、賀茂県主一族の私祭、同族会なので同族以外は参加させないというのが、この祭の封鎖性ではないかという。
「みあれ祭」はもと、上賀茂の村全戸、明かりを消して真っ暗闇だったという。春日若宮おん祭のような感じであろうか。おそらく警蹕の声が響きわたったのではないだろうか。
神山神官も裸足で行道したようなのである。真っ白な浄衣の神官が「みあれ」をめぐり、墓前祭を思い起こす。
やがて神官は地面に腰を下ろして、御料(ヒホロキのばらずし)を手づかみで食べる「摑みの御料」ということらしい。葬送儀礼に喰い別れがあることも通じる。今は衛生面から神官は、白紙を掌に乗せ、それで御料を摑んだといい、新酒も回るらしい。すべて太古さながら、五來先生は感動したという。
現在はどのようになっているかはわからない。神官の座る場所に板敷がひかれているようである。
「みあれ」の神事が終わると、宮司が御神体(榊か)を奉持してご本殿に入り、その合図で、神殿、境内内外の燈火が一斉に灯った。
さきに、「みあれ」は「御生れ」ということが、神学者や国学者、明治以降の碩学などの解釈が一般説になっているという。
が、しかしである。
賀茂の旧記に、
「奥山の賢木を取り、阿礼を立て、種々の綵色を重る。」
とあることを伴信友も記していて、『万葉集』(巻一)には「安礼衝く」とあって、「あれ」は幡のことではないかという。
すなわちこのような意味ではと。
「安礼衝して御魂を鎮め奉りて御寿(みよ)遠長く、」
鎮魂際に、御巫が天鈿女命のように槽(うけ)を伏せて、幡をつけた鉾で突くことを意味すると述べている。
しかし、すっきりとした説明になっていないと思う。
だが、この「みあれ祭」が祖霊の荒魂を鎮めるための鎮魂際ではないかと感じていたのではないかと思う。
さまざまな縁起や記録を見ていると、同族の祖霊は荒魂としてしばしば祟りを現わしている。しかいこれを鎮め和めて和魂とすれば、多くの恩恵をもたらすといわれる。
その荒魂は墓や古墳にいるのでこれを墓前で鎮め、和魂として本社に迎えて山城国一国なり、皇室や同族の守護を願うというと納得しやすい。
そうすると「みあれ祭」は、荒魂鎮魂際であり、荒魂を封じるための殯形の「御囲」を立て、その真中に依代の杉柱二本を立てたのが、「角(つの」といって、斜めに御囲の外に突出している。
今、「みあれの御囲」は、本社から300mほど北の境内地「御生所」で作られていると思う。
伴信友は、
「今別雷ノ神社(上賀茂神社)より一町ばかり北に、御旅所とて在り。道の西なる岡を御あれ所の壇と称ひて、祭の時其処に仮宮を建て祭儀ありとぞ」
と現地を見ていないようだが、現在地は現代の変化であり、
「上賀茂別雷ノ神社の後(しりへ)の神山(こうやま)を、みあれ山とも云ふ」としているのが正しい。
神山は、上賀茂神社の神体山といわれるが、ここにもと賀茂氏一族の先祖の葬地といわれる山宮があって、そこで「みあれ祭」が行われていたのだろう。
社家で歌人の賀茂氏久に、
「みあれ木にゆふし(木綿幣)でかけし神山のすそ野葵いつか忘れむ」とあるのは、神山で「みあれ祭」がおこなわれていたことを暗示している。
のちに現在の本社に近い場所に山宮として殯の形の御囲を立てて、山宮祭を行うのが今の「御阿礼神事」になったと推定できる。
【葵祭(賀茂祭)】
葵祭(賀茂祭)は、賀茂社・上賀茂神社(賀茂別雷神社)、下鴨神社(賀茂御祖神社)の祭である。
総勢約500名、馬36頭、牛4頭、牛車2基からなる行列が、先頭から最後尾まで約1kmの及び、平安絵巻さながらに京都御所~下鴨神社~上賀茂神社と巡行する。葵祭の名のように、御所車、勅使、牛車にいたるまで葵の葉で飾られ、京都の伝統産業の職人技の衣装も絢爛である。
勅祭とは勅使(天皇の使い)が派遣され執行される祭儀。
現行の賀茂祭は大別して三つの儀で構成される。
この三つの儀を統合して「賀茂祭(葵祭)」といわれる。
【宮中の儀】
京都御所において古くは天皇陛下が出御になり「勅使発遣の儀」が行われていたが、現在は奉行により勅使・内蔵使に御祭文並みに幣帛が授けられ、行列の列見が行われる儀式。
【路頭の儀】
御所を出立した総勢500名が、長さ1kmに及ぶ行列で市内を巡行する。
【社頭の儀】
上賀茂・下鴨両社に行列が到着したあとに行われる儀式。
これに先立ち各社共に本殿祭を斎行し、勅使到着を待つ。
【葵祭・有職故実】
【路頭の儀】
乗尻(のりじり)
行列を騎馬で先導する、五月五日の上賀茂神社賀茂競馬の乗尻がこれを勤める。手には鞭を持ち露払いする。
◆警衛の列⦅検非違使(警察・裁判を司る役所)の役人の列⦆
素襖(すおう)
先払い、行列の警備にあたる(江戸幕府より派遣されていた)《藍色の装束》
検非違使志(けびいしのさかん)
志は長官より数えて四番目の位(六位の武官)舎人の引く馬に騎乗。看督長、火長(かちょう)如木(にょぼく)白丁(はくちょう)などの下役を従え警護にあたる《薄い藍色の装束・弓矢を持つ》
看督長(かどのおさ)
現在の警察官・巡査にあたる《あせた紅色の装束》
検非違使尉(けびいしのじょう)
長官より数えて四番目の位(五位の判官)志の上役で行列の警備の最高責任者。舎人が馬を引く。また志、尉ともそれぞれ調度掛に弓矢を持たせ、鉾持に鉾を持たせる《薄い藍色の装束・弓矢を持つ》
◆内蔵寮の官の列⦅宝物の管理等を司る役所(現在の財務省に相当)の役人の列⦆
山城使(やましろづかい)
国司庁の次官・山城介(現在の京都府知事に相当)。五位の武官。行列が御所を出ると洛外(国司庁の所管区域)になるため、警衛の列に加わったとされる。舎人が馬の口を取り、前後に馬副(うまぞい)、がつき、あと手振(てふり)、童、雑色、取物舎人、白丁などの従者が山城使の所用の品を携える《緋色の装束に太刀を佩く》
衛士(えじ)
両賀茂社の神前に供える御幣物唐櫃(ごへいもつからひつ)を守護する役。下社二座、上社一座、合わせて三合の白木の唐櫃にしめ縄をかけ、衛士が先導して白丁が担ぐ《紺色の装束に藁靴》
内蔵寮史生(くらりょうのししょう)
内蔵寮より上・下社に各1名担当を命じられた役人。七位の武官。騎乗し、両社に各1名参向する。上職の「内蔵使」に御幣を渡す役《藍色の装束》
◆馬寮の官の列⦅内蔵寮の馬を管理する役で、左馬寮・右馬寮の走馬(御馬)各1頭を牽く⦆
馬寮使(めりょうづかい)
走馬をつかさどる左馬允(さまのじょう)は六位の武官が騎乗《薄い藍色の装束・矢を調度掛に持たす》
牛車(ぎっしゃ)
御所車と呼ばれ、勅使が乗る車で、藤の花などを軒に飾り、牛に引かせる。現在は勅使が乗ることはなく、行列の装飾的役割となっている。牛童(うしわらわ)、車方、大工職などの車役が、替え牛とともに従う。
御馬(おうま)
走馬ともいい、両社の神前で走らせ、神々にご覧いただく2頭の馬。頭と尾に葵、柱、紙垂れをつけている。一頭に4人の馬部(めぶ)がつき引く。
和琴(わごん)
御物の和琴。銘を「川霧」という。
舞人(まいびと)
東游(あずまあそび)舞う、近衛府の五位の武官で歌舞に練達。6人の騎乗で共し、雑色、舎人、白丁が従う。(橙色の装束、絵入り白袴)
陪従
近衛府の五位の武官。この日、両社の社頭で歌を歌い楽器を奏する伶人。7騎が各楽器を携え、それぞれ雑色、舎人、白丁が従う。(紫に蛮絵模様のある装束)
内蔵使
内蔵寮の次官。五位の文武兼官。職名、内蔵助(現在の財務副大臣にあたる)。勅使が神前で奏上する御祭文を奉持する役。騎乗し、馬副、白丁らが従う。(緋色の装束・御祭文の入った袋を肩から掛け、太刀を佩く)
勅使
天皇の使い。行列中の最高位。四位近衛中将がこれを勤めるので、近衛使ともいう。現在、勅使は路頭の儀に加わらず、近衛使代が勤める。当時の様式のとおり、飾太刀、騎乗する馬も飾り馬で、朧(御馬役人・くとり)が口を取る。舎人、居飼(鞍覆持・いかい)、手振が従う。(黒色の装束、右腰には銀製の魚袋を付し、太刀を佩く)
索馬
勅使の替馬で帰路に備える。舎人が曳く。
風流傘(ふうりゅうがさ)
勅使・内蔵使・山城使に付随して、行列に華を添えるため、錦の帽額総(もこうふさ)等掛け渡し、勅使・内蔵使のものには更に造花を盛りつけた大きな傘。傘の上に牡丹や杜若など季節の花(造花)を飾り付けたもの。
◆斎王代以下の女人列 (昭和31年に復興)
命婦(みょうぶ)
女官の通称。小袿(こうちき)・単・打袴を着用する高級女官。花笠を差しかける。
女嬬(にょじゅ)
女官の下位。食事をつかさどる女官。(袿・単・打袴)
斎王代
斎王は平安時代には内親王が仕え祭に奉仕。伊勢の斎宮に対し斎院という。現在は未婚の女性から選ばれるため斎王代という。御禊を済ませた斎王代が供奉に担がれた腰輿(およよ)という輿に乗って参向する。五衣裳唐衣(十二単・いつつぎぬものからぎぬ)の上に小忌衣(おみごろも)を着け、髪は垂髪(おすべらかし)、頂に心葉(こころば)といわれる金属製の飾りを、また額の両側に日陰糸を垂れ飾す。
騎女(むなのりおんな)
斎王付きの清浄な巫女(みかんこ)、神事を司る女官。騎馬で参向するするためこの名がついた。6騎の女丈夫。
蔵人所陪従(くろうどどころべいじゅう)
斎院の蔵人所(物品会計を掌る役)の雅楽を奏する役人。(伶人)《緋の装束・紫袴に夫々楽器を持つ》
牛車(ぎっしゃ)
斎王の牛車で俗に女房車。この牛車には、葵と桂のほか桜と橘の飾りがつく。
賀茂祭は祭儀に関わるすべての人たち、社殿の御簾・牛車に至るまで二葉葵を挿し飾ることから広く「葵祭」と呼ばれている。
『賀茂旧記」によると、その祭祀の起源は太古、祭神・賀茂別雷大神が上社北北西にある神山にご降臨される際、神託により葵を飾り馬を走らせ、神迎えの祭をおこなったことに始まるとされ、時を経て欽明天皇の御代(六世紀頃)風水害が続き、庶民大いに嘆いたので、勅命により卜部伊吉若日子に占わせたところ、賀茂大神の祟りであることが判り、旧暦四月吉日を選び、往古の神託に習い、葵を飾り、馬を走らせ、盛大に祭を行ったことが賀茂祭の起こりであると『賀茂縁起』に記されている。
、のち、平安時代の平城天皇大同元年(806)四月には勅祭となり、光仁十年(819)には賀茂祭を中祀り(伊勢神宮と賀茂社のみで行われる国のもっとも重要な祭の形式)に準じ斎行せよと勅が下され、貞観年中には勅祭賀茂祭の儀式次第が定められ壮麗なる祭儀の完成をみた。
しかしながら、当時賀茂祭の社頭における祭儀は一般の拝観をほとんど許さず、ただ御所から社への行装を見ようと法皇・上皇が牛車を推し並べ、桟敷を設け、京の人たちを始め、上京してきた人も加わり、街は人で溢れかえったといわれる。また拝観場所での車争いの場面を記した『源氏物語』等、この時代の日記や書物には賀茂祭を唯「まつり」とのみ記したものが多く存するのは、祭儀がいかに盛大かつ優美であったかを偲ばせる。
その後、衰退と再興を繰り返し、明治十七年に明治天皇の旧儀復興の仰せにより、春日大社の春日祭・石清水八幡宮の石清水祭とともに三勅祭として厳粛に祭儀が斎行されることになり、祭日も古来旧暦四月中の酉日から、明治以降新暦の五月十五日と改められ、昭和の国内事情の激変により行列の中断をみるものの、昭和二十八年(1953)行列が復活、昭和三十一年(1956)には斎王に代わる斎王代を中心とする女人列も復興され、新緑の洛中に往時の壮麗なる行装が蘇った。
賀茂別雷神社(上賀茂神社)「勅祭賀茂祭」参照
【賀茂斎院の制】
宮中では古来、神への崇敬の念を表す行為のひとつとして、未婚の皇女を神の御杖代として差し遣わされる例があった。この皇女を「斎王」と称し、祭事に奉仕された。その例は最初に伊勢神宮に、次いで賀茂の大神に奉られたのみである。
賀茂においては弘仁元年(810)四月に嵯峨天皇の勅願により、伊勢にならって第八皇女有智子(うちこ)内親王が奉られたのが賀茂斎院の始めである。これを定められたことによて、伊勢を「斎宮」、賀茂を斎院として区別されるようになった。斎院は「さいいん」「いつきのみや」ともいい、嵯峨天皇以後ご即位のたびに卜定され、天皇陛下が譲位・崩御された際退化するのが習わしとされ、斎王が卜定されると参議以上の殿上人を勅使として差し遣わされて、賀茂両社に事の由を奉告される。次に御所内の一所を卜して初斎院といわれる居場所が設けられ、三年間日々潔斎し、毎月朔日には賀茂の大神を遥拝する生活を送られた。三年を経て四月上旬(旧暦)吉日に野宮(愛宕郡紫野に設けられたので「紫野院」ともいわれた。)の院に入られ、賀茂川にて御禊を行なった後、初めて祭事の奉仕が許された。この院は、現在の京都市上京区の「櫟谷七野神社」あたりの一画(約百五十米四方)にあったと推定され、斎王の寝殿や賀茂両社の神を祀る神殿等、事務等を担当する斎院司や蔵人所が置かれ、弘仁元年(810)から建暦二年(1212)のおおよそ400年間で、三十五代に及び仕えられてきた。
往時、賀茂祭当日斎王は御所車にて院を出御され、勅使以下諸役の行列と一条大路で合流。東行してまず下社へ、次いで上社へ参向し、上社にては本殿右座に着座され、祭事が執り行われた。その夜は御阿礼所前の神館(こうだて)に宿泊され、翌日野宮へ戻られた。後、宮中では使い等を召され、宴を賜って禄を下されるが、斎院においても同様の「還立(かえりだち)の儀」が行われていた。
連綿と奉仕されてきた斎院ではあったが、鎌倉時代初期の土御門天皇の御代に卜定された、後鳥羽天皇の第十一皇女禮子(いやこ)内親王を最後に絶えて、再び置かれることはなかったが、時を経て昭和三十一年(1956)、関係者・篤志者の尽力によって斎王に代わる「斎王代」を中心とする女人列が往時のように復活された。
それに伴い、往時賀茂祭の当日に先立つ午または羊の日に野宮の院より賀茂川の河原に赴かれて行われた「御禊」も復興することになった。この儀は現在五月上旬賀茂両社が毎年交互に、斎王代以下女人列御禊の儀として斎行するようになった。
賀茂祭(葵祭)
京都の賀茂別雷神社(上社)、賀茂御祖神社(下社)の例祭で、石清水八幡宮の祭が南祭というのに対して北祭ともいわれた。また古代、祭といえば賀茂祭を指した。
社伝によれば欽明朝、気候不順、天下凶作おため卜部伊吉若日子をして占わしめたところ、賀茂神のの祟とわかったので神託により、馬に鈴をかけ、人には猪頭を被せて馳せしめたのが祭の起りとであるという。
和銅四年(711)四月詔して以後毎年祭日には国司の検察を定められ、大同元年(806)四月、中酉日をもって官祭を始め、嵯峨天皇弘仁元年(810)斎院をおき、皇女有智子内親王を斎王として祭に奉仕させて以来、後鳥羽天皇に及び、歴代の内親王が斎王となる慣例であった。祭の始まる前の午または未の日、斎王の御禊が賀茂川で行われる。当日は斎王の行列はまず下社、ついで上社に向かうが、これに勅使や東宮・中宮などの御使も加わり、その服装・車など華麗を極めるので、貴賤を問わず観衆が雑踏する。行列の次第は『賀茂注進雑記』によれば、まず歩兵左右に各40人、騎兵左右に各六十人、郡司八人、健児左右各十人、検非違使十人、史生・さかん(目)・掾各一人、山城守(または介)一人、内蔵寮の官幣、中宮・東宮の御幣、宮主、東宮・中宮の走馬各二疋。馬寮の走馬左右各六疋。東宮の御使、中宮の使、馬寮の吏、近衛使、内蔵寮吏、司、中宮
の女蔵人、内蔵人、中宮の命婦、左右の衛門兵衛・近衛各二人、斎長官御輿駕籠丁前後二十人、御輿の長左右各五人。女孺(はしりわらわ)各十人、執物十人、腰輿、供膳の唐櫃三荷、雑器の物二荷、膳部六人、陰陽寮漏刻、騎女十二人、童女四人、院司二人、唐櫃十荷(神宝)、蔵人所陪従六人、御車、内侍車、女別当車、宣旨車、女房車、馬寮車の順であった。下社では宣命の奏上、御幣、ついで東遊・走馬が行われる。上社も同様である。翌日は還立(かえりだち)の儀がある。祭は応仁の乱ににより文亀二年(1502)より中絶し、元禄七年(1694)再興され、明治三年(1870)以降は旧儀が保てなくなったが、同十七年ようやく再興され、祭日は五月十五日に改められた。現在の行列は平安時代の装束を再現し、検非違使志・同尉・山城使・御幣櫃三合・内蔵寮史生二人・御馬寮使・舞人六人・勅使・陪従七人・内蔵使などの順で参加する。葵祭の名称は葵楓(あおいかずら)の蔦を勅使・斎王はじめ祭に参加するものが身につけ、その他の飾りに用いたところからきたのである。なお祭に先立ち四月の中午日に上賀茂社で行われるのが御阿礼神事、下賀茂社で行われるのが御蔭祭である。(現五月十二日)
【国史大辞典】