順次掲載予定
高野山では現在、南海電車で終点の極楽橋駅で下車をし、ケーブルカーで高野山駅まで登り、そこからバスで高野山内へと入っていく。その一番の入り口が不動坂口の女人道で、そこから坂をくだって山内に入っていく。
弘法大師の時代から明治初年に解禁されるまでの女人禁制で、ここまでしか女性は入ることができなかった。
この女人道で女性は籠り、高野山の周りの尾根をめぐりつつ弘法大師を拝した。源頼朝の正妻北条政子が頼朝はじめ三代将軍の菩提を弔うため山内に金剛三昧院を建立したのち、熊野詣に出かけたおり、頼朝の庶子貞暁に会うため町石道を登り、山麓の天野で会ったという(『高野春秋』の記載であるが確証はない)。しかし当時ときめく女性で、当時としては異例の従三位を贈られ「尼将軍」と権勢をほこった政子でさえ山内には入っていない。
じゃつて高野山の周囲の山をめぐり、弘法大師が入場する奥の院のみは間近に拝み、七つの女人道で休息したり、籠ったのである。現存する女人道は不動坂口の女人道のみである。
現在の高野山に公共交通で登るルートは、明治には極楽橋で終点になっていて、そこから男女ともに歩いて登った。その坂を不動坂といって今でも極楽橋より通じ女人道近くまで出てくる。歩きにくい人には牛に曳かれて登った。
戦前になっても女人道までで、そこから歩いた。
弘法大師は、修禅の修行の場、入定の場、真言密教興隆の根本道場として嵯峨天皇に請うて開創した。
ただそれだけが理由ではない。
空海の時代はまだ、国家による「僧尼令」によって、僧院に女人を入れることを禁じ、また尼寺は一切の男僧を入れることを禁じていた。弘仁三年(813)四月、嵯峨天皇も厳しく勅令で禁制している。
これは高野山に限ったことではない。比叡山や南都奈良、全国の寺院が対象である。
法門の聴講などといい、男女が多く出入りすると、いつの時代にあっても風紀が乱れてしまう。修行や学修の妨げになってします。
しかし多くの寺社でそれはいつの間にか厳守されることがなくなって、高野山など一部で粛清が保持されてきたのだ。
高野山で女人禁制が厳守されたのは、空海の遺告に厳密に従ったためである。
「それ女人はこれ万性の本、氏を弘め、門を継ぐものなり、しかれども仏弟子において親厚すれば、諸悪の根源、嗷々の本なり。故に女人に親近すべからず、僧房の内に入れ居らしむべからず、若し要言あって、諸家の使至らば、外戸に立てて速やかに返報してこれを帰らしめ、時尅を廻らすことを得ざれ、具に青竜寺の例に准ぜよ」
けっして空海は女人を卑しめているものでない。子孫の繁栄、家門の隆盛は女人あってのことで、聖人君子もみな母性の愛によって生育せられること、卑しむどころかむしろ尊敬しなければならない。
仏弟子である僧は、仏道に支障をきたすことになるのは確かで、女人に交わって同居することを禁じているのである。
止む得ない用事があって女人が訪れなければならない場合、戸外に待たせて用事に関する返書を能う限り速く渡して帰らせるようにせよと示されたが、これは京の都の東寺の住僧たちへの遺命で、高野山のことではない。
高野山の女人禁制は、天野丹生明神の託宣によるものと伝えられている。天皇からの勅旨もある。仏道修行者の妨げにならず優秀な僧の育成のため。それぞれが理由の一端であるのである。
空海は「もし信修することあれば、男女を論ぜず、皆これその人なり」と言って、けっして女性をおろそかにはしていない。
先に高野山を巡る女人道に女人道が各登山口に存在した。ただし、各女人道からは奥の院への小径があったといい、大師l。・御廟の近くまで参詣することもできた。
すなわち女人禁制というのは、山内の僧たちの堕落を防ぐものであったのである。
大師は自らこの禁制を実践し、遠く讃岐から八十余歳の母が訪れても山内に入れることなく、山麓九度山の慈尊院に招いたのである。
高野山は盆地にある。女人道はその盆地の周囲の峰を巡るもので、各女人お堂は高い場所に存在することから山内の各房を隔てるちょうどよいバランスが取れていたかと思う。
また、高野山のみならず、かつて霊山といわれてきた山は、現世の浄土という思想もあって厳かさを保ってきたであろうし、高野山は天下の霊場として、平安時代、上皇や皇族、貴族の参詣が相次いだのであろう。
そのような高野山で、弘法大師が入定されたのも「令法久住の山」ということで真言密教の興隆を願ったものであり、またその神聖さが大師信仰と高野山の浄土、納骨信仰の一端になっていたのである。
このように1,000年にわたって固く守られてきた女人禁制であるが、明治維新によって大きな転機となる。
明治5年(1872)、僧侶の特権が廃され僧位僧官の待遇もなくなり、僧侶の肉食・妻帯・蓄髪を自由として、苗字をつけることが命じられた。3月には高野・七里結界を解き、女人の登山参拝を自由にせよとの太政官布告が発せられた。
町家の商人や、各種の職人などは山の外に家庭を持っていたので歓迎していたに違いないが、本山当局は霊境護持の精神からまっこうから反対で、釈雲照律師などは、肉食・妻帯・女人開放の取消しを政府に陳情したが相手にされなかった。
翌6年には恐るおそるながら少しずつ女人が登山参拝しはじめる。
明治七年十一月町屋側申合せの「町内議定」十五条、(高野山平田永朝蔵)序文
「時明治六年春来当山女人参詣被致候付、住居之町家夫故混乱」(日野西真定「高野山の女人禁制に関する史料とその解説」『密教文化』115)
女人の登山参詣のために町屋内で女人止宿させることに混乱をきたしていることがわかる。
またこの頃、町屋の木炭問屋で最初の結婚式が山内結婚式を初めて行った。国元から妻を迎えたのだが、山内では解禁反対の運動に躍起になっていた頃で、非難だけでなく、石の雨を降らし、しまいには木炭の不売買同盟まで結成されるという大騒ぎとなったという。
そこで山内の町屋五組の代表が、今後の自粛を申し合わせることとなって、明治七年(1874)十一月に「高野山町民議定書」がつくられ、組長米阪四郎兵衛、惣代木村伊右衛門ら十四名連署して、本山の取締役であった協議所へ提出した。それによると、
一.家族や親類の女人の参詣の節は、その時日を組長に届出て、二日限りの滞在にする。
一.女旅人が通行のときは、雑言に当たるようなことをいわないこと。
一.殺生はもちろん、肉食あるいは不浄な品は決して取扱わないこと。
一.遊芸道具の三味線、太鼓、笛などの鳴り物類は一切使用したり聞いたりしないこと。
一.山麓廻りの芸͡妓などを夜中ひそかに雇って主演などをおこなうことを慎むこと。
このほかに、新規開業を希望する場合は、商店の種目はもちろん、身許など調べた上で五組が話し合った上、組長を経て協議所の許可あって出店し、悪徳商法のないよう注意警戒することなど取り決めていた。
その頃、山内寺院ではどうであったのだろう。
明治十二年、宗制の改革とともに山規改正が議せられて「一山成規改正案」が成り第三条に、
一.婦女は僧風をみだし、法命を断絶する紹介なれば末世の僧侶はこれを遠のけ決して寺内に止宿せしむべからず。また七歳以下の小児を寄留せしむべからず。
一.囲碁・音曲・賭博など僧徒不応為の作業を禁とす。
とあり、その他壇縁の婦女登山の際は、婦女の通部屋に参詣させ、貴顕の婦人でも性行為のないように注意することが規定された。
第四条には、監司兼整法係を金剛峯寺内に置いて、寺院はもとより町屋長屋にいたるまで女人を潜居させたり、肉類を販売したり食べる者があれば捜し出して教議所へ逐一報告させた。監司は山内の検察役人でもあったのである。
明治十三年(1880)一月には、山内七十一院が連署して「山内同盟規約条款」を制定して、山内女犯や肉食を禁じ、町屋でも妻女の住居、肉食するものは退去させることを定め、官の命令によるものや確証を持った婦女は、教議書へ届け出て、指揮を受けて取り扱うことが決められた。
明治十四年(1881)九月には、教議所名で、女人参籠所規則及び女人参籠規約の二つの規則が定められ、昼間だけ女人を寺院内で休息させることが認められた。
町民は寺の地所を借り、多くは寺の貸長屋に住み、僧侶のほかは山内に本籍をおくことはできなかった。婦女と七歳以下の男女児は寺院内に住することもできなかった。
しかしながら女人の登山参詣は年々増加し、女人参籠所を増設するしまつになり、山内僧侶は女人をまったく厄介扱いにして、その対策に頭を悩ませた。
寺院と接して女の住む家との間に「お小姓道」というのがあったということだが、これは僧侶の私生活を語る名残である。
明治十三年(1880)九月、寺院の下男が、南谷の女人参籠所に夜中忍び入った事件があって、被害者側の寺院から届書が出されて問題になったこともあった。
明治十四年(1881)七月九、十、十一の三日間、天保十四年焼失以来未建立であった大塔再建の起工式があった際、山岡鉄舟などの助言により、朝廷から金千円の下賜があり、皇太后、皇后からも二百円下賜され、その再建起工式が盛大に行われてた。近畿京阪はもとより、九州四国方面から登山参拝者が殺到して、道筋の旅籠やその他の店も未曽有の儲けがあって、山内の各寺院には一日八千、九千人を泊めて余地もなく、女人専門の参籠所狭すぎてなんの役にも立たず、町屋の部屋もフル回転して利用した。それでも収容しきれず、止む得ずこの法会の三日間に限って、寺院内に女人を宿泊させてもよいかという、本山の長者に嘆願するにおよび、「事情やむべからず」と特別許可を与えて、各寺院に宿泊させて野宿にならずにすんだという。
その起工式の法会を祝って撒いた祝餅は三十石、散銭は数十円で、数千、数万の群衆老若が争って拾おうとして六十余歳の老人が死に、数人の怪我人も出たという記事が「同善新聞」というものに載っている。これが公然と女人を寺院内に宿泊させた始まりで、この法会をきっかけとしてついに、千余年の女人禁制の禁が破られることになった。この後、起工式は行われたものの、この時大塔の再建にはいたらなかった。
明治十七年(1884)四月には弘法大師千五十年の遠忌大法会が執行された。
明治十九年(1886)に、大学林と中学林が設置された。これが現在の高野山大学と高野山高等学校の前身で、中学林に町家の子弟がようやく入学できるようになったのは、大正八年(1919)からで、高野生まれの子供の数は、女人制限のため増加するようになるのはずっとあとであった。
明治二十年(1887)頃になると、日が暮れるのを待って、取り締まりの目を盗んでひそかに登山し、町家などに隠れ住む女性も現れはじめた。官有林の払い下げによる労務者や従業員が山内に居住する者も多くなるにつれ、自然に女性の居住も増えてくる。
明治二十六年(1893)に本山は、請願巡査の特派を出願して許可になり、明治三十二年(1899)まで山内警備の駐在が続いた。
請願巡査は、山内の風紀取締りの本山お抱えで、特に婦女子の取締りに当った。月に1~2日は特に「女狩りの日」といって、町内を隈なく廻って歩き、婦女子が隠れていると思われる町家には、土足のまま二階までもあがって調べるなど、今では想像もできない厳しさであった。
「女狩り」が始まると伝わると、婦女子は畠中、山中、屋内の押入れなどに潜んだ。寺院に婦女子を雇うことができなかったので、昔から煮炊きや針仕事をする商売をするものが昔から多くあったのだ。「はしんじゃ」(把針者)「はり福」「はり松」というのがそれである。
山外部落からも、山仕事をする姿をした手伝い女が、寺院にひそかに入って働いていたこともあり、いざという場合のために、寺の炊事場の下などに多くの隠れ場所がつくられてたともいわれる。卵を「白なすび」、雑魚を「折れ釘」といって売りに来ていたのも頃のようである。
山内の町屋居住の女人は、 当時は一切戸外に出たり、表通りに出ることをせず、一室に閉じこもったままであった。女が居住しているとわかったら、山内の噂の種になった。だから「女狩りの日」などには、早朝から弁当持ちで、日の暮れるまで、付近の山に出かけて蕨を採ったり、薪木を探したり、山の中に一日隠れ住むということが真剣に行われた。
山内町家に隠れ住んだ女児は、筒袖の着物に兵児帯をしめて、男装である。または女衆は着物を短く着て、縄を腰にからげ、わらじばきで手拭いで頬被りして、いかにも山下の部落から物売りに来たという風で、ぬけぬけと炊事などを手伝っていたという。時には参詣人の風をよそおっていたともいう。
町家同様に、寺院内にも住職の内妻も隠し住まわせるようになっていった。
公然に町家にも、寺院にも女性の入山居住が認められるようになったのは、明治三十七、八年の日露戦争の頃で、出役兵士留守宅を守るといって登山居住を婦女子が現れだして、やむなく金剛峯寺座主このように1,000年にわたって固く守られてきた女人禁制であるが、明治維新によって大きな転機となる。
明治5年(1872)、僧侶の特権が廃され僧位僧官の待遇もなくなり、僧侶の肉食・妻帯・蓄髪を自由として、苗字をつけることが命じられた。3月には高野・七里結界を解き、女人の登山参拝を自由にせよとの太政官布告が発せられた。
町家の商人や、各種の職人などは山の外に家庭を持っていたので歓迎していたに違いないが、本山当局は霊境護持の精神からまっこうから反対で、釈雲照律師などは、肉食・妻帯・女人開放の取消しを政府に陳情したが相手にされなかった。
翌6年には恐るおそるながら少しずつ女人が登山参拝しはじめる。
明治七年十一月町屋側申合せの「町内議定」十五条、(高野山平田永朝蔵)序文
「時明治六年春来当山女人参詣被致候付、住居之町家夫故混乱」(日野西真定「高野山の女人禁制に関する史料とその解説」『密教文化』115)
女人の登山参詣のために町屋内で女人止宿させることに混乱をきたしていることがわかる。
またこの頃、町屋の木炭問屋で最初の結婚式が山内結婚式を初めて行った。国元から妻を迎えたのだが、山内では解禁反対の運動に躍起になっていた頃で、非難だけでなく、石の雨を降らし、しまいには木炭の不売買同盟まで結成されるという大騒ぎとなったという。
そこで山内の町屋五組の代表が、今後の自粛を申し合わせることとなって、明治七年(1874)十一月に「高野山町民議定書」がつくられ、組長米阪四郎兵衛、惣代木村伊右衛門ら十四名連署して、本山の取締役であった協議所へ提出した。それによると、
一.家族や親類の女人の参詣の節は、その時日を組長に届出て、二日限りの滞在にする。
一.女旅人が通行のときは、雑言に当たるようなことをいわないこと。
一.殺生はもちろん、肉食あるいは不浄な品は決して取扱わないこと。
一.遊芸道具の三味線、太鼓、笛などの鳴り物類は一切使用したり聞いたりしないこと。
一.山麓廻りの芸͡妓などを夜中ひそかに雇って主演などをおこなうことを慎むこと。
このほかに、新規開業を希望する場合は、商店の種目はもちろん、身許など調べた上で五組が話し合った上、組長を経て協議所の許可あって出店し、悪徳商法のないよう注意警戒することなど取り決めていた。
その頃、山内寺院ではどうであったのだろう。
明治十二年、宗制の改革とともに山規改正が議せられて「一山成規改正案」が成り第三条に、
一.婦女は僧風をみだし、法命を断絶する紹介なれば末世の僧侶はこれを遠のけ決して寺内に止宿せしむべからず。また七歳以下の小児を寄留せしむべからず。
一.囲碁・音曲・賭博など僧徒不応為の作業を禁とす。
とあり、その他壇縁の婦女登山の際は、婦女の通部屋に参詣させ、貴顕の婦人でも性行為のないように注意することが規定された。
第四条には、監司兼整法係を金剛峯寺内に置いて、寺院はもとより町屋長屋にいたるまで女人を潜居させたり、肉類を販売したり食べる者があれば捜し出して教議所へ逐一報告させた。監司は山内の検察役人でもあったのである。
明治十三年(1880)一月には、山内七十一院が連署して「山内同盟規約条款」を制定して、山内女犯や肉食を禁じ、町屋でも妻女の住居、肉食するものは退去させることを定め、官の命令によるものや確証を持った婦女は、教議書へ届け出て、指揮を受けて取り扱うことが決められた。
明治十四年(1881)九月には、教議所名で、女人参籠所規則及び女人参籠規約の二つの規則が定められ、昼間だけ女人を寺院内で休息させることが認められた。
町民は寺の地所を借り、多くは寺の貸長屋に住み、僧侶のほかは山内に本籍をおくことはできなかった。婦女と七歳以下の男女児は寺院内に住することもできなかった。
しかしながら女人の登山参詣は年々増加し、女人参籠所を増設するしまつになり、山内僧侶は女人をまったく厄介扱いにして、その対策に頭を悩ませた。
寺院と接して女の住む家との間に「お小姓道」というのがあったということだが、これは僧侶の私生活を語る名残である。
明治十三年(1880)九月、寺院の下男が、南谷の女人参籠所に夜中忍び入った事件があって、被害者側の寺院から届書が出されて問題になったこともあった。
明治十四年(1881)七月九、十、十一の三日間、天保十四年焼失以来未建立であった大塔再建の起工式があった際、山岡鉄舟などの助言により、朝廷から金千円の下賜があり、皇太后、皇后からも二百円下賜され、その再建起工式が盛大に行われてた。近畿京阪はもとより、九州四国方面から登山参拝者が殺到して、道筋の旅籠やその他の店も未曽有の儲けがあって、山内の各寺院には一日八千、九千人を泊めて余地もなく、女人専門の参籠所狭すぎてなんの役にも立たず、町屋の部屋もフル回転して利用した。それでも収容しきれず、止む得ずこの法会の三日間に限って、寺院内に女人を宿泊させてもよいかという、本山の長者に嘆願するにおよび、「事情やむべからず」と特別許可を与えて、各寺院に宿泊させて野宿にならずにすんだという。
その起工式の法会を祝って撒いた祝餅は三十石、散銭は数十円で、数千、数万の群衆老若が争って拾おうとして六十余歳の老人が死に、数人の怪我人も出たという記事が「同善新聞」というものに載っている。これが公然と女人を寺院内に宿泊させた始まりで、この法会をきっかけとしてついに、千余年の女人禁制の禁が破られることになった。この後、起工式は行われたものの、この時大塔の再建にはいたらなかった。
明治十七年(1884)四月には弘法大師千五十年の遠忌大法会が執行された。
明治十九年(1886)に、大学林と中学林が設置された。これが現在の高野山大学と高野山高等学校の前身で、中学林に町家の子弟がようやく入学できるようになったのは、大正八年(1919)からで、高野生まれの子供の数は、女人制限のため増加するようになるのはずっとあとであった。
明治二十年(1887)頃になると、日が暮れるのを待って、取り締まりの目を盗んでひそかに登山し、町家などに隠れ住む女性も現れはじめた。官有林の払い下げによる労務者や従業員が山内に居住する者も多くなるにつれ、自然に女性の居住も増えてくる。
明治二十六年(1893)に本山は、請願巡査の特派を出願して許可になり、明治三十二年(1899)まで山内警備の駐在が続いた。
請願巡査は、山内の風紀取締りの本山お抱えで、特に婦女子の取締りに当った。月に1~2日は特に「女狩りの日」といって、町内を隈なく廻って歩き、婦女子が隠れていると思われる町家には、土足のまま二階までもあがって調べるなど、今では想像もできない厳しさであった。
「女狩り」が始まると伝わると、婦女子は畠中、山中、屋内の押入れなどに潜んだ。寺院に婦女子を雇うことができなかったので、昔から煮炊きや針仕事をする商売をするものが昔から多くあったのだ。「はしんじゃ」(把針者)「はり福」「はり松」というのがそれである。
山外部落からも、山仕事をする姿をした手伝い女が、寺院にひそかに入って働いていたこともあり、いざという場合のために、寺の炊事場の下などに多くの隠れ場所がつくられてたともいわれる。卵を「白なすび」、雑魚を「折れ釘」といって売りに来ていたのも頃のようである。
山内の町屋居住の女人は、 当時は一切戸外に出たり、表通りに出ることをせず、一室に閉じこもったままであった。女が居住しているとわかったら、山内の噂の種になった。だから「女狩りの日」などには、早朝から弁当持ちで、日の暮れるまで、付近の山に出かけて蕨を採ったり、薪木を探したり、山の中に一日隠れ住むということが真剣に行われた。
山内町家に隠れ住んだ女児は、筒袖の着物に兵児帯をしめて、男装である。または女衆は着物を短く着て、縄を腰にからげ、わらじばきで手拭いで頬被りして、いかにも山下の部落から物売りに来たという風で、ぬけぬけと炊事などを手伝っていたという。時には参詣人の風をよそおっていたともいう。
町家同様に、寺院内にも住職の内妻も隠し住まわせるようになっていった。
公然に町家にも、寺院にも女性の入山居住が認められるようになったのは、明治三十七、八年の日露戦争の頃で、出役兵士留守宅を守るといって登山居住を婦女子が現れだして、やむなく金剛峯寺座主宥範が、臨時措置として山令を下して、女人入住が公式に認められ、今日に至ったわけで、女人禁制の治外法権が、これで完全に消滅したのである。
明治三十九年(1906)六月十五日、開宗一千百年記念大法会を記念して、結界の残部のこらず解除され、十二月二十八日には市立小学校を設置して、山内出生児のために便をはかり、明治四十二年第一回の卒業生が六名であった。それまでは小学校設置反対が山内住侶からあったため、山内居住の子どもは、六キロもある奥の院の裏手に当たる摩尼部落の高根小学校に、山坂越えて通学していたのである。
山内住侶の一人(藤本真光師)が公然と大師教会で結婚式をあげたのは大正十五年(1926)であった。結婚式にご法楽として「般若心経」をまずおとなえしたところ、お手伝いの女衆が、思わず吹きだしたというエピソードも残っている。
これによって山内僧侶、住職の妻帯も、完全に公然化し、一般化するにいたり、内妻を披露したり、山外から妻を娶ったり、呼び寄せるようになった。
こうして、山内も山外も、真言宗寺院の世襲制が固定化し、寺族夫人の地位の重要性も加わってくることになってきたのである。
《資料》
【大峰山の女人禁制】
女人禁制の大峰山で女性ら3人が登山強行
2005年11月04日 朝日新聞
女人禁制が1300年続く修験道の聖地、奈良県天川村の大峰山への登山を目指すと公表していた性同一性障害を持つ人ら35人のグループが3日、現地を訪れた。女性の立ち入りを禁じる結界門(けっかいもん)の手前で地元住民約100人と議論した結果、改めて話し合いの場を設けることで合意して解散したが、その後にメンバーの女性3人が登山を強行した。
住民側が結界門で待ち構える中、午前9時50分ごろにグループが到着。地元・洞川(どろがわ)地区の桝谷源逸(げんいち)区長(59)は「先人から受け継いだ伝統や生活がある。地元の心情を理解してほしい」と登山中止を求めた。グループ側はグループ側は今後も話し合いを続けてほしいと要望した。しかし、午後0時半ごろ、3人が結界門をくぐって山に入った。その1人は「問題提起をしたかった」と説明した。
大峰山登山口にらみ合い 団体と地元 女人禁制議論物別れ
2005年11月04日 読売新聞奈良版
修験道行場で知られる天川村の大峰山の「女人禁制」撤廃を求めて、登山を計画していた女性らの市民グループ「大峰山に登ろう実行委員会」のメンバー約30人が3日、登山口に到着、女性の入山を拒む地元住民らと話し合ったが、議論は物別れに終わった。メンバーの大半は登山を断念したが、数人が登山を決行。地元側も制止しなかったため、混乱はなかった。
同会のメンバーはこの日朝、大峯山寺への参道に当たる同村洞川の結界門に集合、登山を始めようとしたが、事前に計画を知っていた地元の住人ら約50人が、「山の伝統を説明したい」と参道をふさぎ、登山を取りやめるよう説得に当たった。
住民側は「我々は山の伝統を守らなければならず、心情をわかってほしい」と理解を求め、地元に住む女性も「お願いです。登らないでください」と訴えた。
これに対し、グループ側は「性転換者はどうなるのか」「女人禁制についての思いを聞きたい」などと質問を続けたが、話し合いは平行線のまま。住民側が「聞き入れてくれない人の入山は拒まない」と引き上げたため、グループ側も「今後も話し合いを継続する」として納得、数人が結界門から入山したが、ほとんどはその場で散策した。
地元・洞川区の桝谷源逸区長は「我々の立場、心情を理解していただけたものと思っている。数人が山に入られたのは非常に残念」と複雑な表情だった。