論文 南山末資 佐伯浩道
現在、未完ご容赦ください。(現在加筆中)
来訪神についての事例を入れていく予定です。
本論は五来重先生の「講義ノート」を基に展開しています。
【節分の一般的概念】(序)
2月3日(年によって4日)の節分に豆を撒く。
寺社でも、その年の干支生まれの年男たちが集まった。
当初は集まって籠って身を清めたであろう。
人々を前に豆まきをしたりする。
節分とは、立春、立夏、立秋、立冬など季節の改まる前日のことをよんだが、しだいに立春の前日だけを節分と指すようになる。この節分より暦の上では春になるのである。
古代中国では大晦日に鬼や疫病などを打ち払うため、鬼の面をかぶった人を桃の木で作った弓矢で射って追い払う追儺という行事があった。(四つ目の " 方相氏 " )
これが奈良時代に伝わって平安時代には宮中で大晦日の行事としてさかんに行われるようになった。
ただ宮中の鬼と、民間の鬼は性格が違う。
ヒイラギの枝にイワシの頭を刺して家の門にかかげる節分特有の飾り。
ヒイラギは毒草でトゲがあり、またイワシは生臭物であったため魔除けの効果があると信じられた。
豆まきの行事が定着したのは室町時代中期以降のことで、江戸時代になると現在のような豆まきの行事が一般庶民の間にも広まった。本来は大晦日の行事だったが、旧暦では新年に春が始まるため、立春前夜の節分の行事に変わっていったということである。
ちなみに「鬼は外 福は内」と大声で豆をまくのは、季節の変わり目は、鬼などの妖怪や悪霊が跋扈して集まり、疫病や災いをもたらすと考えられていたため。豆をまくことによって自分の家から鬼を打ち払おうとするものである。
炒った豆は福豆と呼ばれ、その豆をまき、自分の年齢の数だけ(あるいは年齢の数プラス一個という地域もある)食べることで邪鬼を追い払い、病に勝つ力がつくと考えられた。
また「豆を打つ」ではなく「豆をまく」というのは農作業で畑に豆を撒く仕草を表していて、農民たちの豊作を願う気持ちが込められているともいう。
※節分、豆、鬼は切っても切れないものであるが、今、家々では豆をまく声が聞かれなくなってきた。家の中を汚すからという。今ではすっかり誤解して受け取られていて、まったくの馬鹿げたお祭りのようになってしまったのはとても悲しいことで、日本人のアイデンティティが失われていくことを危惧するなかで、節分や鬼について考察することで考え直してみたい。
鬼
鬼とは何なんだろう。
テレビを見てていて、ある女性タレントが「桃太郎は鬼をやっつけにいく話で、そんな乱暴なお話は子供にできない」というようなことを言われていた。
少し、それは違うのではないかとその際違和感を持った。しかし、世間の多くは似たり寄ったりの解釈なのではないだろうか。しかし、なにも悪者だけの鬼とは限らず、本来の多くの日本人のもった古来の鬼の観念も再考してみないといけないと思う。
まだまだ史料を紐といいていないので、学説として発表するには憚れるので、覚書としての面として書き記しておきたい。
鬼と国語辞典などで引いてみると次のようになる。
①想像上の恐ろしい怪物。人間の姿をし、頭に角をはやし、牙があり、虎の褌をしている。力が強く乱暴を働くものとされる。
(例)来年のことを言うと鬼が笑う。赤鬼
② 残酷で血も涙もないもの。
(例)心を鬼にして叱りつける。
③ 他をかえりみずに一つのことに熱中するする人。
(例)仕事の鬼
④ 死んだ人の意。鬼籍。
出典【明鏡国語辞典】
ほか
・鬼ごっこの鬼…人を捕まえる役の人
・厳しくて恐れられるの意。「鬼軍曹」「鬼コーチ」「鬼のような監督」等
・形が大きい。または異形である。「鬼あざみ」「鬼百合」「鬼やんま」
おおよそこんなところが世間的な認知ではないだろうか。
【民間信仰としての鬼の概念】
鬼について古来よりの民俗信仰に、仏教や陰陽道、国家神道など様々な影響をしあっていることはいなめない。
頭に角をはやし、裸で虎の皮の褌などつけて「鬼の金棒」の金棒を持っている。このような異形は日本でできたものではない。仏教とともにもたらされた鬼なのである。
仏教伝来の鬼はどうだろう。
サンスクリット語で鬼は preta という。餓鬼という意味である。
「古代インドでは死んでのち供養されないものはプレータになると考えられた。そして『餓鬼事経』の成立をみる。
大乗仏教において、(六道の中の)餓鬼道である。
餓鬼のほか、ヤクシャ(夜叉)、ラークシャサ(羅刹)などの凶暴な精霊をすべて鬼と称している。また地獄の獄卒をも鬼とする。」
中村元『新仏教辞典』
お盆の起源なので、また別項で述べていきたいと思う。
釈迦の十大弟子、多聞第一といわれた阿難尊者瞑想していると、焔口(えんく)という餓鬼が現れた。痩せ衰え
このように怖い鬼は仏教の影響が大きい。
では別の面からみた鬼はどうだろう。
「鬼も十八、番茶も出花」(器量のある人も年頃になるとみな美しくみえる)
「鬼の目にも涙」(冷酷で無慈悲な人でも、時には慈悲の心をもって涙を流すこともある)
「鬼の念仏」(鬼が法衣を着て、鉦と撞木を持つ姿)
など殊勝な鬼である。
先に「桃太郎」の話が出たが、昔話の中に出てくる鬼たちは、案外お人好しで騙されやすく、踊りが好きな鬼である。
「こぶとり爺さん」などではこぶをとってくれるし、「一寸法師」や「桃太郎」では金銀財宝をもたらしてくれ、行いの悪いものにだけ罰が当たっている。
「節分」について
2月3日(年によって4日)の節分に豆をまく。
寺社でもその年の干支生まれの年男たちが、集まった人々を前にして豆まきをしたりする。
節分とは、立春、立夏、立秋、立冬など季節の改まる前日のことをいうが、次第に立春の前日だけを節分と指すようになった。この節分の日から春になる。
【京都の節分】
京都の節分では、壬生寺、吉田神社、蘆山寺を巡り厄を落とす。
壬生寺では節分に終日狂言堂で、狂言「節分」が、鉦の音に合わせて無言で演じられる。
『節分』の内容
節分の夜に一人暮らしの後家さんの家に鬼が忍び込むところから始まる。
後家さんは、サービスして酒を飲ませて鬼を酔い潰し、打ち出の小づちと隠れ蓑を取り上げてしまう。そのあげく豆を打って鬼を追い出してしまうという筋である。
間抜けた鬼がきりきり舞いをしながら、豆に追われて花道をさがると鉦がまた追いかけるように急調子に鳴り出して、人々は笑いながら溜飲をさげる。
吉田神社では、大舎人が黄金四ツ目の面をつけ、玄衣朱裳に戈鉾を持った方相氏が侲子という小童を多数従え、陰陽師が祭文を奏し終えれば、方相氏が大声で三度盾を打ち、赤鬼青鬼らを追いかけ舞台をめぐる。最後に殿上人が桃弓デ葦矢ヲ放ち、疫鬼を追い払う。
(しかし平安時代には方相氏の追儺は行われていたが鬼を追うことはなかった。)
吉田神社の追儺は室町時代から続くという。
蘆山寺
太鼓と法螺貝の音を合図に松明と宝剣を持った赤鬼、大斧を持った青鬼、大槌を持った黒鬼が大師堂前の特設舞台に出現する。足拍子をとりながら、堂内に入る。堂内では厄除け開運、福寿増長の護摩供の修法が執り行われ、そのまわりを三鬼が踊りながら修法の妨げをするが、護摩供の秘法、追儺師の邪鬼払いの法弓、そして蓬菜師、福娘によってまかれる蓬菜豆及び福餅の威力によって追われて門外へ逃げ去る。
元三大師が鬼を退治したという『独鈷・三鈷』、大師が宮中で使用したという『降魔面』がこの日限り開帳される。
「節分の鬼」は善悪の両面がある。
通常はヒイラギを戸口にさして、これを「鬼の目突き」という。鰯は匂いが強い青魚から悪霊を寄せつけない。
豆は「鬼打豆」で「鬼は外」と追い払う。
しかし「鬼は内!福は内!」と鬼を招き入れる家もある。
「福は内」の家について
「福は内」と招き入れる家は、多く由緒のある家や村で、鬼の子孫という伝承をもっている。
〇役行者のお供の前鬼、後鬼の子孫
奈良県上北村・前鬼
奈良県天河村洞川・後鬼
〇鳥羽城主(のち三田城主)の九鬼氏
〇和歌山県粉河町中津川の村 等々
ひろっていくと全国で鬼の子孫という村の伝承は意外と多い。
京都洛北の八瀬の村では、盆の先祖を祀るのに「鬼の洞念仏」をした。これは江戸期の俳諧の季題にもなっている。伝承では比叡山との山論の訴訟に鬼の子孫、八瀬童子ということで勝ったという。
中世の恐い鬼のイメージについて
『今昔物語』ではインド南方海中の羅刹鬼が鬼に当たられた例の説話。
『日本霊異記』では地獄の牛頭鬼・馬頭鬼に当てられた例の説話などがある。
しかし日本古来の鬼は、実は祖霊を形象化したものがあきらかである。
怠ける子孫を懲らしめたり、子供に害をなす悪者を追い払って守護をする鬼である。
代表的なものは、大晦日や節分などの節目に男鹿のなまはげや見島のカセドリなど、国指定重要無形民俗文化財に登録され、「来訪神:仮面・仮装の神々」で2018年、国際教育科学文化機関(ユネスコ)の無形文化財遺産に登録された来訪神は、子孫に福をもってきて、また戒めたりする典型的な日本の鬼を表している。
平安時代の節分は、必ずしも「鬼の目突き」「鬼打豆」といわない。
「元日・・・今日は都のみぞ思ひやらるる。九重の門のしりくべ縄、なよしの頭、ひひらぎなどいかにぞと言い合へる」
紀貫之『土佐日記』
(今日は都ばかり思われて仕方がない。小さな門のしめ縄のボラの頭、柊などはどうなのだろううと言いあった)
都でもそんなように、昔は正月や節分には鬼の踊りがあってなかなか人気であった。
(今、古寺古刹に残る修正会、修二会の鬼踊りにその名残が残っている。後述)
鬼踊りは、古く呪師の「鬼の手」「鬼走り」ともよばれる。これをともなう修正会・修二会は「鬼会」「鬼祭」などと呼ばれ残っている。
ただ残念なことだが、元来の意味を忘れ、世間の常識の真似をして来迎した不見識なものも多い。
法隆寺の鬼追い式は、「悔過」(仏教人にて本尊悔過法がおこなわれる)ののち修二会の結願にご法楽として、西円堂の基壇上で黒鬼、青鬼、赤鬼がそれぞれの所作を行い、松明を投げ、その後に毘沙門天が現れて鬼を追い払う。しかし松明は清浄な火であり、鬼も追い回されていなかった。
「正月十四日戌申、神宮寺修正、三箇日を経たり。今日結願、鬼走り」
『吾妻鏡』承元三年の条(1209)
修正会(しゅしょうえ)・修二会(しゅしえ)とは。
正月に修する法会である。二月に行われるのが修二会。
年頭に当たって国家安穏、宗内安全を修する。
奈良時代より始まっている。
天長4年(827)、東寺、西寺に四十九僧を講じて一七日間薬師法悔過を修してから恒例となる。
東寺 1~7日 食堂 8日 金堂 9日 御塔 10日 二王堂 28日 講堂
高野山 1~7日 金堂 3日 大塔 5日 西塔 12日 蓮華乗院 14日 天野宮で厳修
「鬼の手」「鬼走り」などの鬼踊りをともなうものが平安時代末期より始まっているのが確認できる。真言、天台、法相、華厳の各宗に多くみえる。
今の多くは鬼追い、追儺とよばれ、鬼が人に追われて逃げる演出である。しかし子細に観察してみると”鬼様”などといって神聖視され、優遇されていたりする。
廃仏毀釈によって、神社の鬼の多くは変貌していったが、このような古寺名刹の仏教行事が、神聖なる鬼、感謝される鬼、愛すべき鬼を残しておいてくれたがゆえに日本仏教の民族性や宗教観念、そして日本芸能の淵源があきらかにすることが可能になるのである。
「祭」にみる鬼は悪鬼、悪神でなく、強大な力を持つ鬼神である。
〇大地を踏み鎮めて天地四方の悪霊を払う。厄払いの意味が根底にこめられている。
〇宝物の杖を譲り、与えて村を祝福する。
一つの祭りの中に、祝福的性格と除災的性格が混然一体となっている。
悪霊の化身としての悪霊を払う、厄払いの意味が根底にこめられている。
修正会や花祭りに登場する鬼は決して悪霊の化身のような存在でない。1年間の災厄すべてを除去してくれ、幸運をもたらすことを約束してくれる存在である。
《走る》
鬼が走る、鬼走り。この走るというのは、舞楽の用語で活発に舞うこと。
鬼になるものは、一種の特権をもった家を家筋に限られ、精進潔斎をしなければならなかったが、今は年男や近在の者が志願したり、指名される。
そして鬼が身につけた紙縒(こよ)りでさえも頭痛の呪や様々な恩恵になるといって尊重するほど神聖化される。
【神戸の鬼】
[勝福寺] 神戸市須磨区
勝福寺は高野山真言宗の名刹寺院で、正月七日に鬼追い式が行われる。
鬼追いとは言われるが、実際には鬼踊りである。
赤・青・白・黒の四鬼と子鬼四鬼が天狗(ハナタカ又は猿田彦ともいう)とともに本堂の縁(現在は本堂跡の舞台)で、太鼓と法螺の拍子にあわせて踊る。
※踊りの中で鼻高天狗が鬼を追うような形だが、これは追うというより、手にしたホコで鬼のフグリをお愛嬌に突く程度で一種のモドキである。
※播州から神戸一円の鬼踊りに出る鬼は、さらし木綿一反をまるめた大きなフグリ(陰嚢)を全員が股間にさげるが、これは日本の鬼を考えるうえで大切なものになる。
勝福寺の鬼は、舞台で五回踊ると、最後に赤鬼と白鬼が滑稽な身振りで餅割りの式を行い、重ねた餅を斧で打つ。
この割られた餅は風邪薬のご利益があるといって檀信徒はいただいて帰り、一年間保有した。
また赤鬼の持つ松明の燃えさしも厄除け・魔除けになるといい、行事が終わると取り合って帰宅し、各家の戸口に吊るしておいたという。
また勝福寺の庭に注連縄は張って、その中で大きな焚火(とんど)を焚き上げ、この火にあたれば風邪をひかないといわれている。
[妙法寺] 神戸市須磨区
高野山真言宗の毘沙門山妙法寺。その山号のとおり毘沙門天が本尊である。一月三日に行われる。
鬼は太郎鬼、次郎鬼、ババ鬼(白鬼ともいい、またババ鬼は槍持ち・シリクジキ・クジリ鬼ともいう)。そしてジカ鬼5人(黒鬼)、子鬼二人である。ジカ鬼で一人離れて先頭を行く鬼は一人旅、一番太郎という。
鬼役は、白鬼は白っぽい麻の衣装、黒鬼は黒っぽい麻の衣装で褌と襷をする。褌の下方に藁をつめてフグリ(陰嚢)としている。藤蔓で体を縛り、衣装と同色の頬被りをして面をつける。
刀は左腰に、太郎鬼は右手に斧、次郎鬼は右手に槌と松明を持ち、ババ鬼は松明を持たず槍だけを持つ。ジカ鬼は松明のみで、左手でかぶっている面を持つ。子鬼は花笠をかぶって面はつけない。
鬼役は準備が整うと本堂で鬼面を受け取り、また松明は本堂の燈明の火を本堂東の焚火に移し、踊り終わるとふたたび焚火の場所に戻ってくる。
5回踊ってジカ鬼と子鬼は本堂の縁中央で餅を割る太郎鬼を待ち、本堂で供えられていた「鬼の餅」と言われる餅を割る。この所作の最後に太郎鬼は、子鬼の頭上に餅を年下の子鬼の頭に乗せ、子鬼は転ぶ。そして鬼全員が出て、餅まきが行われる。
これが修正会のものとして、鬼踊りの前に本堂で牛王杖を持って行道し、牛王杖を参詣人に渡す。30㎝程度の櫨の木の先に牛王宝印を押したお札で「福の棒」といい、苗代田に挿したりする。
松明の燃え残りを持ち帰り、子供に見せると夜泣きが治るとも、鬼が胸に巻いていた藤蔓の帯を腹に当てると安産に、鬼役を勤めたものは体が丈夫になるという。
妙法寺の鬼の面は、かなり古い型を残したものが多く、室町時代の作で角がない。
本堂の縁でピョンピョン飛びながら踊るのは、吉野山蔵王堂の花会式の踊りのように古い形を残している。
[性海寺] 神戸市西区押部谷
真言宗。正月十四日、修正会鬼追い。
本堂の飾りに造花を作るのが大きな特徴。
造花型修正会の混在した鬼踊り。
[太山寺] 神戸市西区伊川谷
本堂(国宝)内陣に大きな椎の木などを切って立て、「山かざり」の奥から、松明を持った鬼が現れて外陣に出て十二回踊る。鬼が山から人里に出て踊り、やがて山へ帰る。走り鬼といわれるのは、太郎鬼(笑鬼)、次郎鬼(泣鬼)、婆々鬼(怒鬼)の三鬼。
[近江寺(きんこうじ)] 神戸市押部谷
赤鬼・青鬼が主役で、前後7回鬼の踊りをする。これに「走り」と呼ぶ鬼が出てきて、おどけた仕草で次の踊りを紹介する。最後に桜の造花を持って「花の踊り」を舞う。
他に子鬼が何人か出る。子鬼は面をつけずに頭巾をかぶり、紅白の棒を持つ。
祭りの後、厄除けに牛王印を3回つけてもらう。
鬼追いに集まる参詣人は鬼の振りかざす松明の火の色を見て作物の出来具合を占うという。
※鬼の正体を考えるうえで極めて重要な意味を持っている。鬼踊りと農耕行事が結びついた予祝行事である。
太山寺では、シイの木を山の境に見立て、鬼は山から下りて、再び山へ帰る。
年神・祖霊が山から下りてくる、災厄を祓う鬼であって、怖い鬼ではなく、それが仏教と結びついたのである。
福崎町 神積寺
[長田神社] 神戸市長田区
修正会型の鬼踊りの追儺。
(近頃の神社はたいてい陰陽師系統の鬼で、京都吉田神社の追儺のように方相氏が鬼を追う形が多いが長田神社は追う鬼ではない)
長田神社は、本殿裏の鬼蔵から出て、本道の前にしつられた舞台に踊る。神仏習合時代には境内の薬師堂で踊ったものであり、ゆえに仏式なのである。
追儺式の前に鬼役は、当家(鬼宿とも)で練習をし、また囃子方・警護は太鼓や法螺を吹くが、別に鬼の持つ松明や鬼が暖をとるための鬼火を守る。
当日朝、水垢離を取った後、須磨海岸に出向き、5度海に入り水垢離する。白浜で白褌姿で、松明に見立てた藁で舞を舞う。太刀役の子供たちは、海藻と海水を持ち帰って風呂に入れて身を浸し、禊としている。
神社へ戻ると近隣の福聚寺の薬師堂(かつての薬師堂本尊)へ参拝して、鬼役と太刀役はここで対面し、太刀合わせの儀式を行う。鬼役は再び神社に戻り、33度水垢離する。
その後再び鬼宿へ戻り、葉付桃の紋付羽織をつけ、鬼役は鬼のフグリになる白木綿を頭上に丸め頬被りして神社に練りこむ。
木綿二反を丸めたふぐり(陰嚢)を頭の上に乗せてくるこれは「鬼のキンタマ」とよばれ「たからもの」だから大切にするのだというのである。
※鬼ふぐり・・・神聖視される、子孫繁栄の意味が籠っていると思う。
五来重先生は、キンタマ(金玉)の名の起こりで、祖霊のもたらす宝物にあることを鬼が教えてくれる。
本殿でお祓いを受けた後、鬼は鬼室に入り、ここで装束を改める。
鬼は松明の炎で様々な災いを焼き払い、剣で寄り来る不吉を切り倒し、天地を祓って清め、人々の無病息災を祈る。
法螺貝と太鼓の合図でまず出てくるのが一番太郎鬼で、続いて出る鬼は、赤鬼、姥鬼、呆助鬼、青鬼である。その後出る「餅割鬼」「尻くじり鬼」は大役と言われる。
数度桟敷を舞った鬼は一匹ずつ太刀役から刀を受け取る「太刀渡し」の儀式が行われる。鬼は太刀役の前に出て、松明を面の前でかざすようにして、肝煎が「立ちまっそー」と言いながら鬼の立ち位置を決め、太刀役は刀を鞘から抜いて、鬼に与える。鬼は刀の刃を上にして左肩に担いで踊り、再び「立ちまっそー」の声で刀を返す。太刀役は鬼の前へ。右足で鬼の左足を踏み刀を受け取った合図をしてその場で三度回る。
この後五匹の鬼は再び、「お礼参り」といって前と同じように舞ったあと、鬼室に入る。
夕暮れになって、最後を締めくくる餅割りが、大役の餅割鬼、尻くじき鬼によって行われる。
本殿中に祀られていた十二か月の餅が、舞台に設えた俎板の上に乗せられ、尻くじき鬼が桟敷の上で踊る。
指導員の「立ちまっそー」の声で正面に向かって踊り、二匹は向かい合って、本殿両脇左右に掲げられた「月の餅」「日の餅」(称して泰平の餅)を斧で割ろうとするが、中々割ることができず、コントのように、滑稽な素振りで割ろうとしていろいろな方法を試してみる。そして最後に十二か月の餅を割ろうとするが、槌では割れず、尻くじ鬼より自分の斧を受け取り、二つに割り、鬼室に戻る。
その後鬼たちは、練りこんだ時の羽織姿で本殿に集まり、神職から十二か月の餅を受け取り、各戸に配るのである。
本殿に飾られた餅花や、松明の燃え殻は少しずつ参拝者に配られる。
【全国で見る鬼踊り】
[念仏寺(陀々堂)] 大和・五條市
正月十四日 修正会のオコナイ(通称ダダオシ)
後日掲載
[蘆山寺] 京都市上京区今出川寺 天台圓浄宗
節分に赤、青、黒の鬼が鉞(まさかり)、剣(つるぎ)、槌を持って本堂の縁で鬼踊りをする。結局、山伏姿の講中や坊さんに追われてしまうが、それまでは愉快に踊り、しかもその豆は宝来豆といって、拾えば縁起がよいという。
[常楽寺(西寺)] 近江滋賀県湖南市石部 天台宗
正月中旬(十八日) 古式鬼踊り
赤鬼の面をかぶった者が松明を持って本堂を走り回る。
(『俳諧歳時記』江戸時代に記載)
[神宮寺] 尾張・熱田 真言宗
元正月五日の修正会に鬼踊りが行われ、「大薬師の鬼祭」といって賑わい、松明を持った鬼が本堂の縁を三度まわった。
[迎接 寺] 下総(千葉県)印旛郡内郷村
[浄福寺] 下総印旛郡下小堀村
今は絶えてしまって、面などが残るのみ。鬼来迎といわれる鬼舞い。
20年に一度行われていた地獄劇。
「浄福寺の仏事に鬼の舞と云ふあり。是も廿年に一度するわざなり。仏仮面、牛頭馬頭などの仮面、いづれもいといとふるきものなりといへり」
赤松宋旦『利根川図誌』安政二年(1855)
閻魔大王と赤鬼、青鬼、馬頭、馬頭の面をかぶった者が出て亡者を責める芝居をする。
壬生狂言の類であるが、この大念仏狂言のもとは鬼踊りと地獄劇が結合して芸能化されたもの。
[遍光寺] 紀州花園村梁瀬
不定期で遍照寺境内で公開する「佛の舞」という仏教劇。
六十一年毎の開催とかいう不定期なものであったが、現在では二十年に一度公開されている。
この劇の筋は、元禄の頃にできたもののようで、法華経の竜女成仏をドラマ化している。文殊菩薩と鬼が竜女を取り合うとき、コミカルな鬼踊りがある。
「仏の舞」は中世浄土教の二十五菩薩練供養(迎講)と古代呪術的な鬼踊りを結合させたものではないか。
(五来重先生)
《高野山在山中、実際見ることができた》
[長谷寺] 大和桜井市 真言宗豊山派総本山
正月十四日 修正会結願日に鬼走りがある。通称「ダダオシ」
長谷寺寺伝に寺の乾の角の谷に鬼が棲んで、人を悩ますので、修正会の法力によって避除するといい、修正会法会が終わって、牛王押しが終わったら、仏前に祀られた大鬼面(室町初期を下らない面である)をつけた鬼が、松明を振って後堂から飛び出し、外陣の舞台から大本堂の周りを三度まわる。
この間、村人は本堂内外に集まり、太鼓を打ち鳴らし、金を打ち、喚声をあげて喧騒を極める。
三度まわったのち群衆は、鬼の松明を奪い合い、これを取ればその年の縁起がいいといわれる。
またこの火をいただいて翌十五日朝のトンドの祝い火をするというので、ここでも鬼を神聖視されているのがわかる。
[法隆寺] 大和王寺町法隆寺
修二会結願 二月三日 鬼踊り 《追儺式(鬼追い)》
西円堂で行われる。
西円堂は、八角宝形造りの円堂で、霊験あらたかな「峯の薬師」といって、一般の信仰が篤い。
この薬師如来は、皇室や国家と関りの深い法隆寺にあって、庶民の信仰に支えられていて、鬼踊りには近郷の村民が群集する。黒(父鬼)、青(母鬼)、赤(子鬼)と毘沙門天の役も付近の村人が勤仕する。
寺ではこれを追儺式、鬼追式といっているが、鬼は極めて尊敬と親愛の情で迎えられ、決して追われるという存在ではない。
付き添いの者に伴われながら、堂の四方で簡単な踊りの型をしながら三回まわるだけである。
これを鬼追いとするのは誤っていて、最近の風潮の付和雷同と言われてもやむを得ないかもしれない。
最後には毘沙門天が鬼を矛を持って追うが、親愛の情をもって、鬼の後を清めているような気さえする。
鬼が振りかざす松明の投げられた火の粉があたると、その年は無病息災という。
この鬼の投げる松明の燃えさしも魔除けとして神聖視される。
追儺が伝来の中国での概念を記す。
追儺とは、中国の行事を模倣したものである。
中国では鬼は、鬼神であり、人間に害を与える怪物である。
具体的な姿も、仏教の天部の神の忿怒形をした明王(実際は明王は憤怒の顔で難を調伏する忿怒相)、邪気の影響を受けて恐ろしい鬼としている。
特に浄土教の普及によって、地獄の中で亡者を痛めつける獄卒の役割をも担う。
(地獄の恐ろしい邏卒のイメージが鬼として固定化されていった)
鬼は山中他界に住み、村里に出てきて悪事を働くが、やがて登場する英雄によって滅ぼされる民話は数多い。
時を経ると恐ろしい鬼よりも、間の抜けた滑稽な存在として描かれたりする。道化となった鬼は人間の知恵に敗れ追放される運命になる。
はじめ畏怖の対象であったのが、次第に優しい善鬼へと変化していく。鬼が神霊の変化した形として受け止められているからである。
冬が終わり、春が始まる前にその一年間の幸運を期待する気持ちが外来文化の中にあって悪鬼のイメージを、逆に悪鬼を払う力強い善鬼に変えたのだろうと思う。
中国唐代以降、四季の変わり目毎(特に冬至や夏至の頃)、鬼霊や邪霊が活動を活発にして、彼らと人間の間に緊張が高まると信じられた。
それを中国風にいうと「辟邪」すなわち邪霊を避けるための仏名読誦の儀礼を盛んにする。日本にも影響が及ぶのである。
ゆえに除夜に身を慎む行事も、年末の仏名会も、帰するところは共通の信仰や観念に根付いているといえる。
【追儺】
追儺とは、中国の行事を模倣したものである。
中国では鬼は、鬼神であり、人間に害を与える怪物である。
具体的な姿も、仏教の天部の神の忿怒形をした明王(実際は明王は憤怒の顔で難を調伏する忿怒相)、邪気の影響を受けて恐ろしい鬼としている。
特に浄土教の普及によって、地獄の中で亡者を痛めつける獄卒の役割をも担う。
(地獄の恐ろしい邏卒のイメージが鬼として固定化されていった)
鬼は山中他界に住み、村里に出てきて悪事を働くが、やがて登場する英雄によって滅ぼされる民話は数多い。
時を経ると恐ろしい鬼よりも、間の抜けた滑稽な存在として描かれたりする。道化となった鬼は人間の知恵に敗れ追放される運命になる。
はじめ畏怖の対象であったのが、次第に優しい善鬼へと変化していく。鬼が神霊の変化した形として受け止められているからである。
冬が終わり、春が始まる前にその一年間の幸運を期待する気持ちが外来文化の中にあって悪鬼のイメージを、逆に悪鬼を払う力強い善鬼に変えたのだろうと思う。
中国唐代以降、四季の変わり目毎(特に冬至や夏至の頃)、鬼霊や邪霊が活動を活発にして、彼らと人間の間に緊張が高まると信じられた。
それを中国風にいうと「辟邪」すなわち邪霊を避けるための仏名読誦の儀礼を盛んにする。日本にも影響が及ぶのである。
ゆえに除夜に身を慎む行事も、年末の仏名会も、帰するところは共通の信仰や観念に根付いているといえる。
【追儺の様相】
古代中国では大晦日に邪鬼や疫病などを打ち払うために、鬼の面をかぶった人を桃の木で作った弓矢で射って追い払う「追儺」の行事があった。
これが奈良時代に伝わって平安時代には宮中で大晦日の行事としてさかんに行われるようになった。
明の楊慎、清の顧炎武、趙翼らが考証し、鬼を撃ち追う椎(つち)《終葵》《鐘葵》がのちに同音の鍾馗という神名に変化したという。また鍾馗信仰は古代の大儺、鬼やらい、追儺に発し、鍾馗の形像は仮面をつけ熊皮をかぶって大儺をつかさどる巫師(方相氏)から転化したという説もある。鍾馗神話はしだいに敷衍されて、明・清代には《鍾馗全伝》《斬鬼伝》《鍾馗嫁妹》など通俗小説や戯曲が現れ、庶民により親しい神となった。…
(世界大百科事典)
年末の中国、日本でも邪霊や悪霊を追い払う宗教儀礼が発達した。
それが形を整えて厄神を払う追儺の儀になったのである。
宮中では古くから大儺・追儺とよばれる儀式がおこなわれた。これは悪鬼を追い払う儀式で、中国から伝わった習俗である。
文武天皇の頃(8世紀初め)、諸国に疫病が流行して多くの死人が出たため、大儺儀礼をおこなったことが記されている。
「続日本記」
大儺景雲三年(776)是歳「天下諸国疫疾、百姓多死、始作二土牛一大儺」
大儺が国家の年中行事として定着するにつれて追儺と改称された。
諸国以降、宮廷では毎年二十日の大晦日にこれが行われるようになったといわれる。
追儺は十二月の大晦日に邪鬼を祓うためにおこなわれていたが、年が明けた節分の夜に行事をされるようになった。
大晦日は本来、忌み籠りの状態になることである。
節分の夜にも忌み籠りをする地方もある。
転じて、イワシの頭、ひいらぎを刺したり、豆を「鬼は外」と言って投げるように変わっていったのではないだろうか。
このように追儺は十二月の大晦日に邪鬼を祓うために行われていたが、年が明けた節分の夜の行事とされるようになった。
追儺会は中国から伝わり、内裏で陰陽師の影響を受け、黄金の四ツ目仮面の方相氏(鬼払いの役)が戈と盾を持って悪鬼を祓う形がとられる。
次第に方相氏はその仮面を取り去り、追われる鬼だけが仮面を用いるようになり、さらに方相氏が舞台から姿を消した。
現在古い形で残る修二会では、鬼を払うのは毘沙門天になる。
これに対して、節分に行われる民間の鬼踊りでは、赤鬼青鬼が前面に登場して活躍し、その鬼を追い払うのは人間の役割となってくる。
中国の影響もなくなり、仏教の概念も薄れてきたといえる。
これが形を変えて民間に残り、各地に伝わったのであろう。
追儺の主役を演じるのは方相氏。大舎人寮の大男が扮し、黄金の四ツ目の面を着け、玄衣朱裳の装束を着け、右手に戈、左手に盾を持ち、侲子(しんし)と称する童子20名を引き連れて無形の鬼を追いかけた。
ところが、無形の鬼を追いかけるには実感がわかないので、平安時代末期になると、鬼を追う立場であった方相氏がなぜか追われる鬼の役割を演じるようになる。
(古代史家 三宅和郎は「平安初期における触穢信仰の高まりが葬送儀礼にも深くかかわった方相氏に対する忌避感を強め、穢れとして追われる側に変化させたのではないか」としている)
天皇が美南殿に出御になり、承明門が開かれて、中務卿が侍従、内舎人、大舎人を率いて登場し、桃の弓、葦の矢で射ながら方相氏の鬼を追い払ったといわれる。
追儺は十二月晦日に行われたところが、節分とは異なるが同じ鬼である。
追儺は正月をひかえて禍悪を払う儀礼。
地方によっては豆まきを晦日に行うところもある。
方相氏の伝承
中国の高辛氏(こうかんし)の子が死んで疫鬼となったのを、周の方相氏が桃の弓、蓬の矢で駆逐したという伝承から、陰陽師の手で、宮中で行われていたのを神社や民間で模倣されたという。
「天皇は井櫃に入った豆を取って渡お打ちになり、次に勾当が殿中からお湯殿の上まで豆打ちする。さらに天皇はお歳の数だけ豆を召し上がり、追儺香をお嗅ぎになる。追儺香には薬草の白朮(おけら)が用いられ、その悪臭によって体内の邪気が追い出されていくと信じられた。」
『後水尾院当時年中行事』
現在の宮中では追儺も節分もおこなわれていない。
これに代わり禍悪を去り、福善を呼ぶ儀礼として節折大祓あ6月30日と12月31日に行われており、これに集約されたものといえる。
【結】
① 鬼を追い払って厄払いをする。
② 年間の罪障を洗い流す。
③ 将来の幸運を招こうとする期待の気持ちがこもる。
⦅資料⦆
【民間の大晦日(おおつごもり)】
兵庫県宝塚市大原野西地区の行事(山間部である)
12月31日
いわしの頭をひいらぎの木にさしたのを家の入口にして魔おどしとして、注連縄を張って聖なる場所を示した家の中で、いろりに火をたいた。この夜の火は大きいほどよいとされた。この火でお金をあぶると金持ちになるという。家内中で年越しいわしと麦めしを食べた。これが年越の食事であった。トシコシマイリといって神社と宝山寺に参った。参ったあと、少しの間寝たあと起きて正月を祝った。
1月 1日
正月を迎える神は歳徳神である。若水は男が汲み、豆のからとゼニゴメ(木の名称)で雑煮を炊いた。(以下略)
兵庫県宝塚市小浜・良元・長尾地区(市街地である)
12月31日 オオミソカ、オオツゴモリ
小浜、白井家では、朝一番、鳥の鳴かん間に(お日いさんの上がらない間)東の方を向いて巻きずしを食べる。巻きずしには、コウヤドウフ、カンピョウ、ズイキ(さといもの茎)、ニワトリの飼っている家では卵を入れて巻いてある。この巻きずしを切らずにそのままかぶって食べる。これを尺八をかぶるといい”明日、尺八をかぶるでよー”と挨拶した。女子は早く起きて準備をした。これを食べると良い年がくるとか、福がくるとかいい、子供達には小さい巻きずしを作って食べさせた。この他に、オオミソカに麦飯、塩イワシ、トロロ、年越しそばを食べる。朝早く起きて正月の準備として、注連縄をつけたり、古いお札をはがして新しいお札を祀った。女子はニシメ等料理を作った。年越しソバは売りにきたのを家族の数だけ買う。
塩イワシの頭に、ヒイラギをつけて戸口にさした。家によっては窓という窓につけた。これは魔除けと疫神がはいらないようにという意味である。小浜の皇太神社にでは宮総代が午後6時ころ集まり、お燈明をともし、その火でかがりに火をいれ、オオツゴモリをする。山本の松尾神社、天満神社、鹿塩の熊野神社等でもかがり火をした。これを福火という。
(「宝塚の民族ー年中行事・生業を中心としてー」1977 宝塚市教育委員会)
【壬生狂言「節分」】
舞台にはヒイラギに鰯の頭を挿したものが柱につけられている。
後家は豆を奉書に包み拝す。
杖を持った鬼が登場。杖、頭陀袋を置き、しつらう。
赤鬼は足踏み鳴らす。邪魔な鰯を取ってしまう。隠れ蓑に打ち出の小づち。
黒い着物に着替え、手拭いで角を隠して頭巾をつけ、人間に化ける。
打ち出の小づちで着物や帯を出してみます。
酒を後家が小づちで取り出す。
後家はどんどん酒を注いでいき、鬼は泥酔していく。
寝入る鬼。着物を一枚づつはいでいき、打ち出の小づちと隠れ蓑を隠してしまい、気付いた鬼を豆で追い出してしまう。
【節分の年越し】
旧暦の大晦日の年越しは節分の年越しより古い行事であった。
大晦日に先祖の霊が鬼の姿で訪れたことが「徒然草」に書かれている。
「つごもりの夜…(中略)…なき人の来る夜とて、魂祭るわざは、このごろ都にはなきを、東(あずま)の方(かた)にはなほすることにてありしこそあはれなりしか。」
吉田兼好『徒然草』(十九段)
これでわかるように節分の鬼も、実は先祖の霊の訪れだった。
これは先祖の霊が子孫の祭りを受けに来る。
やはり仏教の浄土思想の影響で、鬼を邪悪なものにしてしまった。
しかし決して邪悪なものではない。せっかく子孫の厄を払ってやろうと訪れたとたん、大豆を投げられて追い払われるので本末転倒になってしまった部分もある。
ここで吉田兼好の記述に気を付けないといけないところだが、都では行われなくなってきたが、関東では今なお慣習が続いていることに感銘しているが、市民のあいだでは、今でも大晦日の日に墓掃除や墓参りに行っている。これこそ「魂祭るわざ」ではないだろうか。吉田兼好は公卿や僧侶神官との交わりが多く、深く名もなき市民や農民のことを皮肉にも知らなっかったと思う。
来訪神
【古代の日本人の観念】
疫病、凶作などの災厄は人間以上の力がある。目に見えない悪神邪霊のしわざで、これに対抗できるのは恐るべき力がある霊的存在でなければならなかった。
この恐るべき霊力こそが古代語で”イツ(陵威)”とよばれたものにほかならず、それは人間に向かってではなく外からの邪悪な霊に向けられれる恐ろしくかつ強力な力であった。
すべての宗教の本質に葉ヌミノーゼ(恐ろしさ、薄気味悪さ)があるといわれるが、日本人も神聖観念を「恐れ多い」(畏)という言葉で表現している。
真言密教の寺院の本尊に、不動明王、五大力明王、毘沙門天、大元帥明王、愛染明王、馬頭観音、青面金剛などの恐ろしい姿の憤怒像尊が多く、大日如来より人気があるのは、そのような宗教の本質に根差したものに思われる。
役行者が日本国にふさわしい本尊の出現を祈請したとき、最初に出現した釈迦如来、弥勒菩薩をとらず、恐ろしい憤怒形の蔵王権現をとったと言われる修験道の伝説は暗示的な話である。その宗教観の奥底に、日本民族固有の鬼の観念が動いていることを見逃せないのではないだろうか。
【日本の民族の宗教感】
神道・仏教、共通して言えるのは、その根底に祖霊への観念が存在する。
神道 = 惟神(かんながら・かむながら)の道
仏教 = インドに生まれた釈迦の道
というように、一面的な見方では、日本民族の根底、庶民の宗教観を捉えることは不可能である。
古代、奈良時代の宗教家たちは、よく理解していたものと思う。
仏教法会の形をとりつつも、日本の祖霊来訪と、その力によって豊作と国家安全を祈願する修正会や修二会が交じり合った。そこには特に祖霊の姿は現わさなかったが、平安末期になるとこれを鬼の形で演出されるようになった。
もちろんこの鬼は外来芸能の伎楽面をかりて表現したもので、これが祖霊であることは庶民のほうでも心得ていたのである。
よって民衆はこの鬼を神聖視し、その恩寵を受けようとしたが、僧侶は仏教の羅刹鬼にとらえて鬼を追い出そうとし、のちに鬼追式などと名付けられるようになった。
(五来重は、民俗の正しい伝統の継承者は庶民なのだという。庶民の声を聞きながら仏教行事や民俗行事の正しい解釈を追求しなければならない。鬼追いもその一例である)
【東北地方の小正月 ナマハゲ】
地方によって、ナモミハギ、ナゴミタクリ、ヒガタタクリ、シタカハギ、アマミハゲ、アマミハギ、スネカなどと呼び名の相違があるものの、たいていは村の青年が青鬼、赤鬼の面をかぶり、ケラミノという蓑を着て、鍬や出刃包丁や御幣や手桶を持ち、竹筒に小刀を入れてカラカラならしながら、「うぉ~っ、うぉ~っ」と恐ろしそうな声で家々を訪れる。
すると家の主人は羽織袴の礼装で戸口に出て迎え入れ、奥座敷へ案内して酒肴でもてなすと鬼は子供や妻を戒めたうえ、家中を荒らしまわって去っていく。
このとき第一番に「嫁と姑の仲ぁええがやぁー」と戒めたり、「良ぐねえ餓鬼(子供のこと)はえねえがぁー」と戒めたりする。これは嚇かしているといより、亡くなった先祖の者が、子孫の幸福と繁栄を願うあたたかい思いやりというもののほうが、より日本人の根底にあるものにそぐうのではないかと思うのである。
なまはげの変形は多く全国にある。
・北陸=アマミハゲ、オドシ
・山陰=ホトホロ、トヘトヘ
・山陽=トロヘイ
・四国=コトコト
・九州=トビトビ
・関東=バタバタ、カセドリ
多くは鬼の面を着けず、手拭いで頬被りをするくらいだが、蓑と笠を着けることはナマハゲと同じである。
これを演じるのは青年ばかりではなく、子供もこれにあたり、訪れたしるしにコトコトと戸を叩き、お菓子などをもらう。日本人のアイデンティティとしては、祖霊が子孫を訪れ、邪悪なものを追い出してくれると解釈した方が確かである。。
祖霊は常に厳しさと優しさを併せ持つ。怠ける子孫を叱り、福をもたらすのである。
国における「来訪神:仮面・仮装の神々」の提案の概要
1.名称
来訪神:仮面・仮装の神々
2.内容
仮面仮装の異形の姿をした者が「来訪神」として正月などに家々を訪れ、新たな年を迎えるに当たって怠け者を戒めたり、人々に幸や福をもたらしたりする行事。
3.分野
年中行事(儀式 rituals)
【男鹿のナマハゲ】 (平成23年ユネスコ無形文化遺産「情報照会」)
所在地:秋田県男鹿市 (昭和53年5月22日無形文化財遺産登録)
保護団体:男鹿のナマハゲ保存会
男鹿のナマハゲは、秋田県男鹿市に伝承される、正月に行われる行事である。男鹿市では、大晦日(12月31日)の晩になると、ナマハゲと称する神が里へ降りてきて人里を訪れるといわれ、家々を巡り歩き、新年を祝福する。昭和20年代までは小正月(百姓正月)に行われていた。
囲炉裏などで長く暖をとっていると、手足に火斑(ひだこ)ができるが、これを当地ではモナミといって、何もしない怠惰の表れと解されている。ナマハゲはそのモナミを剥ぎとってしまう、モナミ剥ぎの転訛とされている。すなわち怠惰を戒める意味からそう呼ぶようになったという。ナマハゲは、各地区の青年たちが扮するが、大きな鬼の面を被り、ケデ(藁蓑)を身に纏い、手には包丁や桶を持つなどして「泣く子はいねがー、親の言うこど聞がね子はいねがー」「ここの嫁は早起きするがー」などと大声で叫びながら家々を巡り、その都度に各当家より酒や料理で丁重にもてなされて去っていく。
この行事は、年初に当たって神々が訪れ、人々に祝福を与え、地域に幸いをもたらす行事である。類似の行事は全国に分布するが、特に男鹿のナマハゲは、日本の民間信仰や神観念の形態をよく示しており、秋田県男鹿半島における来訪神行事の典型例として重要なものである。
【遊佐(ゆざ)の小正月行事】 (平成11年12月21日無形文化遺産登録)
所在地:山形県遊佐町
保護団体:遊佐のアマハゲ保存会
遊佐の小正月行事は、山形県遊佐町で伝来される、正月におこなわれるぎぃうじである。当地では、正月中の所定の日(1・3・6日など)の晩になると、アマハゲと称する神が人里を訪れるとされ、家々を巡り歩き、新年を祝福する。昭和10年頃までは一様に旧暦の小正月(1月15日)に行われていた。
囲炉裏など長く暖をとっていると、手足に火斑(ひだこ)ができるが、これを当地ではアマゲといい、なにもしない怠惰の表れと解している。アマハゲはそのアマゲを剥ぎとる、アマゲ剥ぎに由来とされ、怠惰を戒めるの意からそう呼ぶようになったという。
アマハゲは、赤鬼や青鬼などの面を着け、藁で編んだケンダンと称するものを幾重にも身に巻き付け、若者たちが扮する。多くは、太鼓打ちとアマハゲ数名が一団となって巡るが、家に入ると、戸主と新年の祝いを交わしたのち、身を揺すりながら大声をあげ、子供や娘、若嫁や若婿などを威嚇し、やがて太鼓の合図とともに終える。次に、酒や料理で接待を受けるが、このとき当家とアマハゲの間で餅の授受がある。
この行事は、年初に当たって神々が訪れ、人々に祝福を与え、餅をやりとりするなどして地域の豊穣を約束するといった行事である。類似の行事は全国に分布するが、なかでも遊佐のアマハゲは、我が国の民間信仰や神観念の形態をよく示しており、山形県庄内地方の来訪神行事の典型例として重要である。
【米川の水かぶり】 (平成12年12月27日無形文化遺産指定)
所在地:宮城県登米市
保護団体:米川の水かぶり保存会
米川の水かぶりは、宮城県登米市に伝承され、二月初午(2月最初の午の日)に行われる行事である。当地では、この日、「しめなわ」と被り物を纏った奇怪な姿の者たちが火伏せ(火災除け)を願って沿道の家々に水を掛けながら、社寺等を参詣する。
若者と厄年を迎えた者たちは、宿と称する特定の家に集まると、身にまとう「しめなわ」3本と、頭に被る大きな苞状のものを藁で作り始める。これらをオシメという。できあがると、裸となってオシメを身に着け、顔にはかまどの煤を塗って黒くする。こうして一同は列をなして諸社寺へと向かうが、その途中、各家が用意しておいた水を屋根に掛けながら走っていく。水かぶりの一行が通りかかると、人々は競ってオシメの藁を引き抜き、これを屋根の上に載せておく、こうすると火伏せになる、魔除けになるといわれている。
この行事は、初午に行われる火伏せの行事であるが、同時に若者たちが異装をし、正体がわからないようにして現れるなど、異形異装の来訪神行事の要素も併せ持っている。米川の水かぶりは、我が国の民間信仰や神観念の形態をよく示しており、宮城県北部における火伏せ行事の代表例であるとともに、地域的特色を有したものとして重要である。
【吉浜のスネカ】 (平成16年2月6日無形文化遺産指定)
所在地:岩手県大船渡市
保護団体:吉浜スネカ保存会
吉浜のスネカは、岩手県大船渡市に伝承される、正月に行われる行事である。当地では、小正月(1月15日)の晩になると、スネカと称する神が山から人里を訪ねるとされ、家々を巡り歩き、春の到来を祝福する。日にちの移行はなく、昭和30年代までは旧暦で行っていた。
囲炉裏などで長く暖をとっていると、脛などに火斑ができるが、これを当地では怠惰の表れと解している、スネカは男たちが扮するが、面は鬼とも馬ともつかない奇怪なもので、藁蓑や毛皮などを身に着け、背には俵を背負い、手にはキリハと称する小刀を持つ。腰にはたくさんのアワビの殻を吊り下げており、ジャラジャラと音がすることから、家人はその到来を察知する。スネカは各家の庭先に着くと、戸を揺すったり、爪で引っ掻くなどしてから屋内に入り、上がり框(かまち)に足をかけたり、座敷に上がり込んでは、キリハを振りかざして威嚇する。子供たちが泣き叫んだり、逃げ出そうとする中「カバネヤミ(怠け者)はいねえが」「泣くワラシいねえが、言うこと聞かぬワラシいねえが」などと声を張り上げる。しばらくして、家人は「カバネヤミも泣くワラシもいねえがら、餅あげっから帰ってけらっせん」などといって、スネカの退散を促す。
この行事は、年初に当たって神々が訪れ、人々に春を告げ、その年の豊穣をもたらすとともに、怠け者や泣く子を戒めるといった行事である。類似の行事は全国に分布するが特に吉浜にスネカは、我が国の民間信仰や神観念の形態をよく示しており、岩手県三陸地方における来訪神行事の典型例として重要である。
【能登のアマメハギ】 (昭和54年2月3日無形文化遺産登録)
所在地:石川県輪島市・能登町
保護団体:能登のアマメハギ・面様年頭保存会
能登のアマメハギは、石川県輪島市及び能登町に伝承されている、正月もしくは節分に行われる行事である。当地では、正月中の所定の日(6・14・20日など)あるいは節分の日(2月3日)の晩になると、アマメハギと称する神が人里を訪れるとされ、家々を巡り歩き、新春を祝福する。地域によってはメンサマと呼ぶところもある。
囲炉裏などで長く暖をとっていると、手足に火斑(ひだこ)ができる。これを当地では アマメといい、何もしない怠惰の表れと解している。アマメハギは、そのアマメを剥ぎとるアマメ剥ぎに由来されるとされ、怠惰を改めるという意味からそう呼ばれるようになったといわれる。
アマメハギは、各地区の青年や子供たちが扮するが、その面は様々で、天狗や鼻ペチャ面、猿面、あるいは男面・女面などがある。そして手には包丁を持つなどして各家を訪れ、「アマメを作ってる者はいないか・・・アマメー」などと大声で叫び、怠け者や悪い者がいないか、そして怠惰を戒めつつ、家人に言い聞かせては去っていく。
この行事は、年初や初春に当たって神々が訪れ、人々に祝福を与え、地域の災厄を祓うといった行事である。類似の行事は全国に分布するが、なかでも能登のアマメハギは、我が国の民間信仰や神観念の形態をよく示していて、石川県能登半島の来訪神行事の典型例として重要な者である。
※祖霊が子孫のもとに降臨し、諫め正し、子孫の繁栄を願う。
【見島のカセドリ】 (平成15年2月20日無形文化遺産登録)
所在地:佐賀県佐賀市
保護団体:加勢鳥保存会
見島のカセドリは、佐賀県佐賀市に伝承される、初春に行われる行事である。現在当地では、2月の第2土曜日を行事としているが、かつては旧暦の小正月(1月14日)に行っていた。この日の晩、神の使いとされるカセドリが家々を巡り歩き、新年を祝福する。
カセドリは、若者たちが扮する。雌雄1対とされることから、2名で行う。身には藁蓑を纏い、頭には目と鼻、口だけを出して白手拭いを巻き、その上から笠を被る。そして、手には2メートルほどの青竹を持つ。この青竹は、下半分を縦に細かく裂いたもので、叩きつけるとガシャガシャと音が出るようになっている。カセドリは、青竹を引きずって暗い夜道を歩き、屋敷内に入ると、青竹の先を地面に擦りつけながら家内に勢いよく走りこみ、上がり框(かまち)座敷に上がってしばらく青竹を打ち鳴らす。その後、頃合いを見計らって家人が米や茶などをカセドリに振舞ったのち、最後にもう一度、青竹を打ち鳴らして去っていく。
この行事は、初春に当たって神の使いが訪れ、人々に祝福を与えるとともに、悪霊を祓い、その年の家内安全や五穀豊穣を祈願するといった行事である。類似の行事は全国に分布するが、中でも見島のカセドリは、我が国の民間信仰や神観念の形態をよく示しており、九州北部の来訪神行事の典型例として重要である。
【甑島(こしきじま)のトシドン】 (平成21年ユネスコ無形文化遺産登録))(昭和52年5月17日)
所在地:鹿児島県薩摩川内市
保護団体:甑島のトシドン保存会
甑島のトシドンは、鹿児島県薩摩川内市の下甑島に伝承される、正月に行われる行事である。この地では、大晦日の晩になると、トシドンと称する神が山の上に降り立ち、首のない馬に乗って人里の訪れるとされ、家々を巡り歩き、新年を祝福する。
トシドンには、男たちが扮する。長い鼻に大きな口の奇怪な面を被り、藁蓑のほか、シュロ(棕梠)やソテツ(蘇鉄)の葉などを身に着ける。各家の戸口で馬の足音をさせてから屋内へ入ると、特に子供たちに、大声で脅したり、本人から日頃の暮らしぶりを問いただし、よい子になるように諭し、ときとして褒めるなどする。こうして最後には、子供の褒美としてトシモチ(歳餅)と呼ぶ大きな餅を与え、背中に戴かせ、去っていく。歳餅は、これを貰わないと1つ歳を取ることができないとされており、いわゆる「お年玉」の原初と考えられている。
この行事は、年初にあたって神々が訪れ、人々に祝福を与え、あるいは訪れることで歳が改まるといった行事である。類似の行事は全国に分布するが、なかでも甑島のトシドンは、我が国の民間信仰や神観念の形態をよく示しており、南九州の来訪神行事の典型例として重要である。
【薩摩硫黄島のメンドン】 (平成29年無形文化遺産登録)
所在地:鹿児島県三島村
保護団体:硫黄島の八朔太鼓踊り保存会
薩摩硫黄島のメンドンは、鹿児島県三島村の硫黄島に伝承される、季節の節目に行われる行事である。毎年八朔の行事日となる旧暦の8月1日・2日に、メンドンと称する神が現れ、地域と人びとの邪気を追い祓う。
メンドンには、若者や子供たちが扮する。蓑を身に纏い、頭にはテゴと呼ぶ龍に神を貼って作った奇怪な面を被る。手にはスッベと呼ぶ枝葉を持つ。夕方、神社の前で若者たちが輪になって太鼓踊りをしていると、突如、拝殿奥から1体のメンドンが走り込んできて踊り手の周囲を3周し、去っていく。これが終わると、次々にメンドンたちが走ってきては、踊りの邪魔をしたり、飲食に興じる観客たちの中に分け入るなど、悪戯をはじめる。手に持つ枝葉でしきりに叩くが、これに叩かれると魔が祓われてよいなどという。こうして、メンドンらは神社に出たり入ったりしながら、せわしく駆け回るが、踊りの終わったあとも夜中まで所かまわず出没、徘徊している。
この行事は、夏・秋の節目に当たって神が訪れ、地域とその人びとの災厄を祓うとともに、幸いをもたらすといった行事である。類似の行事は南西諸島に分布するが、なかでも薩摩硫黄島のメンドンは、我が国の民間信仰や神観念の形態をよく示しており、種子島・屋久島地方における来訪神行事の典型例として重要である。
【悪石島のボゼ】 (平成29年無形文化遺産登録)
所在地:鹿児島県十島村
保護団体:悪石島の盆踊り保存会
悪石島のボゼは、鹿児島県十島村の悪石島に伝承されている。季節の節目に行われる行事である。毎年、盆の最終日となる旧暦7月16日に、ボゼと称する神が現れ、地域の人びとの邪気を追い祓う。
ボゼには、3名の若者たちが扮する。赤土と墨を塗りつけた異様な仮面を被り、体にはビロウの葉を巻きつけ、手足にはシュロ皮やツグの葉をあてがう。手には、それぞれボゼマラと称する男根を模した長い杖を持つ。この日の夕方、ボゼは呼び太鼓の音に導かれ、盆踊りで人びとが集まる広場に現れる。ボゼは、ボゼマラの先端に付けた赤い泥を擦り付けようと、観衆を追い回す。この泥を付けられると、悪魔祓いの利益があるとされ、特に女性は子宝に恵まれるなどという。騒ぎがしばらく続いたのち、太鼓の音がゆったりとしたリズムに変わると、ボゼは体を揺らすようにして踊りはじめ、再度急変の調子で再び暴れだし、その場を去っていく。
この行事は、夏・秋の節目に当たって神が訪れ、地域とその人びとの災厄を祓うとともに、幸いをもたらすといった行事である。類似の行事は南西諸島に分布するが、中でも悪石島のボゼは、我が国の民間信仰や神観念の形態をよく示しており、トカラ諸島における来訪神行事の典型例として重要である。
【宮古島のパーントゥ】 (平成5年12月13日無形文化遺産登録)
所在地:沖縄県宮古市
保護団体:島尻自治会、野原部落会
宮古島のパーントゥは、沖縄県宮古島市宮古島に伝承される、季節の変わり目に行われる行事である。島尻と野原の二つの地区に伝承されており、島尻では、旧暦9月上旬、野原では、旧暦12月の最後の丑の日に行われる。この日、パーントゥと称する異形の神が現われ、集落内を歩き回って災厄を祓う。
パーントゥとは、化け物や鬼神を意味する呼称で、仮面をつけ、草や泥などを体に付けた姿で現れる。島尻では、男性の若者が体に蔓草を巻きつけ、井戸の泥を全身に塗ってパントゥに扮する。杖を持ち、手に持った仮面で顔を覆いながら集落内を歩き回り、出会った人たちに泥を塗り付ける。新築や出産など慶事のあった家では、特に来訪を歓迎する。野原では、この行事はサティパウロ(里祓い)とも称され、仮面をつけた子供と草を身にまとった女性たちの一行が地域内を歩き回り、四つ辻や家々などで災厄祓いをする。
この行事は、秋・冬の節目に当たって神が訪れ、地域や、その人びとの災厄を祓うとともに、幸いをもたらすといった行事である。類似の行事は南西諸島に分布するが、なかでも宮古島のパーントゥは、我が国の民間信仰や神観念の形態をよく示しており、沖縄地方の来訪神行事の典型例として重要である。
【節分の鬼と豆】
鬼についての古い記録は平安末期の藤原宗忠の日記『中右記』大治五年(1130)正月に、「円宗寺修正会鬼走」として出るのは古い記述である。
この頃は鬼とともに竜天や毘沙門天も出て、その走る形は奈良薬師寺と法隆寺の修二会に残っている。
節分の鬼は、仏教行事の修正会・修二会の呪師芸に残ると思われる。
この鬼は悪者ではなく、逆に悪魔払いや厄払いの修法をした。
(現在のように鬼を追い払うのは、逆に悪魔がはびこって手が付けられないことからくる。御霊信仰もあったのではないだろうか)
豆を打つの起源は。
室町時代初めの応永三十三年(1425)『花営三代記』にみえるのが最初のようである。
「節分大豆役、昭心、カチグリ打、アキノ方、申と酉ノアイ也。アキノ方ヨリウチテ、アキノ方ニテ止」とあり、鬼を打つことは出てこない。
しかし少しのちにできた『塵添壒嚢抄』(観勝寺の僧行誉著)には、節分に大豆を打つことは本説にないことだが、京都の北の入り口、旧鞍馬口にあたる美會路池(深泥池)の鬼穴を封じるために三石五斗の大豆で鬼を打ったのが初めだと述べている。
鬼穴の伝説の深泥池の鬼塚は某病院の施設を作るのに潰されてしまったが、それまでは近隣の村人は節分に、この塚へ炒り大豆を紙に包んであげにいった。今は別祠へあげている。
愛知県岡崎市の瀧山寺の鬼祭に本堂の横の鬼塚に炒り豆をあげるのも同じ意味であった。
京都近郊の風習
十九の厄年の娘は、大豆二十粒を紙に包んで体に撫で、厄を豆を移して、深夜人に見られないように道の辻に捨てる。
これは村境の塚へ捨てにいくのも同じことである。
むしろこの儀礼から塚が鬼塚などと名付けられたとみるべきである。
豆というもの、もとは鬼を追うものではなく、厄を豆にうつして外に捨てるものだった。
十九歳の女の厄年の厄は白紙に包んだ豆に移され、厄や穢れの捨て場の道の辻に捨てるのである。
五来重は、年より一つ多い豆というのは、厄年には二つ取って厄年を通り越すという考え方をあらわすのではないかとしている。十九の厄年だけでなく女三十三歳、男四十二歳の厄にもあったと思う。
辻や塚に豆を外に捨てるようになって、鬼は外のように、外に捨てられるようになったのであろう。
しかし節分の夜の来訪者が邪悪な鬼という観念が出来てしまって鬼を打つように変化していったと思われる。
【摂津三田城主 九鬼氏の風習】
「鬼は外」と言わないことで知られている。九鬼氏は先祖が鬼と言われている。
節分の夜、城主が正面に座っていると、家老が進み出て、炒り大豆を包んだ紙で城主の体を撫で、やがてこれを外に捨てたという。豆は鬼を追い払うためのものでなく、厄を移し払うために撫でて捨てるものだったのである。
「予、九鬼和泉守(隆国)に問(とふ)には、世に云ふ、貴家にては節分の夜、主人闇室に座せば、鬼形の賓来りて対座す。小石を水に入れ、吸物に出すに、鑿々(さくさく)として音あり、人目には見えずと。この事ありやと云しに、答に、拙家曾て件のことなし。節分の夜には主人恵方に向ひ座に就ば、歳男、豆を持出、尋常の如くうつなり。但世と異なるは、其唱を「鬼は内、福は内、富は内」といふ。是は上の間の主人の座せし所にて言て豆を主人に打つくるなり。次の間をうつには「鬼は内、福は内、鬼は内」と唱ふ。此夜歳越の門戸に挟すひら木、鰯の頭など、我家には用ひずとなり。」
『甲子夜話』平戸城主松浦静山
これは九鬼氏がその名のように鬼の子孫という伝承があったことをしめす。
節分の夜は大晦日と同様に、九鬼氏の祖霊である鬼が帰ってくるという評判があったようだ。
『甲子夜話』の松浦静山は好奇心旺盛な人だったようで、江戸城内の溜りの間で、諸大名から聞いた話を多く載せている。
摂津三田城主(旧鳥羽城主)九鬼隆国も節分の夜に鬼姿のご先祖が訪ねてきて、小石の吸い物を召し上がるという評判には困惑しただろう。
九鬼氏の例もその一つだが、世には鬼の子孫という家筋もかなり多く、「鬼は内、福は内」と豆まきする家も少なくない。
修験山伏の家筋に多いが、祖霊を鬼と表象することはごく一般的なことだった。
それが仏教や陰陽道の影響で邪悪な鬼となり、地獄の牛頭馬頭や餓鬼となって「鬼は外」と追われる鬼になってしまった。
しかし宮中の大晦日の追儺などでは、陰陽道の方相氏と公卿が桃の弓をもって追いかけたもので、豆は用いられていない。
『土佐日記』には、
「けふはみやこのみぞおもひやらるる。こへ(小家)のかど(門)のしりくべなは(七五三縄)のなよし(鯔)のかしら(頭)、ひひらぎ(柊)ら、いかにとぞいひあへなる。」
とある。
元日の節分に、鯔の頭や柊を門口に立てる行事は見えるが、鬼打豆は見当たらない。
【イワシの頭とヒイラギ、そして豆】
柊のトゲ。そのトゲが門口から入り込もうとする鬼の目を刺し、侵入を除くといわれる。(ハリセンボンなどのトゲの多い魚であるフグの張り型を魔除けにする例も多くみられる。)
とがったものが魔除けになるという考えである。
竹竿の先に刺した目籠を屋根にかかげ、一つ目小僧などの妖怪が家に近づくのを避けるとともに、囲炉裏でニンニクやネギ、ニラなどの匂いのきついものを燻して、家の中に臭気を充満させ、鬼や悪魔が侵入するのを防ぐ行事も存在したという。
(新谷尚紀「日本人の縁起かつぎと厄払い」)
節分のイワシの頭とヒイラギを門戸に立てるのは、これを焼いて臭気や音を出すこと、鬼の嫌うことをすることである。
この日、鬼の嫌うものとして、ヒイラギやトベラの生の葉を焼き、音を立て、これをベリベリシバ(バリバリシバ)と言ったりする。
(柳田国男「火の昔」)
馬酔木や豆の枝を焚くところもある。
こうした臭気と音の中で豆を煎る。
それは鬼を追うばかりではなく、害虫の口を焼くといってムシノクチヤキともいい、淡路島では豆を一粒ずつ炉の中に投げ入れて、害獣虫を封じるという。
「所々に少異あり。鬼は外福は内と唱、鰯の頭、柊の葉などを指事は何方も同じ。此夜用いたる豆を、打豆又鬼の豆と唱へ、人々歳の数程食ふ。明朝の飯に右豆を入れた炊き食ふ。(中略)物部組には一粒宛囲炉裏へ投入、猪の口、兎の口、蚤の口、蚊の口と唱て焼く。是は右の獣虫などを封る呪と云。」
(『淡路国風俗問状答』「節分豆まきの事」江戸時代末期)
これと同様のことは対馬にもあって「クチイビリ」と言っている。
このように節分には、臭気や煙を立てて、音を立てて耕作に害する悪霊を追い払う行事に豆が使われたので節分に子孫を来訪して祝福をもたらすはずの鬼を打つ豆に変わった。
このような変化をしめすのが、志摩地方のアラクサで、節分の豆まきを「あら臭さ!」と言ったのは、このときイワシの頭などを焼いて嫌な臭気を立てたからで、これと同じことが奥州でも行われヤラクサとよばれていた。
「い(魚)をのひれ(鰭)、あるいはを(魚)の皮にてもあれ、もち(餅)とともに、これをやいぐし(焼き串)のやうなるものにさしはさみて、戸ざしあるとあるかたにさしありきぬ。これをなん、やらくさとぞいひける。」
(菅江真澄『奥の手風俗(てぶり)』 寛政九年(1794)
さらに菅江真澄は、これと同じことは、故郷の三河でも行われていると言っている。
「わが父母の国にて、せちぶ(節分)の夜、かどのはしらに、豆のから(枝)にいはし(鰯)の頭をやきさし(焼刺)、ひひらぎ(柊)とならべてさせるとき、
柊もさぶらふ(侍)。やいか(焼嗅)がしもさぶらふ。なごなご(長虫=蛇)にましまして、やらくさ、
とはやすに似たる。」
志摩にも、三河にも、奥州にも、同じ「アレクサ」だったことが注目される。
ただ、菅江真澄は『奥の手風俗』の中で、下北半島の田名部の節分のことを書いて、
「(正月)けふは三日なり。せちぶ(節分)なれば、いりまめ(煎豆)に、ゑびすめ(昆布)きざみ入れ、松の葉こき入れ、まめはやす(豆囃)こと葉(言葉)は、去年の日記にあれば、かい(書)もろしぬ。」
(寛政五年の正月から三月までの日記があったらしいが今は残っていない)
この「まめはやし」も、豆と昆布と松葉を焼いて、ヤラクサの囃詞を唱えたものと思われる。
豆の件
『看聞御記』伏見宮貞成親王 室町期
応永三十二年(1425)一月八日の条 節分に「鬼大豆打ち」とでる。
文書で確認できる初見
『今川大双紙』 《「群書類聚」武家部》 室町期
「節分の夜の鬼の大豆をも、御年男きんずる也」
連歌師宗長『宗長手記』 戦国期
新谷尚紀『日本人の縁起かつぎと厄払い』
※豆の厄落としについては後述
【太巻き】(恵方巻)
その年の恵方、歳徳神がいる方向を向き、願い事を思い浮かべながら丸かじりする。
この風習は古いものではないが、正月に恵方にある寺社に参拝する恵方詣りが由来だと思う。
発祥は関西だという。
江戸末期から明治初期、大坂船場の商人たちの商売繁盛を祈願して行ったとも、また、花柳界で行われていたともいう。
昨今の広がりは、1877年、大阪海苔問屋協同組合が大阪道頓堀で節分に開催した海苔の販売促進行事によるともいわれている。
(新谷尚紀「日本人の縁起かつぎと厄払い」)
【鬼の家】
鬼を先祖とする”鬼筋”は、全国的に家や村で見いだされる。
豊後日田 大蔵家(鬼大夫)系図
始祖 妙量(童か)鬼(き)とし、子孫にも鬼の字をつけた名が多い。
下野(しもつけ)の上都賀郡西大芦村古峯ヶ原の古峯神社のご祭神は、元金剛童子(大天狗・鳥天狗)であり、天狗面と前鬼後鬼の像を祀っていた。その代々の祠官である石原氏の祖先は妙童鬼、または隼人坊といって、役行者に仕えたものとしている。
越後 古志郡荷頃村軽井沢の茨木氏は、有名な茨木童子の生家と称し、家の背後に童子が住んだという岩屋がある。
しかし、摂津河辺郡伊丹市の南、東富松部落のほうが本当の出身地だといい、その家筋は絶えたと『摂陽群談』にある。
この部落では童子のために毎年「団子祭」をしたといわれている。
(尼崎市武庫之荘東、西富松須佐男神社)
大和 五條市近くの安生寺垣内(あんしょうじかいと)
大和 宇陀郡榛原町篠原(ささら)・足立両部落
大和 磯城郡初瀬町白河
以上、鬼の子孫と自称する旧家もおおく存在する。
京都 貴船神社の旧祠官 舌氏は先祖が牛鬼であるという系図をもっていた。
阿波 名西郡焼山寺山(四国霊場十二番)の鬼ヶ城に住む鬼城氏も鬼の子孫という。
紀州の粉河町の奥に中津川市(紀の川市)の里謡に
”千両くれても中津川はいやよ 鬼の巣じゃもの 谷じゃもの”
と謡われる。
西野、前坂、亀岡、中川、中井の五氏も鬼の子孫という。旧幕時代には免租、帯刀、総髪を特権として認められていた。
鬼の子孫として有名なのは、京都洛北の八瀬の里がある。
古くからここの住民は、八瀬童子とよばれて禁裏の御葬儀に奉仕し、総髪、鉄奬付けの異容な姿をなしていた。それが比叡山の法会に出ては「鬼喰い」をなし、鬼童(おにわらわ)とよばれたといわれる。
村の西側に「鬼の洞」という大きな洞窟があり、毎年お盆の七月七日から十五日まで、その入り口に村人が集まって鉦鼓を鳴らして念仏した。これを「鬼の洞念仏」「先祖祭」とも称したと、江戸期の『俳諧歳時記』に載せられている。
【鬼の子孫】
鬼は、修験道や山岳宗教に関係がある。山神の化身としての鬼と密接に関係する。
東北地方のナマハゲは、男鹿半島の本山や岩木山、恐山などの霊山から出てくる。
前鬼後鬼は大峰山の山神が役行者の行力に鬼が服属して従者になったものの子孫。
酒呑童子のような鬼から無名な鬼までが籠る岩屋が山中にあるのは、鬼の山神信仰に大きく関係がある。
・祖霊は山神となって山にこもるという信仰。
・洞窟は霊魂があの世と現世に往来するとする信仰。
・鬼ヶ島が島や海岸にある場合はもう一つの他界観念を考えなければならない。
(五来重)
今後の課題である。
鬼を山賊や海賊や外国人として解釈する俗説にするような問題でないことは確かなことである。
これらみてきたことは、日本の古代以来の霊魂についての信仰がある。
伝説や神話には、たくさんの日本人のアイデンティティが含まれている。
天照大神や素戔嗚尊、大国主命や弘法大師信仰や浄土信仰、そういうものが生まれてくる文化的素地になっているのではないかと思う。
そのような日本人の大きな精神的基盤が鬼の問題に現れているのである。
三河設楽郡地方で行われている「花祭り」の鬼踊りをみてみたい。
「奥三河の花祭り」といって東栄町、豊根町、設楽町で行われ、国指定重要無形民俗文化財に指定されている。
花祭りは、鬼のうちで神聖な役鬼のひとつに「山割り鬼」(または山見鬼)がある。
五來重は「山回り鬼」(または山見回り鬼)と解釈されている。
「花祭り」の「山立て」の行事は、もとは「白山(しらやま)=浄土」を割り開く役目を持つ。
山神が自分の領する山を見回る奥の旅から名づけられたと解釈する。
「山姥の山めぐり」もこれであると思う。
鬼の変形と思われているものに、天狗、護法、半僧坊、三尺坊などの霊物がある。
鞍馬山、愛宕山、葛城山、大山、白峰山、比良山、高雄山、富士山、羽黒山、秋葉山、英彦山、飯綱山などの霊山といわれるところに住むと信じられていた山神である。
そのもとは、祖霊が霊山にとどまり住むという古代の信仰に基ずく鬼である。
こうした祖霊は正月や節分や霜月の新嘗の夜に子孫の家や村に訪れると信じられていた。
したがって祖霊来訪を芸能化し、鬼に扮した人間が山から里へ来る形を年中行事化したのがナマハゲ系統の鬼であり、これを童戯化したのがホトホト、カセドリである。
鬼に扮して村や家の厄落としをおこなった人間は、古代では人里離れた山の中に住む特殊な山人だったのではないだろうか。
『万葉集』巻二十
”あしびきの山行きしかば山人の われにえしめし山づとぞこれ” (元正太上天皇御製)
この歌中にも出る山人は、里に出て鎮魂呪術をおこなう山の宗教家のようである。
この山人が一方では山中巨人伝説化して山男や山爺、山童などになり、他方では修験道化して山伏になったので、山伏の後裔に山神、すなわち鬼の家筋の系図が多いのも当たり前になる。
山の鎮魂呪術者が里に出て演じるのは、練道系の鎮魂行道と神楽系の鎮魂舞踏であったと思われる。
この舞踏に一定の型ができて鬼踊りとなり、なお一層高度に芸道化して、能の修羅物や歌舞伎の六方までに洗練された。
(五来重)
ともあれ、鬼踊りが純粋に宗教行事である以上、芸能的要素は第二義的な意味であるが、民衆はそれをまた求めたりする。
したがって悪霊を追い払い、荒らすさぶる霊魂を踏み鎮める呪術が表現されればよいのである。
すなわち型よりも精神であり、鬼役は真の鬼になりきって、不動明王や毘沙門天の本誓に住し、力いっぱい踊ることが求められる。それには精進潔斎の物忌みを真剣に行わなければならない。
そうすればその精神は、人間以上の力を発揮して神仏の功徳をみずからも受け、他に施すことができるのである。
[但馬 香住町森 前田家]
節分の夜に「鬼迎え」をする。
この聖夜、一家の主人が紋付、羽織袴の礼装で、町はずれの橋のたもとにまで鬼を迎えに行く。
「お迎えにまいりました」の口上よろしく、家に帰るとかねて作っておいた「鬼の膳」を床の間に供えて、その下手に主人以下家族が居並び、「ご相伴いたします」といってからご馳走の箸をとる。それから座敷に鬼の寝床を敷き、家族一同引き下がるのだという。
なので前田家では、「福は内、鬼は内」と豆をまくんだという。
しかしこれは、おそらく豆まきをせず、静かに夜を、慎んで籠ることが事実であると思われる。
前田家は、七軒株の一軒で、氏神の宵祭に大般若を自分の家で上げるほど格式があり、ここの氏神の三川権現(蔵王権現)を勧請した小野木氏の分家。
この氏神勧請は古く、
『奉重修三川権現宮一宇 干時応永十七庚寅卯月 吉辰 願主 小野木玄蕃正光(花押)』
の棟札がある。
しかも権現社の祭礼には、前鬼後鬼に扮し、神輿に供奉し、小野木氏(もとは鬼木氏または鬼城氏か)は前鬼後鬼の子孫という伝承を持つ修験の家筋の家筋になったのではないだろうか。
※前鬼後鬼の子孫という伝承をもった家や村は大峰山中の前鬼村や洞川村の例ばかりでなく全国にかなり多い。そして修験道に関係があるものである。
[大和 南葛城郡秋野村室 池田家]
節分の夜に主婦が蓑をもって村の四辻まで鬼迎えに行く習わしがあった。
この鬼は疱瘡神という。この式を「疱瘡神むかえ」というようになったというのは、おそらく後の変化で鬼も持つ恐怖と恩籠の二つの性格のうち、恐怖の面だけが強調されたため、疱瘡神や厄神といわれるようになったのではないだろうか。
[山形県 羽前・山寺の麓の山寺村とその付近]
香住の「鬼迎え」と同様な「鬼神の宿」の行事である。
〇山寺村芦沢部落 柏倉家の行事(舟野正氏『民間伝承』第十六巻十二号)
節分の夜に入浴を済ませた主人が、紋付羽織袴姿で村の入り口の橋まで迎えに行く。
「厄病の神様、早かったなす。おつかれだべす。なんほか寒かったべす。どうかおら家さござってけらっしゃい。おむけえに来たっす。]
という口上で家まで案内し、奥座敷で座布団をすすめ、用意の膳(年取りママ)を供えて
「粗末なもんですが、上がってけらっしゃい。来年も皆まめで稼げるよう守ってけらっしゃい」
と姿なき厄神に守護を祈願する。
そのようなことも変な話のようだが、厄神は恐怖と恩寵の二面を持った祖霊であるならば、少しも不思議でない。
恐怖と恩寵、懲罰と守護の二面をもつ霊格である点に注意しなければならない。
さて、食事が終われば、客用の寝具をのべて、その夜は誰も奥座敷へ行くことはできない。ただ主人だけは夜通し起きていて、夜の明けぬうちに奥座敷に行き、「暗いうちに立ってけらっしゃい」と言って橋の袂まで送っていく。(物語の鶏が鳴いたら帰らなければならないというのと、鬼と同じ)
橋から家までは、決して後を振り向かず、人に会っても口をきかない、という。この行事が厳重なモノイミ(潔斎)を必要としたことを物語っている。
この地方では、元日の晩に迎える家や、小正月の夜や2月8日(コト)の日の夜に迎えるという家もある。
元日と小正月と節分は、民間暦の上からは同じ「年取り」「年越し」であり、年神さんを迎える行事が中心になっている。
歳神さまといわれるものが先祖のミタマ、すなわち祖霊なのである。
したがって、鬼踊りの鬼というのも、この祖霊の恐怖的な面を表象したものあることがあきらかである。
『常陸風土記』の祖神尊(おおやのかみのみこと
『豊後風土記』の武塔神(むとうのかみ)
『祇園社本縁』の牛頭天王
弘法大師伝説によく出てくる「ダイシ」等
【鬼塚・豆塚】
先述したように豆には二つの意味がある。
〇 厄や穢れを移して捨てる意味
〇 これをヒイラギや松葉と一緒に火でくべて、その臭気とはぜる音とで悪魔を追い払う呪術
厄や穢れを移して捨てる(辻に捨てる場合が多い)例では。
辻というのは、人々が往来し、踏むことによって穢れや悪魔を消滅させると信じられた。
村境などに賽の神をまつった広場や塚があれば、それは厄と穢れの捨て場であって、また悪魔を追い出して村に入れない閉鎖、閉塞の場所であった。
その場所に警察官・ガードマンとして立って見張りをするのが賽の神である。
賽の神の役目について、クナド(勿来所)の神とも呼ぶ。
『古事記』 衝立船戸ノ神(ついたてふなどのかみ)
『日本書紀』 岐神(ふなどのかみ)または 来名戸祖神(くなとさへのかみ)
サヘノカミを「祖神」と書くことの意味について
先祖のシンボルの男根形の石棒をたてまつったからである。
イギリスの日本研究学者チェンバレンは「この石棒が実に多かった」と残している。
明治政府によって多く撤去されたが、日本各地の辻々にあったのである。
またそれ以前に、この石棒は二つの形に変化していく。
〇 男女神像の道祖神
〇 地蔵石仏
地蔵菩薩の円頂の比丘形は、男根形から変化しやすい。
石地蔵が子供と遊びたがったり、子供を守るという話は実に多く存在する。これは道祖神的な性格を示している。
「猿地蔵」の昔話も男根形からの地蔵尊を思わせる。
(田畑を荒らす猿に手を焼いたお爺さんが、お地蔵さんには悪さしないだろうと、お地蔵さんのかっこうに変装して畑に立つと猿たちは、山のお堂に祀ろうと担いでいき、地べたに置くのはもったいないと、千両箱二つのお宝の上に置き、お爺さんは思わぬ宝物をもらったと千両箱を持ち帰る。それを聞いた隣の爺さんは途中で笑ってしまい、川に放り込まれたという話)
京都の六地蔵信仰がある。
地蔵盆の六地蔵(山科口・木幡口・鳥羽口・丹波口・高雄口・鞍馬口)めぐりである。
奈良街道 大善寺 伏見稲荷
西国街道 浄善寺 鳥羽地蔵
丹波街道 地蔵寺 桂地蔵
周山街道 源光寺 常盤地蔵
若狭街道 上善寺 鞍馬口地蔵
東海道 徳林寺 鞍馬口地蔵
鞍馬口の地蔵尊は、もともとは菩薩池(深泥池・みどろいけ)にあったものが、神仏分離の際に上善寺に移されたもの。菩薩池というのは、池畔に地蔵菩薩を祀っていたことからきている。
『山州名跡志』(愛宕郡)
「御菩薩池、在二幡枝南一名義未ㇾ見二実記一、伝云、往昔此池面に地蔵菩薩現ずと。即同村村の内に六地蔵の随一を安置す。」
とあり、ここのはもと鬼塚、または豆塚というものがあって、菩薩池の村人の節分の豆をここに捨てに行った。
『山州名跡志』
大豆塚、在二池艮(うしとら)畔一、伝云、毎歳節分の夜、日本国中にうつ処の炒大豆を、鬼神取て此所に納ると。是則或社の本縁にあり。往古は塚上有二小祠一、と云フ。
ここにある鬼が日本国中の豆を集めてこの塚に収めるというのは少々大袈裟であるが、京都の人たちはここに節分の豆の厄を捨てに来たと考えても差し支えないと思う。
村の境の賽の神に厄を捨てに行くのは、鬼を追い出すことと同義で、京都七口の六地蔵のまつられたが、こういうことはどこにでもあった習俗であったと思う。
五来重先生は、深泥池付近から伝え聞いた話として「鬼塚には鬼穴というのがあて、節分の夜に鬼がこの穴から出てくるのを豆で打ち返すのだ」と。
『山州名跡志』に、この大豆塚の由来は「或社」の縁起にあるというのは、実は深泥池の氏神の貴船明神のことで、名跡志に「御菩薩池は木船神(貴船神)の領する処也」とある。
そしてまた「事は則ち彼の社の神秘の義といふ」と言ったのは、貴船神社を守る修験者が、節分には京都の街に厄払いに出向いたことの訛伝であったと思われる。
貴船神社の旧祠官が鬼の子孫という舌氏であったことに関係があったのだろう。すなわち鞍馬修験と同じ貴船神社を守ったのである。
その節分祈禱が鬼塚、または豆塚で行われたのではないか。
これと似た行事には、旧修験寺院の、三河・岡崎の滝山寺修験にもあり、住職が鬼塚に炒り豆を投げて、これが芽を出すまで出てくるなというのだそうである。
説経「小栗判官」より
小栗判官正清が鞍馬詣の途中で菩薩池の龍と契りを結び、その結果京都に災いが起こったために常陸の小栗郷に流罪となる。このような不思議な話、設定も、この池が貴船社(龍神)の所領で、ここに潔斎して鞍馬詣をする習俗を考えれば、当時の人たちは当たり前のことだったと思われるのである。